2026年05月17日「神がお望みになること」

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神がお望みになること

日付
説教
久保田証一 牧師
聖書
士師記 13章19節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

 「もし主が私たちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうしたことをお告げにもならなかったはずです。」士師記13章23節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
士師記 13章19節~25節

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 士師とは、「さばきつかさ」とも訳されます(新改訳2017のルツ記1章1節)。漢字で士師と表わされ、これは中国語の聖書に由来します。漢和辞典によると「中国、周代の官名の一。刑罰の任に当たった役人」という説明があり、二つ目に旧約聖書の士師のことが書かれています。旧約聖書の士師時代は、モーセの後継者ヨシュアの死後、イスラエルに王が立てられるまでの間、民を裁き、敵から救い出すために、主がお立てになった何人かの士師たちによって治められた時代で、国として整う前、王がいないので国としての統制が取れていない時代です。

1.サムソンの父と母
 士師記には、何人もの士師たちが登場しますが、記述が簡単に済ませられている士師たちと、物語の形で詳しく書かれている士師たちがいます。エフド、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソン等はまとまった話として描かれており、特にギデオンとサムソンが目立ちます。今日、新約聖書を無料配布する、ギデオン協会という伝道団体があります。
 今日の朗読個所は、サムソンが生まれる前に、神のみ使いがサムソンの誕生を予告しに来た時のことです。主のみ使いはまずサムソンの父親となるマノアの妻のもとに現れます。彼女は子を産んだことがなかったのですが、み使いは彼女が身ごもって子を産むと告げます。彼女はその姿を見て大変恐れを抱きながらも、夫にそれを知らせます。マノアが主に祈ると主は再びその御使いを遣わし、また妻のところに現れたのでした。そこで妻は夫を呼びに行き、今度は夫も御使いの告げることを聞きます。そしてマノアが主のみ使いに献げ物をした時のことがこの19節以下です。
 マノアが祭壇で献げ物を献げると、祭壇からの炎が上り、主のみ使いも天に上って行きました。マノアは目の前にいる人が主の御使いであると知らずに応対していましたが、この時に初めて主のみ使いであると悟り、彼は「私たちは神を見てしまった」からには死なねばならない、と言います。ここには、人は神を見ることはできない、そして神を見た者は生きてはいられない、という考えがあります。主はかつて言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と(出エジプト記33章20節)。その理由は言われませんが、それほど神と人との間の隔たりは大きいのです。新約聖書でも、使徒パウロが書いています。「神は、~だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です」(テモテ手の手紙一 6章16節)。
 そして主のみ使いを見ることは神を見ることと同じことのように見なされていましたので、士師記に登場するギデオンも、顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまった、と恐れの言葉を口にします。しかし主は、「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない」と言われました。ヤコブは、神の御使いと格闘した際、自分は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言いました(創世記32章31節)。このように、人は神の御使いを見ることは神を見ることと同じことと考え、人は神を見ることはできず、見たら死ぬことになる、という理解をしていました。しかし実際、神の御使いが多くの人に現れましたが、御使いを見ただけで死に至った人は旧約聖書には出てきません。

2.神を見てしまったから
 マノアと妻は御使いが天に上っていくのを見ましたが、二人の反応は対照的です。マノアは、先ほど示したような旧約聖書の実例に則って、自分たちは死なねばなるまいと言って覚悟しました。しかし妻は違います。彼女は冷静に出来事を見ています。もし主が私たちを死なせようとお望みなら、私たちの手から献げ物をお受けにならず、このようなことを見せることも、告げることもなかったであろうと。マノアは、これまで知らされてきた過去の出来事と教えに基づいて判断したことを言いました。確かに彼が死なねばならない、と覚悟したのは、聖書の教えからすると間違ってはいないかもしれません。しかし彼は、神が何をお望みなのだろうかということを考え巡らしてはいなかったわけで、それをしていたのは妻の方でした。妻は、自分が男の子を産む、と告げられたのですから、その自分が死んでしまってはいったい何のために御使いは告げに来たのか、ということになります。当然のこととも言えます。しかしマノアはそのようなことを考えず、ただ神を見た者は死ぬ、という固定観念に留まっていたのでした。
 ここに、神の御業と御心をどのように捕えようとするかの違いが出ていました。しかしこのことは単純に、男性はこうで、女性はこうだ、という男女の違いを教えているわけでもありません。マノアとその妻は、神を信じる信仰によって生きていた人たちであったことは、22、23節の言葉を見ればわかります。マノアは神を畏れる人であること、その妻は主の御心を積極的に受け止めようとする前向きな信仰を持っています。この二人の言葉をみると、同じように神を主と信じて畏れ敬う人たちでしたが、出来事の受け止め方が違いました。

3.もし主がお望みなら
 マノアは、神を見た者はなお生きていることはできない、だから自分たちは死なねばなるまい、という固定した考え方に留まっていますが、彼の妻は違いました。神の御心はどこにあるのだろうかということを出来事の推移の中で捉えようとしています。マノアの妻の方が事柄を見て、柔軟に判断していたのでした。マノアは自分の知識に基づいて、それに照らしてみた時に、神を見てしまった、即ち死ぬしかない、という判断しかしなかったのです。
 マノアの妻は御使いの告げたことを始めは一人で聞いておりましたが、生まれてくる男の子をどのように育てる必要があるかも聞いています(13章4、5節)。ただ子を産むというだけではなく、育てることも前提して告げられていたのですから、彼女の言い分は、もっともなことです。私たちは読者として御使いと彼女のやり取りを読んでいますからそのように判断するのは容易いかもしれません。しかしマノアからすると、主の御使いの姿を見、しかも炎と共に天に上っていってしまったのですから、それを見て冷静ではいられなかったとも言えるでしょう。しかしやはりマノアの妻は、事のなりゆきを良く把握できる人でした。それは千数百年後に、サムソンにはるかにまさる大いなる救いの御業をなさる方がお生まれになる前に、それを聞いたおとめマリアに通じるものでもあります。マリアは事の次第をよく思い巡らして心に留めておくことのできる人でした。
 それだけではなく、マリアが生んだ男の子である救い主イエスは、「わたしを見た者は父を見たのだ」(ヨハネによる福音書14章9節)と言われました。イエスの父とは神のことです。人が本来見ることのできない神を見ることができるように現れてくださったのが神の御子イエス・キリストです。先ほど引用したように、神は「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と言われました(出エジプト記33章20節)。しかし神の御子は、御自身を見た者を死なせるためではなく、真に生かし、しかも永遠の命を与え、神の御業にあずからせるためにこの世に来てくださり、私たちに御自身を現してくださいました。
 今日の私たちは、肉眼で主イエス・キリストを見てはいません。しかし神の聖霊が私たちの内にいてくださって、神の御子イエスを私たちに明らかに示してくださいました。それは神を見た、と言っても過言ではありません。主なる神は、肉眼で見ていなくても、信仰によって御自身を見る者のことを喜んでくださいます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブライ人への手紙11章6節)。つまり信仰によって神を信じ受け入れる者を喜んでくださるのです。マノアの妻は、それを感じ取っていたとも言えます。マノアはそのような捉え方ができていませんでした。しかしマノアも、彼の受け止め方について別に咎められてはいません。妻と共にいたことによって、彼もまた妻の言うような信仰による判断に至れました。しかしマノアの妻も、この後サムソンが成長していき、ペリシテ人の娘を妻にしたいと言い出した時、それが主の御計画であることまでは夫と共にわかりませんでした(14章4節)。
 こうしてみると、今日、私たちは救い主イエス・キリストを、はっきり示され、神が私たちに対して望んでおられることを聖書の御言葉により教えられ、聖霊によって心の内に悟らせていただいていることがいかに幸いかがわかります。それは神の御言葉を聞いた私たちが、神の御子イエスによって永遠の命を受け、新しい命をいただいて神と共に生きる者となることを神がお望みだからです。私たちはそのような大いなる恵みをいただいています。この世に生きている限りはまだ、様々な困難や人間的には災いと見えることや、病も労苦も、さらには死も私たちは味わいますが、それは神と共に生きる永遠の命に至る道の入口にあるこの世で一時与えられるものです。使徒パウロは、それは「一時の軽い艱難」だと言い切っています(Ⅱコリント4章17節)。そしてそれとは比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれると続けています。そのことは、マノアの妻が理解したように、私たちに御子イエスを示してくださり、私たちの礼拝を受け、御言葉を語り告げ続けてくださっていることからもわかります。救い主イエスを信仰によって見る私たちを救い、永遠の命を与えて生かすことを神はお望みになっておられるのです。

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