2026年05月31日「福音の前進に役立った」

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 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」 フィリピの信徒への手紙 1章12節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 1章12節~26節

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 先週の主の日、私たちは聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝を行いました。主イエスの昇天後、聖霊が教会に降られたことによって教会は力を得て、世界各地への宣教を始めたのでした。そのことがあったがゆえに、今日の私たちのところにもイエス・キリストによる救いの福音が伝えられて来ています。

1.キリストのために監禁されていても
 初代教会において、そのために大変大きな働きをしたのが使徒パウロでした。彼は主イエス・キリストが地上を歩んでおられる頃に選ばれた十二人の弟子たちの中にはいません。むしろキリスト教の迫害者であって、弟子たちを捕えて投獄する働きを担っていたほどです。しかし彼は復活して天に昇られた主イエスに捕らえられ、回心へと導かれ、さらに異邦人への宣教者となる使命を与えられたのでした(使徒言行録9章)。
 しかし宣教活動を各地で進めていくにつれ、イエスをメシア=救い主キリストであるとは認めないユダヤ人たちからの迫害を受け、殺されそうにもなり、遂にはローマで裁判を受けることになったのでした。このフィリピの信徒への手紙は、パウロが投獄され監禁されている中で書かれました(フィリピ1章12節)。その監禁されている場所がローマなのか、或いはその前に監禁されていたカイサリアなのか、エフェソなのか、と諸説がありますが、伝統的にはローマで、60年代の初め頃に書かれたであろうとされています。
 パウロは監禁されていますが、自分が監禁されているということが福音の前進に役立った、と捉えています。兵営全体にもその他の、すべての人々にもそれが知れ渡りました。パウロが捕えられているのはキリストのため、つまりキリストの福音宣教をしたためであると。主イエスを信じて主に結ばれている信徒たちの中で多くの者が、パウロが捕われていることを見てますます勇敢に御言葉を語るようになったのです。パウロが監禁されているのを見て、それによって恐れをなした、と考えるのが普通のような気がしますが、イエスを主と信じる者たちの間では違いました。逆に、福音宣教のために迫害を受け、捕らえられるような状況に陥ったとしても、そこで主からの力を受けて、怖気づくどころかいっそう勇敢になりました。それを通して、パウロにしても他の信徒たちにしても、福音宣教の力は人間から出ているのではなく、神から来ていることが明らかになったのです。

2.福音の前進に役立つなら
 さらに、もう一つのことがあります。パウロが投獄されたことを見ても、全く違う反応をする人たちがいました。片や、パウロが捕われていることを受け止めつつ、福音宣教がしぼんでしまわないように純粋な思いで宣教に当る人々がいます。他方、福音は宣べ伝えますが、パウロに対する競争心を抱き、自分の名を挙げようという動機で熱心に福音を宣教する者たちがいました。パウロに対する嫉妬心があって、そこから熱心さが出ているというのです。
 しかしこれに対するパウロの受け止め方は、キリストが宣べ伝えられているなら喜ぶ、というものでした。不純な動機であっても、伝えられているのがキリストならそれでよいと。口実であれ、真実であれ、と彼は言います。キリストを宣べ伝えるのが口実である、とは何ともよろしくないと思います。パウロは監禁されていて、今は宣教に当ることができません。その間に、自由な者たちが福音宣教をします。しかし一部の者はパウロの監禁状態を利用して自分の名を挙げようと考えている。パウロにとって福音宣教は自分の名を挙げるためなどではないし、自分の人生を充実させるための手段でもありません。生活の糧を得るためにその職を選んだのでもありません。人々から尊敬されたくてやっているのでもありません。ただキリストに見いだされ、異邦人への福音宣教のために使命を与えられたからです。彼は最初、一方的にキリストの迫害者の中から選び出され、逆にキリストを宣教する側へと召し出されました。しかし彼は主イエスが自分にとってどういう方であるかを知りました。イエスは自分のために十字架で御自身を献げて罪の贖いをしてくださった方で、自分の主だということがわかると、この方のために命を差し出して、すべてを献げるほどになり、それが自分の生きる道だと確信したのです。だから、他者の自分に対する評価がどうであるか、人と比べて宣教の業を自分がどれくらいしたかなどは、どうでもよいことでした。結果としてキリストが宣べ伝えられているならそれでよいと。福音が前進して福音を聞く人が一人でも多くなり、その結果、主イエスを救い主と信じて神を崇める人が起こされ、各地に教会が立てられて宣教が拡大すること。パウロはこれを第一に願っていたからです。

3.生きるにも死ぬにもキリストがあがめられるなら
 だからパウロは、不純な動機からキリストを宣べ伝える者がいるとしても、それを容認するどころか、キリストが告げ知らされている以上はそれを喜ぶのでした。そして、自分の身に何が起こってくるとしても、フィリピの信徒たちが祈ってくれており、そしてキリストの霊、即ち聖霊が必要を満たしてくださるので、遂には、自分は救いに至ることができると確信しています。パウロは自分が生きるにしても死ぬにしても、監禁されていてもいなくても、人々の間でキリストが崇められることを切望しているのでした。
 そういう心で福音宣教に当っているパウロは、自分もいずれはこの世を去るべき時が来ると知っています。そしてこの世を去ってキリストと共にいることが自分の熱望することであり、自分の願いという点からだけで言うなら、この世を去る方が好ましいとまで思っています。しかし、信徒たちのためには、まだ自分が生き残ってあれやこれやと教えたり助けたりする必要が次々に出てくることをパウロは知っています。だから、自分が生き延びてフィリピ教会を助けることは、この世を去ってキリストと共にいたいというパウロの熱望の度合いに比べても、その必要性は大きい、と言うのです。それは彼の確信でした。それが実現できれば、フィリピ教会の信徒たちの信仰を深めて喜びをもたらせる、と。ここで注目したいのは、「信仰を深めて」と言われている言葉です。この「深めて」という単語は、前進する、前に進む、という意味で、12節の「福音の前進に役立った」という「前進」と同じ言葉であり、そう訳している聖書の方が多いし、その方がここには相応しいでしょう。パウロは自分の投獄が福音の前進に役立ったと言っていますが、解放されてフィリピ教会の信徒たちのもとに行ければ、彼らの信仰を前進させられる、と思っていたわけです。しかしこれは実現しなかった可能性があります。しかし実は解放されなかったとしても、福音は前進しています。そしてフィリピ教会の信徒たちは、パウロの身に起こったことを知っていますから、既にパウロの願うことは実現していると言ってもよいわけです。
 パウロは1章26節で自分が再び姿を見せる時のことを想定して書いていますが、それが実現しなかったとしても、神はここでパウロが書いていることを既に実現してくださっている、と言えるのです。そしてそれはとても大事なことを私たちに教えています。私たちは自分が生きていて、これができればよい、これをぜひとも実行したい、と思うことがあります。これは信仰によって神に委ねて生きる中でのことです。それでも私たちは思うようにできないことが多いかもしれません。人間的にみると、出来なかったことは実現していない、ということに当然なります。会社などの事業であれば、計画はしても実行できなければ、評価されません。目に見える形としての結果が大事です。数字や形で表れていなければ、評価の対象にもなれないのです。しかし神の前では違います。
 この世的に見れば、パウロの願いが実現しなかったら、フィリピ教会の信徒たちの誇りは、増し加わらなかったことになります(26節)。しかしパウロが解放されなくて、このまま世を去ったとしても、キリストに結ばれているという彼らの確信と誇りは決して小さくなりはしない。むしろその信仰は前進するでしょうし、既に前進し始めていもいるのです。そしてパウロがこのように書いた手紙は、フィリピ教会どころか後々の多くの時代と国々の信徒たちの信仰をどれだけ前進させたでしょうか。今ここにいて、この手紙を読んでいる私たちも同じです。
 パウロは使徒だから特別だ、しかも使徒たちの中でも特別大きな宣教の働きをしたのだから、と言えるでしょうか。主イエスの十二弟子たちの中では、聖霊降臨後の働きが使徒言行録に記されておらず、パウロのように手紙が残っていない人の方が多いです。私たちはなおさらです。しかしではその人たち、また私たちは福音の前進に役立っておらず、関わってもいないのでしょうか。そうではなく、教会がこの世に存在している限り、福音の前進に携わっています。数が多いかどうか、どれだけ人数が増えたか、新しい会堂が建ったかどうか、という数字と形だけで判断はできません。パウロが他に書いた獄中書簡といわれるコロサイの信徒への手紙では、「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの所でも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(1章6節)、とパウロは書いています。前進どころか実を結んで更に成長しています。これは今日の教会にもあてはまるはずなのです。私たちは自分たちの目で見て数字で確認して、それでやっと前進できた、実を結べたと思いがちですが、神に信頼してその御業に委ねている教会では、それだけでは測れないものがあることを弁えましょう。福音を前進させ、私たちの信仰をも前進させて実を結ばせてくださるのは神だからです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(コリントの信徒への手紙一 3章6節)。

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