ただ、神の国を求めなさい
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- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 12章22節~34節
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」ルカによる福音書12章32節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章22節~34節
主イエスは、遺産相続についての兄弟間の問題解決を願ってきた人と、周りの人々に対して愚かな金持ちのたとえ話をされました。そして今日の個所では、弟子たちにあえて語っておられます。群衆にではなく、主イエスと行動を共にして、主から選ばれて主のそばに置かれている弟子たちに言われたということは、主イエスを信じて歩み出している者も、目の前にある衣食住に関わることについては心すべきことがある、と教えておられます。そればかりでなく、先ほどのたとえ話にも出てきました、命の問題をさらに話されます。そして求めるべきは神の国である、と言われたのでした。今この世に生きる私たちも、まったく同じようにこの主イエスのお話を聞いています。そしてそれは私たちが単に学ぶという以上のものであり、神からの呼びかけ、忠告、御命令として受け取るべき御言葉です。
1.衣食住のことで思い悩むな
今日の主イエスの御言葉の中には、何度も「思い悩むな」という戒めが出てきます。この内、二九節の「思い悩むな」は、新共同訳は同じ日本語で訳していますが、原文は違う言葉で、「宙ぶらりんでただよう」といった意味があります。他の訳では、訳し分けています。ふらふらとした頼りない感じが示されています。
命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようか。飲食の問題は、私たちの命に直接関わります。また、今日はどんな服を着ようかと少し考えてから服を選ぶ、ということもあると思います。しかしたとえ少々場違いな服を着て行ったとしても、命に関わるわけではありません。この二つを分けているのもなかなか興味深いですが、今日のお話では、命に関することでも思い悩むな、と主イエスは言われます。この教えの平行記事はマタイによる福音書の六章25節以下にありますが、読み比べてみると、より多角的に主の教えが迫って来ます。
命のこと、体のことで思い悩むな、と主イエスは言われました。晩のおかずは何にしようか、とか季節の変わり目だからどんな服にしようか、と私たちは考えますが、何も思い悩まずに毎日同じものを食べていたり、結婚式やお葬式に、くつろぐ時の部屋着姿で行ったりはしません。そういうことを考えるのとは別のことです。
主イエスが言われるのは、食べ物のこと、衣服のこと、そういう日常生活に必要なことを第一として、それを良くして整えることが何より大事であるとするような生き方の問題です。私たちを養ってくださる神を仰がない生き方、信頼せずに心配ばかりしている生き方です。栄養バランスを考えて献立を決めるとか、長袖か半袖にするかを一寸考えて出かけるとか、礼服が必要なので品物を選んでそれなりのものを用意するとか、そういうことではなくて、それらに振り回され、衣食住を満たすことがすべてでそれがないと命も体も満たされない、不十分な人生になってしまう、自分の面子が保てない、人前に出られない、というように、それがすべてと思っていることです。そして何より神が必要なものを与えてくださるという信仰に立たないことです。
しかし時には切実に来週の食糧が足りない、ということがあるかもしれず、実際そういうこともあり得ます。思い悩まずにはいられない、という状況もあるかもしれません。例えば今、中東の国から原油が入って来なければ、いずれ生活が今のままではいかなくなる、と思い悩む時がくるでしょうか。それでも、主イエスはここで「弟子たちに」言っておられる、という点を覚えます。天の神、つまり私たちに日光や雨を与え、作物を成長させ、果実を実らせてくださる神によって養われていると信じる者に言っておられるのです。そういう神様、目には見えない神様を知らず、信じないで生きている人、目に見えるものや物質がすべてと思っている人にではなく、生ける真の神、天地の創造主なる神を信じている弟子たちに向かって言っているのです。
もちろん、物質第一で生きている人が、この主イエスの御言葉を聞いて、新たに目を開かれるならそれは結構なことですが、とにかく天の神を信じる弟子たち、そして今ここで主を信じて礼拝している私たちがまず命じられています。思い悩むな、と。天の神を信頼しているのに、今後も食べられるだろうか、着る物があるだろうか、と思い悩むのはやめなさい、ということです。何の働きもせず、ただ空を飛び回り、木の実をついばみ、繁殖している生き物たちを神は養っていてくださることを見なさい、と。神が養っていてくださるではないか、と。
2.信仰の薄い者たちよ
そして主イエスは栄華を極めたソロモン王のことを引き合いに出します。ソロモン王は非常に優れた知恵を神からいただき、国は繫栄し、諸国の富がイスラエルに入ってきました。そのようなソロモンでさえ、野に咲く花ほどには着飾っていなかったのでした。花を綺麗に咲かせ、装ってくださっているのは神である。だから花よりも優れているあなたがたを装ってくださるのはなおさらのことである、と。そうであるのに思い悩んでいるなら、それは信仰の薄い者のすることであると主イエスは言われます。
信仰が薄い。信仰がないわけではないのですが、薄い。日常生活の中でこれまで維持して来られたものがそのようにいかなくなるかもしれない、食べ物、着る物が不足してくるかもしれない、いやなくなるかもしれない、と心配し不安になり、そのことで思い悩み、思い煩い気を揉んでばかりいるようになってしまう。神様がおられることは信じているので信仰はある。しかし、私たちの命と体を守るために天の神が養ってくださることにどこまでも信頼しきっていることができなくなってしまうのです。薄い信仰だからです。
何を食べようか、何を飲もうか。そういうことにばかり心を傾けているのは、異邦人と同じです。ここで言う異邦人とは、単にイスラエルの人にとって外国人ということではなくて、真の神を知らず、神により頼まずに生きている人のことです。そのような人たちは、すべてのものを造り治めておられる天の父なる神を神として仰いでいません。そのような心による生き方ではなく、求めるべきものを求める者になりなさい、と主は命令されるのです。
3.ただ、神の国を求めなさい
その求めるべきもの、ひたすらに求めるべきものは神の国です。神の御子イエス・キリストは、神の国をもたらすためにこの世に来られました。そして、御自身が神の霊によって、また神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたたちのところに来ている、と既に主イエスは言われました(ルカ11章20節)。神の国は既に来てはいるけれども、まだ完成には至っておらず、万人の目に明らかになってもいません。だからこそ、尚私たちはひたすらに神の国を求めるのです。主イエスが主の祈りによって「御国を来たらせたまえ」と祈ることを教えてくださったのもそのためです。完成には至っていなくとも既に来ている神の国、神の支配がさらに力強く広がっていくように、主の民は祈り求めます。それは信じる者たちが神の国を求め、天の父である神を仰いで主イエスに従って行く歩みを通して実現に向かっていきます。
そのようにしていく神の国の民の歩みは、富を天に積むという仕方で現れてきます。主イエスは施しのことを言われました。自分の持ち物を売り払ってしまったとしても、持ち物が手元からなくなってしまったとしても、天には富が積まれています。そして天に富があるなら、私たちの心もそこにあります。もしも地上に富を積み蓄えることに私たちの心が執着しているとしたら、私たちの心もこの世にだけ置いているのです。私たちはこの世の目に見えるものに心を置くのではなく、主イエスがもたらしてくださった神の国を求め、そこに心を置きます。神は天の父として、喜んで神の国をくださる、と主は約束してくださっているからです。
神の国を求める者は、この世を捨てた世捨て人ではありません。この世に何の価値も認めず、ただ天を仰いで待ち望んでいるというわけではないのです。神の国の民は神の国が来ていることを教会として宣教して世に告げ知らせ、信仰を持って生きることを通してこの世に対して、見えない神の国が来ていること、そしてそれを信じる神の国の民が現実にいることを世に現わしています。今目にして、手にしている目に見えるものを手に入れることに執着せず、与えられているものは神の恵み、賜物として感謝して受け、それを神の栄光を現すために用います。
私たちが礼拝に集うごとに、そして一日を始めるごとに「主の祈り」を祈り、「御国を来たらせたまえ」と祈っていることは、必ず天の父に覚えられています。そしてこの世にあって神の御言葉に聞き従い、キリストにあって神を礼拝し続け、祈り、善き業をなすことによって見えないけれどもすでに世に来ている神の国の民であることを現わし続けてゆきます。キリストというぶどうの木の幹につながる神の国の民は、見えることにのみ目を向けるのではなく、やがて完成する神の国を目指し、地上においては神の教会が神の栄光を現していくように、ただ神の国を求めて今の時代を生きてゆくのです。これは私たちからでたものではなく、主から来たものです。
