神に覚えられている幸い
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- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ルカによる福音書 12章1節~7節
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」ルカによる福音書12章4節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章1節~7節
私たち人間は、自分のことや自分のしたことについて、誰かに覚えられていると嬉しいものだと思います。逆に忘れられてしまうことはとても悲しいことです。私たちは自分のことは覚えてもらいたいと思いますが、ではそれほどに人のことを覚えているか、というとどうもそれは心もとないものなのかもしれません。しかし神は、小さなものであっても覚えておられます。特にご自分の者とされた民に対しては特別にそのように御心を向けてくださっていることを私たちは教えられています。
1.偽善に注意しなさい
主イエスは、ファリサイ派の人たちと律法の専門家たちへの非常に厳しい言葉を語られましたので、彼らはイエスの言葉じりを捕えようと狙い始めたのでした。しかしそのような中、イエスの周りには数え切れないほどの群衆が集まってきました。これは聖書協会共同訳では「数万人もの群衆」と訳されています。「万」に当たる言葉が使われているからですが、訳としては少々誇張しすぎかもしれません。
そのようにごった返しているような中ですが、主イエスはまず弟子たちに話し始められます。この後、群衆に向かって語る場面があり(13節)、そして再び弟子たちに語られます(22節以下)。1節以下、ファリサイ派のパン種つまり偽善に注意するようにお命じになります。11章37節以下で厳しく指摘されたことを踏まえての話です。外側はきれいにするけれども、内側は強欲と悪意に満ちている。そのような態度は悪いパン種であって、段々とふくらみ、大きくなってきて外に悪影響を与えます。見せかけの信仰や良い業をしているかのような振りをしていても、それはかならず現れてきます。人の目にはわからなくても、神の目には初めから明らかです。
だから、隠されたままで済むものがないのと同じように、弟子たちが暗闇や奥の間で耳にささやいたことでも屋根の上で言い広められるのです。弟子たちはそのくらいの緊張した中にこれから先置かれることになります。ファリサイ派の人たちの偽善が明らかになるのなら、弟子たちの言動もまた明らかになります。マタイ福音書に、同じことを主が言われた言葉があり、そこでは主イエスが語られた言葉を言い広めよ、と言われています。ルカの方では角度が違っていますが、どちらにしても、主イエスの弟子とされた者は、隠れていることはなく、主イエスの御言葉も必ず言い広められるのです。それはやはり弟子たちの働き、言動によってです。そして弟子たちもファリサイ派の人たちの偽善が、自分たちの中に侵食してこないように注意する必要はあります。
2.体を殺そうとする者たちを恐れるな
こうして主イエスに従う弟子たちは、その語ることの内容と共に、彼らの言動も人々に広く知られるようになっていきます。そうすればやがて迫害に遭うことが目に見えています。主イエスはご自身が殺されること、そして弟子たちも捕えられて殺される者すら出てくることをご存じです。また、この福音書をルカが書いた時代には、キリスト教への迫害も始まってきており、福音書の読者たちにとっても、決して他人ごとではない状況になってきています。主イエスは目の前にいる弟子たちを強め励ますために、誰を恐れるべきかを教えておられますが、同時にこの個所を読む信者たちは、自分たちの目の前に迫害が迫って来ていることを思って、切実な思いで聞くことにもなったでしょう。
私たちは殺されそうになる、などという経験を誰でもがするわけではありません。しかし殺されそうになったりしたら、誰でもが本能的にそれを避けようとするに違いありません。しかし逆に動けなくなるかもしれません。どちらにしても、自分の命は守りたいと思って行動するでしょうが、主イエスは私たちが体を殺そうとする者を恐れる、という単純な事実をご存じです。体を殺そうとする者たちは絶大な権力を持つ人か、自分の目の前の利益や欲望を満たすためなら人の命など何とも思わない人々でしょう。しかしそういう者たちを恐れてはならない、と主は言われます。
人は人を殺したとしても、それ以上何もできません。死んだ人はこの世に生きている人間にはもはや手が届かない所に行ったからです。だから、人ではなく、死んだ人を地獄に投げ込む権威を持つ方を恐れよ、と。死んだ人はこの世から解放されたかのように見えても、実はさらにその先のことをも支配する方がおられます。
主イエスは人が人をいかに恐れるものであるかをよく知っておられます。それは裏を返せば、人を造り、生かしておられ、そして最後には人を裁きすべてのことに報いを与える権威を持つ方、つまり生ける真の神を知らないということです。神を知らず恐れることをしないから、力のある者がその力を奮って思いのままにしようとするわけです。
私たちはそういう者たちを恐れてはならない、と主は言われます。
3.真に恐れるべき方を恐れなさい
イエスは、人ではなくて殺した後で地獄に投げ込む権威を持つ方を恐れよ、と言われました。この言葉は、人を正しく裁く権威を持つ神から来られた神の御子であるイエスが言われるので、大変重みのある言葉です。天地の主であり、人をご自身のかたちに造られた父である神の権威と力とを誰よりも知っておられる方だからこそ、言われる言葉です。私たち人間は神のかたちに従って造られており、神の言葉を聞く者として、神の前に立たせていただける者として歩ませていただいています。しかし、他の動物に勝る知恵が与えられている人間は、神の前にまったくへりくだることをせずに、自分たち人間のあるべきところから這い上がって神に近づこうとしてきました。神に対して罪を犯し、堕落したこと自体がそうでした。そしてバベルの塔の出来事にあるように(創世記11章)、自分たちの名誉を高く挙げようとしたのでした。そのこと自体が、神を畏れる心が薄れていることのしるしです。だから、主イエスは弟子たちに対しても、あえてこのように誰を恐れるべきかをはっきりと言わねばならなかったのです。地獄に投げ込むとは、人間の罪を最終的に裁く権威があるということです。この世で犯罪に手を染め、一生警察の手を逃れて死んだとしても、死後に神の裁きが待っています。人はこの世で罪を問われなくても、死後神の前に立たねばなりません。
しかしこのような御言葉を聞くと、私たちは、神は大変恐ろしい方である、と言う印象を強く抱きます。主イエスが繰り返して言っておられる以上、それは事実ですが、それは神がどういうお方であるかについての一つの面です。
まず、神は小さな雀でさえも御心に留めておられます。一アサリオンとは、現代日本の価値に換算して五百円程度です。すると一羽は二百円ほどです。その一羽さえ神は忘れることなく、私たち人間の髪の毛一本までも数えられている、と主は言われます。この世界にあるすべてのもの、すべてのことについて、神が感知しておられないことは何一つないということです。一羽の雀も寿命が尽きれば死にますが、それすらも神が知らないことではないのです。そうであるなら、たくさんの雀よりもはるかにまさっている「あなたがた」は、その神の御心の内に覚えられているのだから、恐れるなと主イエスは言われました。神を恐れるならば、人を恐れる必要はないと。そして神ご自身を恐れなさい、とは言われますが、雀にはるかに勝る私たち人間を顧みてくださる、ということに心を留めるよう、主は言われるのです。そして、ここで主イエスは「弟子たち」に言っておられます。そして主イエスは弟子たちを「友人」と言っておられます。それは特別な主イエスとの関係です。そのように言われる者たちは、雀に勝っているというだけではなく、神を天の父として仰ぎより頼むことができます。神の御子イエスに友人と言っていただけるのは、主イエスがその者たちを受け入れ、神の子どもたちに連なる者としてくださっているからです。人を最終的に裁く権威を持つ神を恐れる者は、同時に神が主イエスにあって御心に留めてくださることを信じて、人を恐れず、神を父としてあがめて歩み続けることができます。人がたとえ体を殺したとしても、人を造り、命を与えてくださった父である神は、人を地獄で滅ぼすことができますが、逆に死んだ体を復活させて新しい命に生かすことができます。神の御子イエス・キリストが復活されたことにより、それが真実であることを証ししてくださいました。だから、神を父として仰ぐ者は、体を殺してもそれ以上何もできない者を恐れるに及ばないし、恐れてはならないのです。
