信じる者になりなさい
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- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 20章24節~31節
「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」 ヨハネによる福音書20章29節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章24節~31節
キリストの復活を記念するイースターを迎えました。イースターという名称の由来は、ドイツのある地方で春の訪れや、生命の誕生を祝う祭りが行われていたことに因んで、キリストの復活を祝い記念する祝日をそのように呼ぶようになったという説がありますが、定かなことはわかりません。名称の由来はどうであれ、救い主イエスが十字架で死なれた後、復活されたことを聖書によって教えられ、それを信じる信仰に導かれた私たちは今日、主イエスの復活を祝います。復活された主イエスは、今日の私たちにも「信じる者になりなさい」と言って私たちに命じておられます。
1.手をわき腹に入れてみなければ信じない
主イエスは、十字架にかけられて苦しみを受け、昼頃に息を引き取られ、そして墓に葬られました。女性たちがイエスの遺体に香料を塗るために墓に行きましたが、入り口にある大きな石は既によけてあり、中にはイエスの体はありませんでした。しかし復活されたイエスがご自身を現されたのでした(20章11節以下)。そして墓に行ったマグダラのマリアは、イエスに会ったことを弟子たちに伝えます。その後のことをヨハネは記しませんが、夕方になってからのことへ話は移ります。週の初めの日つまり日曜日の夕方です。弟子たちは自分たちも捕まることを恐れて家の戸に鍵をかけていましたが、そこへイエスが入って来られます。福音書は復活されたイエスの体がどのような状態だったのかを詳しく説明してはくれません。しかし鍵をかけてあることが二度わざわざ言われておりそれにも拘わらず入って来られたことによって、私たちが普通に知っている人間の体を超えたある状態になっていることを示唆しているわけです。
その時トマスはいませんでした。彼は他の弟子たちが復活されたイエスを見た、と言っても信じることをせず、現代人も言いそうな信じない理由を言うのでした。イエスの手の釘跡に指を入れ、槍で刺されたわき腹に手を入れてみなければ信じないと。八日後、二度目に現れたイエスは、手の釘跡を見せてトマスに、指を当ててみよ、と言われます。先ほど言ったように復活されたイエスの体は鍵のかかった部屋に入って来られたのですが、釘跡もわき腹の傷もそのままです。これは復活して新しい体になったとしても、体の傷などはそのまま残ると言っているわけではなく、あくまでも十字架で死なれたイエスであることを弟子たちにわからせるためでした。
信じないトマスの態度は、証拠や正しい実験結果などがないと真実だと認められない態度です。確かに、何でも人の言うことを鵜呑みにすること自体は、自分に危険を招くことがあり、人に騙されないためには必要です。だから事柄によってはもちろん本当かどうかを確かめることは大切です。しかしここでのトマスの態度は、そういう種類とは違います。それまで一緒に過ごしてきた主イエスがどうなったかということであり、それまでの主イエスの言動を見てきた中で行き着いた状況です。私たちも、自分が信じようとしている時、そこに至るまでに、主がどのように導いていてくださったかを示されているはずです。それを思いめぐらし、顧みた時に、今に至るまで自分を守り支え助け導いてきてくださった神を、信じない者ではなく、信じる者になりなさい、と私たちもまた命じられているのです。
2.信じない者ではなく
「信じる者になりなさい」と主イエスが言われるのは、それが私たちにとって最も幸いなことだからです。そして信じる者の反対にあるのは「信じない者」です。イエスの復活に関しては、そのどちらかであって、中間はありません。それがよくわからないから、判断できないという立場もあると言う人がいるかもしれません。確かに、人は聖書を通してイエスの復活の教えを聞いても、すぐに信じるとは限らず、時間もかかるでしょう。しかし、いつまでたっても、そこに留まってはいられません。使徒パウロがイエスと復活について宣教活動をしてギリシャのアテネでも語った時、人々はそれを奇妙な教えだと言い、初めは興味を持ってその意味を聞かせてほしいと言いましたが、復活の話になるとある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言うのでした(使徒言行録17章32節)。
復活を宣べ伝えるのは、それほどにこの世にあっては、人につまずきを与えるもので、反対や拒絶を受けるものです。それはどうしてかというと、人は自分の知っていること、経験してきたこと、学んだことなどに照らして物事を判断し、そして信じるに値するかどうか判断するからです。しかし、神もその御子キリストも信じない者として留まる時、それはどういう生き方に留まることでしょうか。この世で起こること、目の前に起こることは、すべて目で見て手で触れられるかどうか、あるいはこの世の常識にかなっているか、そういうことを規準として生きる、ということです。主イエスはそのような信じない者ではなく、信じる者になりなさい、と言われます。信じない者は、神の存在と知恵と力と愛と恵みを信頼しません。信じない者は、神の御子キリストが私たちを愛して、私たちを罪から救うために十字架にかかってくださったことを受け入れず、認めません。信じない者は、それほどまでして私たちを救い、神の国の一員として生かそう、共におらせようと考えておられる神の御心を受け入れない者として生きます。信じない者は、神がこの世で私たちが信じようが信じまいが与えてくださっている様々な恵みと賜物をいただきながら、それを神からの恵みとは自覚できず、感謝しない者として生きるのです。信じない者は、神の知恵と力に基づく創造と摂理の御業を信じないで、偶然とか運とか、単なる巡り会わせとか、そういうものに身をゆだねて生きることになります。信じない者は、天地を創造されて、御心のままにこれを保ち、統べ治めておられる全能の神の力を否定することになるのです。
3.信じ得る者になりなさい
主イエスは、そうではなく信じる者になりなさいと言われます。何を信じるのか。もちろん主イエスを、そして主イエスを世に遣わされた父なる神を信じるのです。どういう主イエスか、と言えば、復活された主イエスです。そしてそれはただ息を吹き返した、というだけではなく、死の力を打ち破り、罪を滅ぼすという結果をもたらした復活です。息を吹き返しただけで、やがて年を取れば死ぬことになるのであれば、罪と死の力に対して何の勝利も得てはいません。
もしも、キリスト教信仰がイエス様の復活を信じなくてもいい、イエス様にならって良い行いをし、神様にすべてをゆだねてこの世での一生をより善く生きれば良いのだ、それが人間の本分だ、神を愛し、人を自分のように愛するという隣人愛を実行して、人には親切に、互いに平和に、この社会がより良くなるように、ということを第一の目標に掲げて生涯を全うすれば良いのだと言ってきたとしたらどうでしょうか。キリスト教会にはもっと人が増えていたでしょうか。今日も、もっともっと大勢の人が教会に来て、より良い生き方を実践して生きようとするようになったでしょうか。もしそうなら、キリスト教会は歴史の中でさほどの迫害を受けることもなく来られたかもしれません。もしそうだったとしたら、キリスト教信仰には大した力はなく、人の存在と一生を変える力はなかったでしょう。世の中にいろいろある生き方の一つとなり、入りやすいけれども、人を救うことはできなかったでしょう。いやいや、イエス様が十字架にかかってくださったことを信じるのだから、イエス様による罪の償いと罪の赦しを信じているのではないか、と言えるでしょうか。そうはなりません。主イエスの復活がなければ、私たちには罪の赦しの希望はありません。復活がなければ、罪に対する私たちの勝利はありません。復活の宣教がなければ、より多くの人は信仰に入り易かったかもしれませんが、同時に人を救う力はない、少々良い生き方を教える人生の手引きのようなものに留まっていたでしょう。
復活は、主イエスが言われたように、信じなさいと命じられている類のものです。しかしもちろん、闇雲に何の根拠もなく信じよ、というわけではありません。聖書を通して予めキリストであるイエスの到来と、その死と復活を知らせ、その通りに地上を歩まれたイエスが成し遂げられたという事実があります。そしてそれを見た目撃証人たちがおり、聞いて信じた多くの人々がいます。どんなに迫害を受け、殉教者が大勢出たとしても、この信仰は廃れませんでした。
しかしどれだけ聖書の予告とイエスによるその実現と、復活の目撃証言があるとしても、今も昔も確かな証拠を求める人の間では、いわゆる科学的証拠などにはなりません。ところが、そこに実は深い神の知恵があって、そのように人間が知的に満足できる証拠がなく、科学的証明もできないという所に重要な点があります。つまり、それは神が人の心の内に働きかけ、語りかけ、納得させてくださるという仕方でなければ信じられないように神がお定めになったのです。それは、人が科学的証拠を並べることができない、ある特別なことが起こったということを証ししているわけです。
だから今日も、私たちは主イエスが言われたように「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という宣教の言葉を告げ知らせます。主イエスは確かに復活して生きておられ、時代も距離も大きく隔たっていても、それを超えて私たち一人一人の内に語り掛け、ご自身が生きて働いておられることを私たちの内に明らかにしてくださったのです。
人間の知恵や力、偶然や運命、あるいは特定の民族の神々、日本古来の宗教、先祖伝来の信仰などに自分の命と人生をゆだねるのではなく、神と、復活された神の御子キリストを信じて生きることを主は私たちに望んでおられます。そして私たちをも、罪と死の力から解き放って新しい命を与えてくださいます。それは私たちの内に与えられている聖霊が、私たちの心の内で証言してくださっています。私たち信じた者は聖霊で証印を押されました(エフェソ1章13、14節)。信じない者ではなく、信じる者になりたいと思うなら既にその人の内に聖霊が働きかけてくださっています。御父・御子・聖霊なる神が、御子イエスの復活によって私たちにその大いなる恵みを注いでくださったのです。復活したイエスを見ていないのに信じる人は幸いです。神の力がその人に及んでいることを現しているからです。
