2026年04月26日「人の知識を超える愛を知る」

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聖句のアイコン聖書の言葉

 「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」エフェソの信徒への手紙3章18、19節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 人が生きていく上で最も大事なものは何でしょうか。命、健康、お金、家族、愛、等々いろいろ出てくるでしょう。今日の箇所では、私たちは人の知識を超える愛を知るようになる、しかもそれはキリストの愛である、と、言われています。この手紙の中で、使徒パウロは祈りの言葉を書いています。それは切実に求めるべきものだからそれを書いているわけで、彼は三つのことを祈っていますが、その中に私たちにとって本当に必要なことが示されています。

1.父なる神から来る「家族」という名称
 ここは、「こういうわけで」と書き出しています。パウロは13節までで、神がキリストによって実現された永遠の計画により私たちがキリストに結ばれ、そして神に近づけるようにされている、と書いてきました。神の永遠の計画によってあなたがたはキリストに結ばれている。その素晴らしい恵みがあるので、あなたがたのためにさらに祈るのだ、と言っています。パウロが宣教者であるがゆえにいろいろな苦難を受けているのを見て、信仰者として歩むのは何と大変なのだ、と思って意気阻喪したり落胆したりしてもらいたくない。そのために祈る、というのです。
 さて、ここでパウロはこれまで所々神のことを「御父」と呼んできました(1章17節、2章18節)。大抵は「神」と呼んでいますが、この神はキリストの父であり、キリストにおいて私たちの「御父」でもあるのです。そして、御父という呼び名から「家族」という概念について特に語っていきます。それは少々唐突な印象を受けるのですが、永遠からおられる天地の創造主なる神が、キリストにあってはあなたがたの「父」なのだ、その方のうちにあってあなたがたは救われ、愛され、神の豊かさに与らせていただいているのだ、と言いたいのです。
 そもそも、世の中に「家族」という概念があるのはなぜでしょうか。人は両親から生まれ、そしてその親のもとで育てられます。そして物心ついてくると、それが家族と呼ばれる単位であることを知るようになります。いつも一緒の家で過ごし、朝、学校に出かけて行っては帰って来て、共に過ごす。そして友達にはそれぞれ帰る家があり、そこに家族がいると知ります。それは通常は肉親ですが、必ずしも血がつながっていない場合もあります。それでも家族と呼ばれます。この「家族」という名称とそのつながり。これは天地の主である神がまず神の御子キリストの御父であり、さらにキリストにつながる私たちにとって父であるという意味があります。そして、そこから家族という概念が生まれています。これは少し広げて考えてみると、私たちはこの世で一つの家族を構成して、とても大事なものとして受け止め、かけがえのないつながりとして尊んでいます。それは本来神が私たちの父であられるという所から来ていることをよくよく覚えるべきなのです。そして創造主であるが父であられることから由来して、天と地にあるすべての「家族」がその名称を与えられているのだ、と。このことは、私たちが地上で与えられている家族、というものを改めて見直させられることです。特に教会ではキリストを主と仰ぐ者同士、兄弟姉妹と呼ぶことは教会に来始めて知りますが、そもそも家族、という概念自体が御父である神から来ているのです。この世の家族も、それ自体、神が父であられることを知らず知らずの内に証ししていたというわけです。だから、私たちは、地上の父たちについての印象、思い描く像は、御父である神から来ているものです。逆に地上の父親の印象から神を父のような方、と見るのではないのです。しかし人間の父親は罪人で、神が父であられることを十分に現わしてはいない面があり、父であるのにその責任をちゃんと果たしていない場合などがあるのはそのためです。

2.キリストの愛を知るように
 その御父は、父として私たちに何をしてくださるのか。それをパウロは16節以下で述べてゆきます。まず御父は、キリストによってあなたがたの内なる人を強めてくださいます。内なる人と言いますが、では外なる人は何でしょう。それは目で見て、手で触れるもの、種々の感覚によって感じ取れるものであり、この世で私たちに与えられている、例えば性別、民族、国籍、健康、社会での立場や職業、名声、などです。それに対して内なる人とは、この世の通常の感覚ではつかめない神の前での自分の魂、神への信仰、神の聖霊によって導かれている霊としての自分です。人から見てどのように評価されるとか、外見で判断されるものではなく、神のみが見ることのできる、私たちの真の姿です。その内なる人に神が御父として働きかけてくださることによって私たちは信仰を持てるのです。
 そして神は私たちの心の内にキリストを住まわせてくださいます。これは主イエスが天に昇られる前に弟子たちに語られた、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)という約束を違う角度から言ったものです。愛に根ざして愛にしっかりと立つ。御父である神が、主イエスをお遣わしくださり、その十字架の死と復活によって私たちを罪から救い、神の子どもの内に加えてくださいました。それは御父が私たちを愛して、罪による滅びから救い出そうとされたからで、その大いなる愛によって生かされていることを土台として歩む者となることです。
 天の御父である神が、その御子イエス・キリストによって私たちを愛してくださっています。私たちはその愛に留まり、その愛により頼んで生きる者とされているのです。使徒パウロは別の手紙で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と書いています(ローマの信徒への手紙5章5節)。聖霊は、私たちに、キリストは私の主である、という信仰を与えてくださいますから、その信仰に立つ人は、その心の内にキリストが住んでいてくださいます。そして私たちの内に、キリストへの愛が生じてきます。それは、キリストを通しての天の父である神に対する愛です。それは聖霊がくださる信仰ですから、大変強いもので、この世の種々の力や知恵がそれを否定して、私たちを神とキリストから引き離そうとしても、実現しません。この世の生活では、性格的に弱い人も、人の前で発言するのが苦手な人もいます。たとえそうであっても、その人の内に神の愛が注がれているなら、それを人間が取り除いてしまうことはできません。信仰を崩すことはできないのです。

3.神の満ち溢れる豊かさにあずかり、満たされるように
 パウロは次に、この神の愛の内に留まるだけではなく、さらに神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかれるように、と祈ります。神の豊かさのすべてにあずかる、とはいったいどんなことでしょうか。そんなことが人間にできるでしょうか。それは人間のなしうることではありません。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解すること、その愛を知ること、そして神の愛の豊かさによって満たされる。これは言葉の上だけでは、実感としてはわかりません。
 しかし、もしこの世で私たちがそれを全然実感できないのだとしたら、パウロはこのような祈りを献げる意味がありません。決して実現しないことを祈るなどということは、聖書の教えの中にはありません。私たちがそのキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ろうとしたら、聖書を通してイエス・キリストが私たちのために御自分を残酷な十字架刑に引き渡してくださったことを知らねばなりません。しかし、それを受けられたのは、創造主なる神の御子であられます。その方が人となって生まれ、人間となって心も体も持ち、私たちと同じように痛みを感じられました。十字架の上で父なる神に叫び声を上げるほどに厳しい苦しみを味わわれました。それは、その苦しみを通して、その死によって私たち罪人の罪を償うためでした。そこにキリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さが現されています。それは人の知識をはるかに超えるものであるけれども、知ることができます。私たちがこうして神とキリストを知る、という時その知識は、一つの事実を覚えて記憶に留めただけではなくて、私たちの内で躍動するかのごとく働き、祈りと賛美と感謝などの神との人格的な交わりを通して豊かになっていくのです。神の豊かさのすべてにあずかり満たされる、そこに至る知識について、パウロは既に一章で書きました(8、17~20節)。そして究極的にはすべてが完成する時が満ちて救いの業が完成されます。その時こそ、すべてにおいて満たされることになります。
 このことは、3章に至って20節以下で触れるように、私たちの内に働く神の御力によりこの驚くべきことを確かに実現してくださいます。私たちが求め、思うこと「すべてを、はるかに超えて」かなえられるのが神です。私たちがキリストによって神を御父と信じる内容が、人間の知識で想像できる想定内のことなら、その信仰は大したことではないでしょう。天地の主である神は、人間が考えた末に、こんな風になったら良いな、こんな風に幸せになりたいな、と想像できる範囲内のことを与えるのではなく、人知をはるかに超える愛と豊かさをくださるのです。私たちはそれをすべての聖なる者たちと一緒に理解し、知り、与り、満たされます(3章18節)。そしてこの教会において、主イエス・キリストによって、世々限りなく神の栄光をたたえることになるのです(1章14節)。
 こうしてパウロはこの手紙の前半を終えます。後半はこの素晴らしい救いの恵みを受けているのだから、尚続くこの世での信仰の歩みの中で、目の前に次々起こって来る様々なことの中で、その招きに相応しく歩みなさい、と勧めていきます(4章1節)。だから、この世でのキリスト者は、すべてにおいて満たされる時がやがて来るから、その時を憧れて天を仰いでいるだけではなくて、目の前のことに信仰の目を向けて人と人との間のこと、教会の中での交わり、そしてこの世の中での社会生活も家庭生活についても心して分別ある者として歩むように召されているのです。主に結ばれた者は、永遠の栄光を目指しつつ、この世には確かに足を地につけてしっかりと立つ者だからです。

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