真の自由を得るために
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- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章7節~15節
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」ガラテヤの信徒への手紙5章13節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 5章7節~15節
来週はキリストの復活を記念するイースターです。今日はその前の受難週を迎えました。私たちは主キリストの十字架を覚え、その御業を感謝する時を与えられました。これを抜きにしてイースターは祝えません。逆に十字架による罪の赦しを受け入れるなら、キリストが復活して罪と死の力に打ち勝たれたことを信じる信仰へと導かれています。
1.真理に従う歩みをするために
著者のパウロは「十字架のつまずき」と言います。彼はガラテヤ教会について非常に厳しいことを書いています。その教会には正しい福音ではない教えが入り込んでいました。人が救われるためにはキリストの十字架によるだけではなく、ユダヤの人々がこれまで行ってきた割礼という儀式も必要だと言うのです。それは福音とは言えません。キリストの十字架による私たちの罪の償いだけでは不十分だというのは、キリストの十字架を否定することになってしまいます。
それは7節にあるように、真理に従わないことでした。ガラテヤ教会で信徒たちを誘ったのは、信徒たちを救いへと召し出してくださった主なる神ではありません。主は、人が真理から踏み外すことになるように人を誘うことはされません。主からでなく、人から出て人を間違った教えに誘う、そういう教えは、初めは小さく目立たないように見えても、パン種がパンを膨らませるように大きくなっていきます。それは必ずや主の裁きを受けることになります。
2.十字架のつまずきがある
パウロはもしも自分が、かつてユダヤ教に属していた時のように割礼を宣べ伝えているならば迫害を受けることはなかっただろうと言います。しかしパウロは主イエスの十字架を宣べ伝えてきました。そこには十字架のつまずきが必ずあります。キリストの十字架の御業により頼むということは、人間のなす業を頼りにしないことを表します。もしキリスト教会が、主イエスを信じながらも、ユダヤの地で始まった信仰だからユダヤ人の慣習と同じように割礼に重きを置くなら、それはキリストの十字架を軽んじることです。イエスが十字架にかかってくださって、私たちの罪の償いを完全に成し遂げてくださったことを否定することになるからです。
パウロは次に非常に辛辣な言葉を書きます。時にパウロは、キリストがなさった救いの恵みを全く受け入れず非難する者たちに対して厳しく言います。異教徒の祭司たちの中には、自らの体を傷つけたり、その女神に仕えるために去勢したりする者たちがいました。そういうことを思い出させる言い方で、彼らが割礼を持ち込もうとするのを非難したのでした。割礼そのものは旧約時代に主が命じられたことですから、それ自体は異教徒のものとは区別されます。しかし主の、民を救うための御計画の中ではもはや割礼は必要ありません。キリストが来られて罪の償いのために必要なことを成し遂げられたので、主の民のしるしである割礼も、その身に受ける必要がないのです。それにも拘わらずキリストを信じながら割礼を受ける者は、割礼をお命じになった神ご自身の御業をも否定することになります。そういう時パウロは歯に衣着せずに辛辣な言葉を書きます。現代だと、その言い方は問題とされるでしょうが、この時代、パウロは遠慮なくそう言うのでした。また、割礼は男性だけのものでしたが、キリスト教会は洗礼を男女の区別なく授けます。
十字架のつまずきとは何でしょう。私たちの罪を償うために何が必要かという時、神の御子が人となってこの世に降り、そして神の言葉を語り、人々に教えられたのにその神の御子が捕えられて殺される。それは人には理解できません。神が人になるわけがなく、人が神であるわけがないと。人は自分の知らない教えを受けた時、何を根拠にそれを信じるでしょうか。科学的に証明された真理だとか、現代科学では常識だと言われると、よくわからなくても受け入れるかもしれません。実験結果が出ていて、治療効果は明らかに現代医学でも証明されていると言われれば納得するでしょう。しかしキリストに関する出来事つまり福音は人間にとって、自分の知っている知識や経験や、現代科学の証明などでは証明できない、だから受け入れられない、と特に現代人なら思うことでしょう。実はその点こそ信仰の重要な特徴です。信仰は、現代科学がどれほど進歩していようと証明できないあるものだからです。それは神が私たちの心の内に起こされて、その結果信じた者が信仰に基づいて生き始め、キリストの十字架と復活をも信じるようになって現われてきます。だから、信じていない方が、非科学的だから信じない、証明できないなら認めない、証拠がないから受け入れられないのはある意味当たり前です。そしてそれこそ、信仰が神から来るものであることを証ししているのです。
3.自由を得るために召し出された
パウロは、厳しいことを書いた後で勧めます。私たちがキリストへの信仰に導かれ、主のもとに召し出されたのは、自由を得るためだと。今日、自由という言葉は私たちにとって何を思い出させるでしょうか。自由に過ごしてくださいとか、自由にお使いくださいとか、どちらを選んでも自由ですとか。しかし私たちは自分の自由にならないことの多いこの世で生きています。この世に生まれて生き始めたその時から私たちは既に人間として生きるように定められていて、生まれる前に人間として生まれるか、他の動物として生まれるか自由にはなっていません。どこの国のいつの時代の、どんな両親のもとに生まれるかも自由に選んできたわけではないのです。生まれながらに私たちはいろいろなものに縛られています。この手紙でパウロが言うように人は神の律法を守るべきものとして生まれてきています。イスラエルの人々にとってはそれが明らかにモーセの十戒として示され、その掟の下に生きるようにされていました。それ故人々は律法の掟を守りながら生きてきました。それは神がすべての創造主であり、人はこの神に従わねばならないからです。
しかし最初の人アダムが神に背いたがゆえに人は神から離れ、命の道から外れてしまいました。それは人が神から離れて自立できると思い込んだ結果でした。人をそのように誘惑したのはサタン、悪魔です。それ以後人は神に背いた罪に縛られてこの世を生き始めました。しかし、先ほど見たように、神は御子キリストを私たちの罪の償いのために世に送ってくださいました。キリストを受け入れ、より頼む者には罪の赦しを与え、罪とそのもたらす結果である死から解放するためです。それが13節で言う自由です。これを良く分かっていないと、キリストを信じて生きることは自分を宗教に縛り付けることになるのではないかと言う誤解が生じます。私たちが罪に縛られている時は即ち神から離れている状態で、神の御言葉を聞きませんからそれから自由であるかのように思ってしまいます。そして自分の意志で人生をある程度は決められると思っています。しかし、例えば私たちが手にしている物を離すと地面に向かって落ち始めます。上空千メートルで離せばしばらくの間は宙に浮かんでいるように見えますが、実は真っ逆さまに地面に向かっています。一見すると何にも縛られているようには見えませんが、実は下へ向かって落ち続けます。神から離れて堕落した人間はすべて、ちょうどその状態にあります。それを捕まえてくださるのが救い主であり、捕えられると、そこで留まります。するとそれまでの自由が奪われたように錯覚してしまいます。しかし主に捕えられて初めて私たちは罪の力から自由にさせられるのです。ただしこの世にある限りはまだ罪が絡みついて来るので、それを振り払いながらではあります。
そうである以上、与えられた自由を良く用いて、互いに仕えなさいと命じられています。罪から解放されたのだから、何をしても自由なのではなく、まず肉、つまり生まれながらの性質が起き上がって来て罪を犯す機会とならないようにしなさい、というのが私たちに対する神からの警告です。それは隣人を自分のように愛する方へ向かわせますが、隣人が望み願うことは何でもしてあげることではありません。自分を愛することは誰でもがしていますが、自分を愛する点でも生まれながらの私たちは歪んでしまっています。楽をして人並み以上の暮らしがしたい、有名になり、褒められたい、たくさん稼いで金持ちになって何不自由なく生活したい。自分のためにそうしたい、と願っているとしたらそれはやはり罪のゆえに歪んでいるからです。自分が思うように隣人もそう思っているだろうから、そのために力を貸してあげるでしょうか。自分を愛する愛が歪んでいれば、隣人を自分のように愛することもまた歪んでしまうのです。そうではなく、本当に私たちに必要なのは何か。金銭や持ち物ではなく、最も大事なものは何か。隣人にとって最も大事なものは隣人が熱望していることとは限りませんが、当座の生活上の種々の不足を補うために助けるのは大事なことです。
これについて示唆を与えてくれる出来事があります。生まれながら足の利かない人が、何かもらえると思って見つめた時、ペトロが言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」。その人は歩けるようになりました(使徒言行録3章6節)。私たちが持っているものは何か。それは信仰によって見出していくものです。
主イエスが私たちのために苦しみを受けて十字架にかかってくださったのは、私たちを罪から救い、解放し、真の自由をもたらすためでした。それは主イエスが言われた細い道です(マタイ7章14節)。世の多くの人は見出しません。それでも私たちは真の自由を与えられた者としてその道を進みます。そして私たちを召し出してくださった主に従って、その後について歩みます。それは走るという表現でも言われます(7節)。脇目を振らずに進むためです。私たちは人の知識に基づく実験による証明や物的証拠によってではなく、御言葉による真理に従って信じるのです。
今日、日本でもイースターが一般に知られてきました。しかしイースターを真に祝うには、キリストの十字架の死とその苦しみの意味、つまり私たちのために死んでくださったことを知らねばなりません。それにより何が祝うべきことなのかが初めてわかります。罪と死と滅びから私たちを解放してくださる大きな恵みが与えられたのです。
