私たちは主を礼拝します
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- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ヨシュア記 24章14節~24節
「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」ヨシュア記24章23節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨシュア記 24章14節~24節
私たちは、通常ここに集まって礼拝を献げます。出かける時に「今から教会での礼拝に行ってきます」と言って出る必要のある場合もあるかもしれませんが、日曜日に教会の礼拝に行くのがいつものことになっている方にとっては、特にあえて言わなくても家族などは分かっているかもしれません。しかし、今日の朗読個所のように、誰を礼拝するか、ということが問題になる時、私は主を礼拝します、と自分の信仰をはっきりと言い表すことが必要になることがあります。私たちも自分が誰に仕え誰を礼拝するのか。これを改めて問われています。
1.仕えるべき神を自分で選ぶ
出エジプトして来た民は、主が約束してくださったカナンの地に入りました。そして主は様々な先住民の地に民を導き、イスラエルの人々に新たな地を与えてくださいました。ヨシュアは、これから先イスラエルの人たちが誰に仕えて生きていくかということを改めて問い、新たな信仰の歩みを始めさせようとしています。ヨシュアはまず、主を畏れて、エジプトの地で仕えていた神々を捨て去るようにと命じました。
しかし、ここでのヨシュアの言い方は、意外な印象を受けます。イスラエルの民は主に従うべきです。ところが、ヨシュアは、もし主に仕えたくないならば、以前から先祖が拝んでいた神々や、異教徒のアモリ人が拝んでいる神々でも自分で選んで仕えよ、と言うのです。何があっても主に仕えよ、と言うべきではないでしょうか。しかしヨシュアは、突き放すような言い方をします。そして、「ただしわたしとわたしの家は主に仕えます」と言うのです。モーセはそのような言い方をしていませんでした。命と幸い、死と災いを前に置くから、命を選び、主につき従いなさい、と民に迫るのです(申命記30章19節)。
モーセの時と異なるのは、既に目的の土地に民は入っており、土地も獲得できています。つまり、数十年にも及ぶ荒野の長い旅を経験してきた民は、主なる神がエジプトから民を救い出してくださって目的の地へと導いてくださった主の御手の力を目の当たりにしているのだから、それを見た者として改めて今、仕えるべき方を選べと言っているのです。モーセの時は、民は主の御業をしばしば見せいただいてきましたが、それでもまだ目的地には入っていません。だから目的地に至っていない民はすぐに不平を言いだしたり、くじけたりし易いと言えます。そういう民にはモーセは、主に従って行くことを強く命じる必要がありました。
しかしヨシュアの時にはもはや目的地に到達し、主の約束が真実であることを学び知ったはずです。だとしたらその主に従うのが当然なのですが、ヨシュアはあえて民が従って行くべき方を選び取らせようとします。そして、ヨシュアとその家は主に仕える、と付け加えるのでした。あくまでも自主的に主に仕えることを選べというのです。
2.この方は聖なる神である
すると民は答えます。主を捨てて他の神々に仕えることなど、するはずがないと(16節)。確かに、民はこれまでの四十年間で、主がいかに信頼すべき方であるかを目の当たりにしてきたのですから、そういう答えが返ってくるのは当然とも言えます。しかしヨシュアは「あなたたちは主に仕えることはできないであろう」と言うのです。先を見越したかのような言い方です。人々は、他の神々に仕えることなどあるはずがない、ときっぱりと言いました。しかしヨシュアはその彼らの宣言が本当にそうであるかどうか、疑わしいと言っているわけです。
そして、神とはどういう方であるかを二つのことで示します。一つは聖なる方であること。もう一つは熱情の神であることです。聖なる方であるということは、他に比べられるものがない存在であり、清いこと、正しいことにおいて全く他のものと区別されるべき唯一のお方であることを表しています。そして熱情の神であるとは、ご自身の民に対して、その民が神の御前に、御心に適うように歩むかどうかについて大変な熱意を持っておられるということです。
この「熱情の神」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていました。主なる神が他の何者かに対して、うらやむ、とか妬むという人間的な感情を持つということではなく、妬みという言葉で表されるほどに強い思いをご自身の愛する者に対して持っておられることを示すものです。ご自分の民が他の神々に心を向けることを大変忌み嫌われます。そして、もしも外国の神々、つまり人が作った神々に仕えるなら、民を滅ぼし尽くされます。
3.私たちは主を礼拝します
それに対して再び民は、自分たちは主を礼拝します、と言います。あなたがたは主に仕えることはできないであろう、と言われた民は、どう思ったでしょうか。自分たちのことを信用してもらえないのか、と思ったかもしれません。ヨシュアが言うには、人々が主に仕えることの証人は彼ら自身であるということでした。本当に主に仕えるかどうかはあなたたちがそれを実行するかどうかでわかるということです。主は聖なる神、熱情の神である、と言われたのに対して、民は自分たちも主だけを礼拝します、と言って主に対する熱心を示したのでした。
さてしかし、私たちの主に対する熱心とはいったいどれだけのものでしょうか。私たちの主への熱意、熱心に礼拝すること。これらが主の御心を動かすのでしょうか。主だけを礼拝します、という私たちの熱心はどこから来るのでしょうか。もちろん主が唯一の主であり、天地の主であり、すべてを治め、支配し、導いておられる方であって、私たち人間からの賛美を受けるのにふさわしいお方だからです。人は創造の御業によって造られ、命の息を吹き込まれたものとして、神に礼拝を献げるべきです。しかし、私たちが主を礼拝しようとするのは、人間としての義務だからでしょうか。しかし私たちの日頃の自分たちの行動の動機というものを考えてみると、私たちが何かに熱心になるのは、それに対する心からの愛があって、それのためになら時間を費やし、労力を厭わないという所から、何らかの行動に出て行くのだと思います。私たちが主を礼拝します、と言うとしたらそれはやはり主を礼拝したいから、そうせずにはいられないからであるはずです。
私たちがそういう心になれる根拠は何でしょうか。聖なる神は、罪をそのままにして、ただ罪を赦してくださるというわけではありません。罪は罪として裁かれます。私たち人間の内にある罪は、神を礼拝するよりも、自分の地位を上げることや人からの評価を上げること、神にも人にも頼らずに自立できること、自分が満足できること。主なる神は、こういうことに熱意を持つ私たちの罪をそのままで良いとはされません。だからといって人間に対して一心に熱意をもって主なる神に仕えよ、主のみを礼拝せよ。そうしたら罪を赦そう、とは言っておられません。そうではなく、主の御業を見せていただき、その恵みを様々にいただいているにも拘わらず、神の御心に完全に従って御心にかなうことだけを行えない私たちの罪を赦すために、ご自身がその罪を拭い去ろうとする熱心を示してくださったのでした。それがイエス・キリストの十字架の死だったのです。私たちのより頼むべきは、救い主イエス・キリストにおいて示された神の熱意であり熱情です。主イエスは神の身分でありながら人となってこの世に降り、私たちの罪を償い、清めるために十字架にかかってくださいました。辱めを受け、苦しみを忍ばれ、罪人のために祈り、遂には十字架で死なれたのは、それによる罪人の罪の赦しについて、これ以上ない強い熱意を持っておられたからです。ご自分の者たちの罪を清め、御自身との交わりの内に生かすことを望んでおられるからです。
だから、私たちにとって相応しいことは、それを悟って感謝と賛美を献げること、神の御言葉に聞き続けること、聞き従うことです。イスラエルの民は「私たちは主を礼拝します」と言いました。私たちもそう言います。でもそれは一度言えばあるいは一度礼拝すればそれで果たしたということではなく、私たちがこの世にある以上はずっと続けるものです。主である方が私たちのために御自身を献げてくださったのだから、私たちも自分自身を献げます。使徒パウロが書いた通りです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマの信徒への手紙12章1節)。だから、私たちが日曜日に礼拝堂に集まって一つの礼拝式順に従って礼拝をするのは、そのことの目に見えるしるしです。主イエス・キリストが礼拝の中心におられます。私たちは信仰によってその方を礼拝の中心に見ています。そして自分自身を献げていることを礼拝という一つの形において現わしています。「主を礼拝します」という私たちの信仰の言葉を誰も覆すことはできないのです。
