2026年03月15日「聖霊が教えてくださる」

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聖霊が教えてくださる

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
ルカによる福音書 12章8節~12節

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 「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」ルカによる福音書12章12節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章8節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスは、弟子たちがこれから先、命に関わるような状況に置かれることもあり得ることを示され、体を殺してもそれ以上何もできない者どもを恐れてはならない、と言われました。恐れるべきは殺した後にも権威を持つお方であること、しかし主を信じる者はその方に守られており、御心に留めてくださっていることを教えてくださいました。私たちもまた、聖霊が私たちの困窮した状況の中で助けを与え、語るべきことを教えてくださる恵みを信じることができます。そしてここでは神、その御子イエス・キリスト、聖霊、つまり三位一体の神のことが言われています。

1.自分は主イエスの仲間であると言い表す
 私たちはどんなに弱い立場でも、人前で話すことが苦手でも、何らかの形で自分はイエス・キリストを信じる者である、ということを言い表す必要のある場面に出くわすものです。およそこの世の社会で生きている限り、それほど頻度は多くなくてもそういう場があるはずです。そして、そのような時は私たちに対して時には緊張をもたらし、心に圧迫を感じさせることもあるかもしれません。しかし、そういう時こそ、主が聖霊によって私たちに働きかけてくださる時なのだと弁えておくことにより、それは神の御手の導きが与えられる時だ、と見方を変えることができます。
 ここで「言い表す」と訳されている言葉は、告白する、公言するとも訳されます。もともと「一つの言葉」という意味のある言葉からきており、同じ心になって同じ言葉を語る、という意味を持ちます。口に出してはっきり言うことでもあります。認め、受け入れるというこちらの態度を示します。イエスの仲間であると言い表すとありますが、原文には仲間であるという言葉はなく、ただイエスを告白するということで「認める」と訳しているものもあります。
 イエスを認め、告白するとは、即ち自分はイエスを主と信じる者であり、イエスの側につく、と明らかにすることです。イエスの側につくとはつまり、宗教上の違いや、信仰上自分の取る態度を明らかにしなければならない時に、イエスの側につくという自分の態度をはっきりさせることです。世の中には無宗教で、神はいないという前提でそれが当たり前だとして生きている人々がおられます。そういう中で神の天地創造とか、イエス・キリストによる救いという話をしても、全く受け付けないとか、胡散臭いと思う人もいるでしょう。しかしそういう中で自分はイエスを信じる者です、と示すのは、人によっては勇気のいることかもしれません。また、信仰についてまだ確信を抱くにまでは至っていない時には、信者ではないけれども教会に行っている、家族にクリスチャンがいる、という所まで明らかにするということもあるかもしれません。
 ここでは主イエスを信じる弟子たちに言っておられます。主は人々の前でイエスを知っているというか否かは、その人が神の前で受け入れられるかどうかに関わることなのだと言われます。この場合の知っている、とはただ名前を知っているということではなく、自分の主として知っている、信じている、そしてこの方が自分にとってどういう方であるかを知っているという意味です。また、神の天使たちの前で、とあえて言われるのは、最終的な、天使たちも連なる神の法廷で判定されることを示すものです。人々の前でイエスを受け入れる人は、その神の法廷で公にイエスが受け入れてくださいます。これと同じことを既に主イエスは言われました。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」と(ルカ9章26節)。

2.聖霊を冒瀆する者は赦されない
 しかし次に主は赦されることと赦されないこととを語られます。人の子つまりイエスに対して悪口を言う者とは、まだイエスを良く知らず、信仰を持つにも至っておらず、表面的な乏しい知識に基づいて、イエスを非難したり、軽んじたりする人のことです。そのような人は無知のゆえにしたことなので、赦される余地があります。
 それに対して聖霊を冒瀆する者とはどういう者でしょう。聖霊は、私たちの心の内に入って、信仰へと導くお働きをされ、私たちの内にイエス・キリストを示し、知識を与えてくださいます。そうしてその人の内に神についての知識とイエスについての知識が与えられたにも拘わらず、それでも逆らう者のことです。聖霊は私たちに信仰を与えてくださいます。そのお働きを汚し、冒瀆するということは、もはやイエスによる救いを完全に拒絶することであり、そうなればもはやその者には赦しの余地はありません。知っていてなお逆らい拒むなら、もはやその人の神に対する罪が赦される道はないからです。これを主イエスは弟子たちに言われました。イエスを主と認めて歩んでいながら、聖霊のお働きを軽んじて冒瀆するようならば赦されないという厳しい警告を与えられたのでした。

3.聖霊が教えてくださることを信じる
 しかし、ここでも主イエスは聖霊に依り頼める恵みについてお語りになります。7節までのお話で、神を恐れよ、とお命じになりましたが、その恐れるべきお方が顧みてくださるのだから、恐れるな、と言われたのと共通しています。聖霊を冒瀆する者は赦されませんが、しかしその聖霊により頼む者は、自分が追いつめられたような状況にあっても言うべきことを教えていただけるのです。だから、聖霊を冒瀆する罪を恐れるのは良いですが、同時に、聖霊により頼む者には、大きな祝福と力が与えられることも、私たちは忘れてはならないのです。
 ここで主イエスは、弟子たちが捕えられて会堂や役人や権力者の所に連行され、問い詰められることがあると想定しておられます。主を信じ、天の神により頼む者が公的権力に捕らえられて、引き立てられることは想定内なのです。ここでの訳は「何をどう言い訳しようか」心配してはならない、となっていますが、この言い訳と訳された言葉は、「弁明する」と訳されるもので、そう訳している翻訳聖書が多いです。言い訳というと自分の行った何か良くない行いについて、言い訳するという場合もあるので、ここは弁明と読む方が相応しいと思います。苦し紛れの言い訳もありますが、この言葉は、法廷で自分の立場を弁明するという意味があり、内容を論理的にも説明することを示します。
 そう言われると、信徒の方の中には、そのような状況に置かれたとしたら、論理的に、筋道立てて話せるかどうかわからないし、そんな自信はない、という方が多いかもしれません。しかし、聖霊は言うべきことをその時に教えてくださる、と主は言われました。ということは、そのような状況に置かれるまでは何をどう言ったらよいかわからないわけです。そこにはやはり信仰が必要です。私たちはなるべくなら予めいろいろなことを知りたいと思います。未知の場所に行く時とか、決められた場所で待ち合わせをするにしても、こういう場合にはこうしたら良いという手段を予め知っておきたいと思うのではないでしょうか。しかし主は、聖霊はその時に教えてくださる、と言われます。
 では、私たちは日頃、特に何も学ばず、自分の信仰について自分で話せるようにしていなくても構わないかというと、決してそういうことではなく、使徒ペトロは次のように書いています。迫害を受けるようなことがあっても人々を恐れたりしないようにと言って、「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(ペトロの手紙一 3章15節)。
 私たちにもそうして備えていることは必要です。しかしそれはすべて聖霊の助けを受ける中でのことです。そして大事なことは、今日の個所で主イエスが初めに言っておられたように、自分は主イエスの側につく、イエスを認めるという自分の信仰の立ち位置をはっきりさせることです。実はそれもまた聖霊のお導きです。聖霊のお力と恵みについて、はっきりしていることがあります。それは聖霊の恵みと導きがなければ、私たちは決して救い主イエスに出会うことも信じることもなかったということです。私たちが主イエスによって救いに入れていただけるように信仰に至ったのは、あらゆることを用いて私たちを主イエスのもとへと連れてきていただいたからです。そしてイエスは主である、という信仰の告白へと導かれました。私たちは自分のために十字架にかかって罪と死と滅びから救い出してくださった主イエスを知らない、などと言うことができません。
 ペトロたち十二人の弟子たちは捕まったイエスを見捨てて逃げてしまいました。ペトロはイエスのために死なねばならなくてもその覚悟があります、と強気なことを言いましたが(マタイ26章35節)、結局は逃げてしまい、イエスを知らないと三度も言ってしまったほどです。それは彼がまだ聖霊の力強いお働きを受ける前のことでした。主イエスも彼の弱さをご存じでした。もちろん人間は聖霊の恵みをこの世で受けていても、弱さはあり、過ちを犯すことすらあり得ますが、それでも主イエスを主と告白する信仰に留まるように守られています。私たちは聖霊の恵みに謙虚に信頼して、信仰の道を進みゆくように召し出されているのです(信仰告白の誓約第四項)。恵み深い聖霊は、信仰へと召し出してくださった者に、必ず必要な助けと力を授けてくださいます。言うべきことはその時に教えてくださる。それを信じるのは、生きて働く信仰です。それは聖霊なる神が私たちの内に生み出してくださったのです。

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