目を覚ましている僕
- 日付
- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 12章35節~40節
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」ルカによる福音書12章40節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章35節~40節
主イエスは、主を信じるしもべたちがどのようにして待つべきなのか、それを教えておられます。それは主イエスが十字架の死後復活されて天に昇り、再び来られるのを待つクリスチャンたちの心備えです。
1.腰の帯を締め、ともし火をともして
今日の箇所は、35節から48節の大きなまとまりの中の前半部分です。並行記事のマタイによる福音書の二四章では、二つに分かれていませんが、ルカの方では、41節でペトロが自分たち弟子たちのための教えなのか、広くみんなのためなのかと聞いており、そこで分かれています。40節までは広く信徒一般に対して、そして41節以下は、特別に立てられている弟子たちのためです。彼らのことを主イエスは使徒と名付けられました(6章13節)。主イエスがお選びになって、御自身のもたらした神の国の福音を告げ知らせる務めを受けた者たちへの教えです。
それで、今日の箇所は主イエスを信じる者一般に対しての教えです。再び来られる主イエスを待ち望む者は、婚宴から帰って来る主人を待つ僕のようにしていなさい、と主は言われます。ところが39節では、泥棒のことを引き合いに出しておられます。それは、主は再び来必ず来られるけれども、それがいつになるかは僕たちにはわからない、ということです。家の主人は、婚宴に出かければ必ず戻ります。しかしそれが真夜中か、夜明けか、わからない。また泥棒もいつ来るかはわからない。だからいつその時が来ても準備ができているようにしていなさい、というのです。
その姿をよく表すのが、腰の帯を締め、ともし火をともすことです。裾の長い服を着ていれば、動きやすいように腰に帯を締めて裾を引き上げます。そして夜中になって主人が帰ってきてから慌てて火をともすのではなく、予め火をともしておく。当然予備の油の用意しておくでしょう。十人のおとめのたとえに通じます(マタイ25章1節以下)。
そして、僕たちはどんな思いで主人の帰りを待っているのでしょうか。きちんと用意をして待っていないとひどく叱責されるから、それが怖くて目を覚ましているのでしょうか。そうではなく、主人の帰りを心から待ち、帰って来た時に快く家で休んでもらいたいからではないでしょうか。これは私たちが主イエスを待ち望むのも同じことです。
2.主人が給仕してくれる
そのようにして目を覚ましている僕たちは幸いです。主人はそのような僕たちを見て、逆に食事の席に着かせて給仕をしてくれる、と主イエスは言われます。しかしこれは通常あり得ないことです。主イエスも別のたとえ話では、しもべが一日の働きを終えて畑から帰って来た時、主人はまず僕に対して、腰に帯を締め、食事の支度をして主人の給仕をし、それから自分の食事をするように命じる、と言われました(ルカ17章7節以下)。それが普通のことであって、僕としての心がまえそのものを教えられました。
しかし今日の箇所では、主人が自ら腰に帯を締めて給仕をしてくれる、という驚くべきことが起こるというのです。そしてこれは、やがて神の国が完成した時には、主イエスが自ら給仕をするかのように、主イエスを信じて心待ちにしていた者たちに、そのように振舞ってくださる、というたとえです。だからこのたとえ話は、この世の日常生活の中で、僕としてこのように振舞えば、主人もそのようにしてくれるだろうから、という期待を持たせるためのものではありません。また、この世の中での僕としての職務上の心構えを教えているものでもないわけです。僕たちの、主人を迎えようとする心を主人が喜ぶ、という一点を示すためのたとえです。
これは主イエスが十字架にかけられる前に、弟子たちの足を洗われたことを思い出させます。主イエスは、御自分が十字架にかけられる時、そしてやがて天の父のもとへ移る時が近づいたことを悟って、弟子たちを愛され、そして上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、彼らの足を洗い始められたことがありました(ヨハネ13章3節以下)。主イエスは弟子たちからすれば先生であり、主であられます。その方が足を洗う、という普通は召使が行うはずのことをされて、それを見た弟子たちも同じようにしなさい、という教えを身をもって示されたのです(同14節)。
それ故、たとえ話の中で、僕たちのために帯を締めて給仕をしてくれる主人というのは、主イエスのことを映し出しているわけです。そういう主人である主イエスを今の私たちは待ち望んでいるのです。
3.人の子は思いがけない時に来る
主イエスは「人の子は思いがけない時に来る」と言われました。人の子が来るとは、主イエスが「帰って来る」ということです(36節)。十字架にかけられ、殺されるけれども復活して天に昇られたけれども、やがて世の終わりに御自分の者たちを迎えるために帰ってくる、その時のことです。主イエスは「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14章3節)と同じことを言われました。
先ほども言いましたが、婚宴に言った主人は必ず帰ってきます。何時頃になるかはわからないけれども、必ず帰ってきます。しかし泥棒はいつ侵入してくるかわかりません。しかしいつ来ても良いように備えておく必要があるわけです。だから主イエスを、再び来られる方として待ち望む主の民は、必ず来られるけれども、それがいつになるかはわからないから、いつ来られても良いように備えておく。それが主を待ち望む者たちの姿勢なのです。
思いがけない時に来られる、とは言われますが、実は主イエスは世の終わりのことを教えておられるところで、ある程度の手がかりをくださっています。世の終わりに再び御自身が来られる時には、キリストを名乗る者が現れて、自分がキリストだ、と言って多くの人を惑わし、戦争の騒ぎやうわさが起こり、方々に飢饉や地震が起こるけれども、それは産みの苦しみの始まりであると(マタイ24章3節以下)。そして主に連なる者たちは迫害を受け、殺され、憎まれ、中にはそれにつまずいて憎み合うことすら起こります。そして偽預言者も現れて人を惑わし、不法ははびこり、多くの人の愛が冷える。そして福音が全世界に宣べ伝えられ、それから終わりが来ます(同14節)。こういう大筋を主イエスは示しておられますが、具体的にそれが西暦何年のことなのかは誰にもわかりません。
では、今日の全世界の様子、キリストを名乗る偽預言者、国家間の争い、自然界の種々の地震などの大災害や飢饉などを見ると、もうそれらはすべて出揃っているようにも見えます。しかしこれまでの人類の歴史の中で、こういう数々のことはそれなりにいつも起こっていました。しかしなお、この世界はまだ保たれています。神の国の福音が全世界に宣べ伝えられるのは、どの程度で判断するのか。それは神のみがご存じで、神がお決めになることです。私たちが勝手に、早急に判断してしまうことはできません。しかしだからと言ってまだまだ世の終わりが来ることはないだろう、と高を括っていることもできません。そうやって油断している間に、主が定められた終わりの時が来ないとは誰にも言えないのです。だから私たちにできることは、用意して待っていることです。しかし用意しているから、この世での生活や仕事や、日頃行っている生産活動や人を助ける働きなどを、放り出して良いことにはなりません。
私たちは、腰の帯を締め、ともし火をともしていなさい、と命じられています。ともし火をともすことは、たとえ話の中では主人を目覚めた状態で迎えるための備えそのものを表していましたが、今や、私たちにとってともし火とは、主の御言葉そのものです。使徒ペトロは主イエスの子のたとえ話を目の前で聞いていましたが、後に手紙に書きました。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」と(ペトロの手紙二 1章19節)。
預言の言葉、神の言葉はこの世に生きる私たちに実に多くのことを語っています。旧新約聖書は大変分厚く、全部読み通すのに多くの時間がかかります。しかし私たちは教会の礼拝毎に聖書の教えを聞いています。様々な教えがありますが。この世界全体がどうなっていくのか、私たちはこの世にあって、どのようにこの世界を受け止め、日々生活していくのか、そういうことの土台となることを神の御言葉は教えてくれています。それをともし火として掲げて歩みを進めていきます。ともし火は車のヘッドライトのように遠い先まで照らしてはくれませんが、その場を、そして私たちが知るべきことを知らせ、神の真理を照らし出してくれています。世には様々な声が満ち溢れ、神の御言葉というともし火よりも、あれもこれもと私たちの感覚を刺激して引き付けようとしています。そういう中で、目を覚ましている僕たちの中で共に待つ、ということもまた大変大事なことです。皆、一人の主を仰ぐ僕ですから、僕たちが共に主に連なる者として励まし合いながら、それぞれが与えられた場で、なお教会のための務めと、この世での務めとを行っていきます。主は必ず来られます。世に再び主が来られる前に私たちがこの世を去るかもしれず、その可能性はとても高いですが、その時がいつ来ても良いように備えることもまた僕にとっての大事なことです。そしてどちらが先だとしても、主イエスは私たちを天の神の家に迎え入れ、共に食事の席に着かせてくださるのです。
