「上にある権威に従う」 ローマの信徒への手紙 13章1~7節 2025.8.3(日)
世には国家権力があり、行政機関があります。私たちも社会の一員として様々な権利と義務が与えられています。そういうこの社会で信徒はどう生活すべきか、使徒パウロはローマ教会の信徒たちに書き送りました。ローマ帝国の首都にある教会として、その権威の下でそれをどう受け止め、信仰と生活の中に位置づけるかは、大事な問題でした。
1.神に由来しない権威はない
使徒パウロは、紀元50年代の後半にこの手紙を書き送りました。イタリアのローマといえば、現在バチカン市国があり、ローマ教皇がおり、世界中のカトリック教会の中心です。先日、新しい教皇を決めるために世界中から枢機卿が集まってコンクラーベという会議が行われました。そのローマでは、紀元40年代終わり頃には、皇帝がユダヤ人たちにローマからの退去命令を出したことがありました。パウロは12章14節で迫害についても書いています。
今ではローマカトリック教会にとって重要な地になっている都市ローマですが、かつてはキリスト教会に対立する者としての皇帝が存在していた都市でした。その中で、パウロは今日の箇所で世の支配者への従順ということについて信徒たちに教えを述べています。
私たちの救い主イエス・キリストは、神の国をもたらすためにこの世に来られ、神の国の福音を語られました。この世界には、目に見える様々な国家があるけれども、神様は御自分の御国を打ち立てようとしておられ、そのために神の御子イエスをお遣わしになったのです。主イエスは言われました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない、と(ルカ17章20、21節)。また、「わたしの国は、この世には属していない」とも言われました(ヨハネ18章36節)。それ故、この世が存続する限り、様々な国家と神の国とは領土を取り合って争う関係にはなく、地理的に国境が分かれているわけでもないのです。イエスを信じた人はこの世の国家の支配下から解放されているわけではなく、その義務を免れているわけでもありません。
天地を創造された神は、見えるものも見えないものも全てを造られました。神の国も、目に見えるこの世の国家も、一切は神のお造りになったものですから、パウロが13章冒頭で書いたように、神に由来しない権威はありません。ただし、ここでの権威とは、現代で言うと公的機関、国、県、市町村等の地方自治体等の中での一般市民との関わりの中でのことです。パウロは、当時の社会状況の中に生きる信徒たちに、天地の主である神を信じる者としてどのように生活すべきか、市民生活を行う上でクリスチャンとしてどうあるべきかの勧告をしているのです。
2.権威者は神に仕えている
日本には、邪馬台国と言われる国が2~3世紀に存在したとされていますが、4世紀には奈良に大和朝廷と呼ばれる首長連合が成立して、後には律令国家へと向かいます。人民に一定の耕作地を提供する代わりに、租(土地への課税)・調(産物の献納)・庸(布・絹等)・雑徭(労役)が課されていました。イスラエルから遠く離れたこの日本でも、福音が伝えられる遙か前から、国家というある形ができており、それにより社会が成り立つようになっていました。どんな形にしろ、世界中で民の上に建てられる権威が存在していることの背後に、神の御手のお働きがあります。
権威という同じ言葉が、エフェソの信徒への手紙では、信仰者が戦わねばならない相手について使われています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(6章12節、359頁)。ここでは目に見えない世界のことを言っています。しかしローマの信徒への手紙の方では、目に見える権威、この世の社会秩序を成り立たせている仕組みに関わります。歴史を見ると、時に国家権力を握った者が暴走して国民から搾取したり、反対勢力を抹殺したり、虐殺したり、隣国を侵略したりするということがしばしばありました。私たちの日本も例外ではありません。専制政治が行われる独裁国家や、国民を不当に圧迫し虐殺する国家も、神に由来している権威なのでしょうか。権威者が悪事を働き、国民から税金を絞り取り、権力者が莫大な財産を蓄えていることもあります。それでも、上に立つ権威だから従うべきでしょうか。
ここで使徒パウロが述べていることは、上に立つ権威そのものの本来の目的についてです。この世の種々の権威は、神が人類の益と幸福のためにお立てになった仕組みであり、それによって秩序も保たれ、悪事を行う者が裁かれ、国民が益を受けられるように造られました。その限りにおいて、上に立つ権威に従うべきで、これがこの世に生きる者の基本的態度なのです。実際、歴史の出来事を見れば、ローマ帝国内で、キリスト教への厳しい迫害が起こってくると、キリストへの信仰を捨てるかどうか、ということまで迫られてきました。そうなった場合、最早信仰者としてその権威にそのまま従うことはできず、皇帝礼拝を強要されてもそれに従うことはできませんでした。もちろんそこには、命がけの信仰の厳しい戦いがあったことを忘れるわけにはいきません。
3.神に従う中で、世の権威者に従う
では、今日の日本ではどうでしょうか。先日、参院選が行われ、与党と野党の勢力分布が多少変わってきました。消費税を全廃すべきだ、と威勢のいいことを謳う政党もありますが、逆に、もっと税率を高くすると言ったらどうでしょう。不当な税の取り立てになるでしょうか。だから従わないということではなく、それぞれの国で制定されている法律の中で、対応してゆくということになります。憲法改正に反対だとしても、それがその国の法律に照らして適正になされたのなら私たちはどうするべきでしょうか。靖国神社法案の時もそうでしたが、教会が抗議声明等を出して、国家に対して反対の意志表示や署名活動をしたこともありました。国家のやることだから、ただ黙って見てきたのではありませんでした。政府にその声は届いていないかもしれませんが続けてきました。それは決して今日の御言葉の教えに反するものではありません。むしろ、国家が正当な働きをするように見守る大事な教会としての務めでした。今日の箇所で教えられているのは、上に立つ権威は、神に仕えて人民に善を行わせるためであり、悪を行う者に報いを与えることです。神に仕える者としてその業に励むことが権威ある立場に立つ者の務めです。ただし、権威者たちは自覚して神に仕えているとは限りません。むしろ聖書の示す神様に仕えていると思って仕事をしている役所の人たちなど、殆どいないでしょう。勿論信仰をもってその仕事を行なってる人もいるので、皆無とは言えませんが。
国に限らず、県や市町村は税を徴収し、そしてそれを公共の福祉や道路・環境整備等のために用います。その税率が適正かどうかはともかく、その業自体は、神からゆだねられて、神に仕える者として行なっているのです。その限りにおいて国民、県民、市民、村民として義務を果たすべきであると言われているのです。
しかし、権力の座にある者が暴走して、あからさまにその権威によって悪を行うとしたら、それを阻止するために立ち上がったことが世界の教会の中にありました。そういう非常事態の場合もありますが、通常は、私たちはその権威が神に由来していることのために、良心に基づいてそれぞれの義務を果たしなさい、と言われています。義務を果たさないと罰せられるから仕方無く服従するのではなく、税を取り立てられるとしても、権威者はそれによって神に仕えていることを覚えねばなりません。そして主キリストが言われた御言葉に聞きましょう。ローマ皇帝に税金を納めるべきかとわれた主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました(ルカ20章25節)。これは、ローマ皇帝と神様とがそれぞれ別々の権威を分け持っているということではありません。納税の義務も元々は神に由来しています。その義務は果たすべきですが、神に服従する信仰においてです。皇帝礼拝もして、神も礼拝しなさい、ということではありません。皇帝に税金は納めますが、自分自身の命を献げるわけではありません。逆に神様には自分自身を献げなさい、と命じられています(ローマ12章1節)。これが私たちの信仰の基本的態度です。私たちは神の前には罪深い者ですが、この世になお生きる国民、市民としては、善を行うことを心がける。そしてこの世の権威に従い、義務を果たします。徒に権威に逆らうなら、それは神の定めに背くことになります(13章2節)。13章7節の「税」という言葉は「関税」とも訳されます。超大国が課す関税のことがここしばらく話題になってますが、ここでは国家同士の課税を言ってはいませんが、時代や力関係によってはあり得ます。
不当な悪を行う権威者でない限り、それに従い、その上におられる、最高の権威を持つお方に仕えることになります。しかし、その権威者が神に従うことを民に禁じるとしたら、私たちはそれに従うことはできません。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5章29節)。世の支配者は、当人がどう自覚しているかに拘らず、神がお立てになった秩序の下に立てられています。全ての権威の頂点におられる天地の主なる神の下にあります。私たちは神に従うがゆえに世の権威者にも従いますが、私たちの最高の権威者は救い主キリストなのです。