2026年04月12日「愚かな金持ちの話」

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愚かな金持ちの話

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
ルカによる福音書 12章13節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」ルカによる福音書12章15節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章13節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、先週イースター礼拝を献げ、主イエス・キリストの復活を感謝して神をあがめました。私たちの主は生きておられ、そして現代に生きる私たちに御言葉を与え、命の道を私たちが歩むようにと力強く今日も語りかけてくださっています。今日は、朗読された箇所において、人の命について主イエスがたとえ話を用いて教えておられます。そしてこの教えは、次の22節以下に「それから」とあるように弟子たちにも続く教えであって、質問をした群衆の一人への答えで終わるものではありませんが、今日はまず、主イエスの話された愚かな金持ちのたとえ話を学びます。

1.遺産相続のことに心を奪われた人
 群衆の一人が主イエスに遺産相続のことで、兄弟間の問題解決を図ってほしいと願いました。しかし主イエスはそれを断られます。宗教的指導者にこの世の種々の問題解決の助けを願うことは行われてはいたようですが、主イエスはそのようなことの問題解決を第一の目的として来られたのではありませんでした。もし問題解決のために乗り出すようなことをされたとしたら、次から次へと、自分の問題もよろしくお願いします、ということになったでしょう。しかし、そのようにして仮に問題を解決したとしても、この人自身も、その兄弟も、最も大事な命の問題について理解しなければ、また同じことは繰り返されるでしょう。主イエスは、そもそもこのような問題が起こること、そして手っ取り早い問題解決を求めてくること、このようなことの根っこにある問題を抉り出されたのです。
 この問題は、人間の中にある貪欲に原因があることを主イエスは指摘されました。この世に生きている限り、私たちは様々なものに取り囲まれ、その助けを受けています。人はあらゆる物によってこの世の生活を支えられているからです。住むための土地・家、食料、衣類、そして私たちを楽しませる種々のものがあります。私たちはそれらを自分のものにしたいという欲求を持っているのではないでしょうか。しかしもちろん何でも手に入るわけではないので、ある程度は今手元にある物で満足しますが、いつか手に入れたいというものがあるわけです。そしてこの世の富を多く持っている人は、その富によって、金銭を払うことによって多くのものを手に入れることができます。しかし、いくら富をたくさん手にしていたとしても、それを持っている自分自身の先行きを私たち人間は思い通りにすることはできない。そのことを主イエスはたとえ話によって示されたのでした。

2.人の命は財産にはよらない
 人の命は財産によってどうすることもできない、という訳はいくらか嚙み砕いたもののようです。他の訳では「人の命は財産にはよらないからである」(聖書協会共同訳)、「その人の命は財産にあるのではないからです」(新改訳2017)などと訳されています。持ち物がどれだけ多くても、財産がどれほどたくさんあっても、それによって自分の寿命を延ばすことはできません。確かにお金を多く出せばその時代の一流の治療を受けることはできるでしょう。そして、特別な最先端の病気治療を受けることで、病気を克服できた、という場合もあるかもしれませんが、いくらお金を積んでも死なないようにはすることができません。
 主イエスはそれを分かり易く示すたとえ話をされました。登場する金持ちは、豊作で倉に納めきれない収穫物を見て考え、新しい倉を築いたのでした。そして彼は自分に向かって、食べたり飲んだりして楽しめ、と言います。この人はたとえ話の中の人物ですけれども、彼の特徴は何かというと、豊かな作物、そしてそのために倉を立てる自分、というその中だけで物事を見ているという点です。多くの収穫を得た自分が自分に向かって語りかけています。自分だけですべてが完結していると思っている人の姿です。そしてこれから先何年も生きていくつもりでおり、それができると思い込んでいるのです。そして自分に向かって楽しめ、と言います。自分が楽しいかどうかが何より大事なことなのです。
 私たちは誰でも自分の将来像をある程度描こうとします。人がいずれは死ぬことをわかっているのだけれども、自分の人生は当面続くと思っており、しかもしばらくは、つまり何年かは生きていくものであると無意識の内にも思っているのです。そうして自分の人生設計を描きます。この金持ちはそうでした。
 しかし神は彼を愚かな者と見なされます。今夜、彼の命は取り上げられると。この金持ちは自分で自分の命を自由にはできていなかったのですが、そのことを悟っていませんでした。

3.神の前に豊かにならない愚かさ
 この金持ちの愚かな点は何だったのでしょうか。まず彼は豊作で多くの作物が収穫できたので、それは自分の所有物として蓄え、そしてそれによって自分は飲んだり食べたりしてこの先何年も楽しめると思ったのでした。作物は豊かに自分のものになったと思ったのですが、それを食べて楽しむ自分の命を実は自分の手にしてはいなかったことに気づいていませんでした。そして命を自分は手にしていると思っており、しかも命と、豊富な食糧と、それを楽しむ自分の魂、これらがすべてだと思っていたのです。
 それを知らずにいたことが彼の愚かだと言われる理由です。彼は豊かに自分のための食糧を増やしました。自分のために富を積んだのです。しかし、彼は神の前には豊かになっていませんでした。彼は豊作によって多くの作物を手にしましたが、それが神によるものとは思わず、神への感謝をせず、自分のためだけに富を積み上げました。彼の愚かさは、大きな新しい倉を立てて作物をしまったことではありません。豊作の結果、今ある倉に納めきれなくなったので新しい倉を立てることそれ自体は別に悪いことではありません。しかし彼は富におる道を悟っていませんでした。富をもたらしてくださった神に感謝をせず、神に栄光を帰することもしませんでした。目の前にある豊かな収穫物、そしてそれを楽しむ自分。彼にはそれしかありませんでした。命が誰から与えられているかを考えず、自分の人生から神を締め出していたのでした。収穫物を楽しむ自分というものが、まず神によって命を与えられていることを悟らず、命は自分の手にあって、この先十分に楽しんで生きられると思い込んでいたのが愚かだったのでした。
 富を得ること自体が悪いわけではありません。使徒パウロは、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と言っています(フィリピの信徒への手紙4章11節)。更に続けます。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(同12節)。その秘訣は誰から授かったのか。言うまでもなく、人に物を与え、地の作物で養ってくださる神です。その方の御心の下で生かされており、時に応じて必要なものを与えてくださる神によって必要なものが与えられていることをパウロは知らされたのでした。それは習い覚えたことでもありました。
 それに対してこの金持ちは、自分に与えられた豊作の結果と、それをいただく自分という者が、神によって造られ、生かされていることを知りませんでした。
 さて、このたとえ話をされた主イエスは、終わりに意味深いことを言われます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。このとおり、とは自分の命が自分の思い通りにはなっていない、思い通りにはならない、ということを死に至るまで悟らない、ということです。
 現代社会にもお金持ちはいつもいます。それどころか大富豪と呼ばれる一握りの人々が、全世界の人々の中で相当な割合のものを所有していると言われます。その一人一人の心の内は神のみがご存じです。この世で巨万の富を蓄えている人たちがみなただちに命が取り上げられることを教えているわけではないことは私たちもわかります。しかし、自分のためだけに富を積み上げることで人生が完結していると思っているなら、必ずやその愚かさを思い知らされる時がやってくるのです。私たちが、自分の命が神から与えられ、生かされていることを自覚して、神への感謝をし、神に栄光を帰する。そのようにするなら、その時、命は神の賜物であると悟り、神の前に豊かな者として生かされていることに感謝する者とされたことを人は知るのです。私たちは愚かな者となるのではなく、逆に主イエス・キリストを通して真に神を畏れてへりくだる者となるように、世から召し出されました。そうすることによって食べたり飲んだりして楽しむこともまた神の賜物であると悟り、味わうこともまた許されていると知るのです。

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