主の御心を知って備える
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- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 12章41節~48節
「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」ルカによる福音書12章48節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章41節~48節
主イエスは、信徒たち皆に、目を覚まして主を待ち望むべきことを、婚宴に出かけた主人とそれを待つ僕たちのたとえで教えられました。主は必ず戻ってこられるけれども、具体的な時期はいつになるかわからないことを示されました。そして私たちは、主が再び来られるのを心待ちにする僕であること、そして戻って来られた主御自身が、食事の席で給仕までしてくれるような驚くべき仕方で迎え入れてくださる、と約束してくださったのでした。
1.忠実で賢い管理人はだれか
その後で、ペトロはこのたとえが自分たち使徒のためか、それとも主イエスを信じる弟子たち皆のためなのかを聞きます。すると主イエスは特に立てられている者たち、即ち使徒たちのために語り始められました。この時は十二弟子たちのためでしたが、このルカによる福音書を読むすべての時代の人々にとっては、教会において指導的な役割を担う長老たち、つまり教会の役員とされている者たちへの教えとなっています。
「管理人」のたとえでは、管理人は時間通りに食べ物を分配するために立てられました。その下には召し使いたちがいます。管理人は自分のやりたい時に好きなだけいい加減に配るのではなく、定められた時に、適切な分量を分配しなければなりません。世の中の仕事もみな同じです。自分の気分次第で行うわけにも、自分の気持ち次第で分量を適当に変えたりするわけにもいきません。世の中の仕事も、主人という立場にある人がいて、組織内で上に立つ人がいます。教会では、主人と言えば教会のかしらである主イエス・キリストです。人ではなく、神の権威を持つお方が選んで立てた者たちが治めるのが教会です。今日、教会では長老・執事たち、そして教師即ち牧師たちを立てるには、選挙による投票を行います。教師の場合には正式に任職されるための試験がありますが、その有資格者の中から教会に招くためにはやはりその教会の会衆による選挙が必要です。そうではありますが、やはり教会で立てられる務めは、神である主、教会のかしらである主がお立てになった者として受け止めます。管理人は、最終的には自分をお立てになった主から責任を与えられており、その主に対して責任を果たすべきなのです。
なぜなら長老たちなど教会に立てられていてそれぞれの務めを与えられている者は、聖霊によって立てられたもので、使徒パウロは次のように言っています。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者にお立てになったのです」(使徒言行録20章28節)。神が教会に集められた群れは、神が御自分のものとしようとして、独り子である御子イエスを十字架につけ、その流された血によって贖い取られたものです。神が犠牲を払われて御自分のものとされた者たちを治めるために立てられたのが管理人たちです。管理人たちはそれほど大事な人々を、主からゆだねられた権威のもとに養い治める役目をいただいています。こんなに重要な務めは、自分からやらせてください、と人が願い出てできるようなものではないのです。それにも拘わらず主なる神は、あえて人を管理人として立てておられます。それを弁える忠実な賢い管理人に対しては、主人は全財産を管理させるに違いないと主は言われます。これはその報いが大変大きいことの表現です。
2.主人の思いを知りながらそれに応えない僕
しかし、逆に主人の帰りは遅れると思い、下の者たちにひどい仕打ちをし、食べたり飲んだりして自分の楽しみを追い求める者だとしたら、主人は思いがけない時に帰ってきて、その僕を厳しく罰します。思いがけない時というのは、その僕が主人の帰りを予想していつ帰って来ても良いように備えていないからそうなるのであり、もし備えているなら、たとえ帰って来る具体的な日時がわからなくても、それは思いがけない時にはなりません。
そして、そういう僕は他の不忠実な者たちと同じ目に遭わせられます。この不忠実な者たちとは、不信仰な者たちのことです。これは大変恐ろしいことで、こういう僕たちは、元々主人の期待に応えることなど始めから考えておらず、主人の意図は無視して、自分のしたい放題にしているわけで、だから「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなこと」をして過ごすのです。
その次に、主人の思いを知りながら何も準備しなかった僕あるいは主人の思いどおりにしなかった僕、そして、知らずに鞭打たれるようなことをした僕が出てきます。この二種類の僕たちは先ほどの厳しく罰せられて不忠実な者と同じ目に遭わせる、と言われている者たちとは区別されています。知らずにいる、というのはたとえ話の管理人には当てはまらないからです。しかし、この47、48節で言われていることは、ここでの主イエスのお話の結論的なものになっていて、私たちはここから聞くべきことがあります。主の思いが示されているのです。
3.主の思いを知らされ、多く与えられ、任された者
主人の思いを知っているのに何の準備もしなかった僕、或いは主人の思い通りにしなかった僕はひどく鞭打たれますが、主人の思いを知らずに鞭打たれるようなことをした者は、撃たれても少なくて済みます。同じ僕でも、その僕の行いに対して、程度の違いのある罰が与えられます。主人の思いを知っている者は、教会の指導的立場につかせられている者。知らずにいた者とは、一般信徒の中で,まだよく主の御心について悟っていなかった者を指します。
このたとえ話で教えられる、目を覚ましていることと、主の御心を知ってそれに対して備えをしていること。これらの教えの中心は、私たちが各々どんな立場にあるとしても、主の御心を弁えて戻って来られるその時を心待ちにして、備えていなさいということです。特に管理人の立場を与えられた者たちは、それを自分のために悪用することなく、不忠実に過ごすことなく、備え続けている必要があります。
特にここでペトロが主イエスに尋ねたのは、自分たち使徒たちに特に言われたのかどうかでした。使徒たちに与えられた最も大事な務めは何でしょうか。それは、彼らがもっぱら祈りと御言葉の奉仕に専念することです。後に使徒言行録六章で日々の分配のことで生じた問題に示されています。ここでの分配は、やはりおもに食料のことです。それを使徒たちが担っていましたが、一部の人たちから苦情が出ます。その対応を、使徒ではなく他の者たちが担うようにしました。主イエスのたとえ話では、管理人は食べ物の分配をしますが、教会で最も重要なものとして分配されるのは、神の御言葉でありその説き明かしです。教会が、困っている人に助けの手を伸ばすことは重要ですが、御言葉の分配が軽んじられたり、脇に押しやられたり、少ししかなされなかったりしたら、それは管理人として本来の務めをしているとは言えません。
また、管理人がそれをせずに、下男や女中という人々を虐待したりこき使ったりして自分は楽をし、私腹を肥やし、自堕落にしているなら、それは不信仰と同じです。それでは神の御言葉は必要な人々に全く分配されることはなくなってしまいます。実際教会の歴史の中でそのようなことも起こりました。今の時代、私たちもまた教会を立てられた主の思いは何であるかを尋ね求めます。地上で私たちの救いのために必要な御業をなし遂げて天に昇られた主イエスは、再び世に来られ、そしてすべての御業を成し遂げて御自分の民の救いを完成されます。再び来られるのは、御自分の者たちを御自分のもとに迎え入れるためです。それが私たちの主なるイエス・キリストの思いです。その間、地上の教会に、管理人の役目をある者たちにお与えになりました。その主の思いを知りながら準備しなかった者と、主の思いどおりにしなかった者はどちらもひどく鞭打たれます。主の思い通りにできない。それは罪と弱さを持つ人間にありがちなことですが、主は賜物も備えてくださいました。決して無理な要求をしておられるわけではありません。
だから多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。管理人という職を与えられた者はそれだけでも多く求められます。更に賜物を多く任された者は多く要求されます。しかし主は決して与えてもいないものを要求されるわけではありません。主は、罪の赦しと永遠の命を恵みとして、即ち無償でくださいます。管理人の務めは神の国の完成へと向かう地上の教会を治め養い、守るための役目です。だから私たちは、恵みとして素晴らしい神の国をいただいているがゆえに、それに応えて自分の務めを果たしていくのです。
時間どおりに食べ物を分配する大事な務めを担う者が、地上の教会に起こされ立てられ続けていくように、今立てられている者はいっそうその務めを良く果たし、すべての主を待ち望む者もまた、同じように目を覚まして主のお帰りを迎えられるよう備える僕たちとして歩み続けられるよう祈ります。終わりに、使徒パウロが書いた手紙から、祈りの言葉を共有します。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。~」(エフェソの信徒への手紙1章17、18節前半。さらに19節まで)。
