神の知恵が語っている
- 日付
- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ルカによる福音書 11章45節~54節
「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」ルカによる福音書11章49節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 11章45節~54節
主イエスは、ファリサイ派の人たちの信仰と生活は、外側ばかりよく見せかけて内側は強欲と悪意に満ちている。神は内側も外側も造られたのだから、内側を清めよ、そうすればすべてが清くなる、と言われ、正義の実行と神への愛をおろそかにしている、と彼らを断罪しました。この厳しい御言葉を今、私たちも聞いています。私たちは、主イエスの厳しい御言葉を受けて、ファリサイ派の人たちへの言葉だといって傍で見物しているわけにはいかないのです。
1.律法の専門家の抗議
ファリサイ派の人達に対して主イエスは、決して水で薄めたようなことは言わず、極めて厳しく鋭く糾弾されました。それを聞いていた律法の専門家の一人が声を上げたことをきっかけに主イエスは、今度は律法の専門家に矛先を向けられます。この平行記事はマタイによる福音書23章にあります。マタイの方では、ルカと違って主イエスがファリサイ派の人たちと律法の専門家の人たちに対して一度に語っておられます。
律法の専門家は私たちの持つ旧約聖書の専門家です。主イエスは、彼らは人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本も触れようとしないと言われます。教えを聞いた人たちがそれを実行するためにどうしたらよいかと苦しみ悩んだとしても、それを助けようとはしないのです。結局、人に聖書の教えを述べて、あれこれの戒めを行いなさいと言うけれども、自分はそれを真剣に行っていないので、それを重荷として受け止めた人の苦しみを味わっていないわけです。だから、重荷として受けている人々を助けようとすることもしないのです。
また、先祖が殺した預言者たちの墓を建て、その仕業の証人となり、賛成していると言われました。墓を建てている側は、殺された預言者たちは迫害された人たちで、悲しむべきことだという思いで建てているのですが、そのように言っている当の律法の専門家たちは、先祖たちの悪事に連なっていると言われました。
2.神の知恵が言っている
主イエスはここで、「神の知恵もこう言っている」と言われました。ここにある括弧内の言葉は、そのままでは旧約聖書の中には見当たりません。同じ内容を記すマタイによる福音書では主イエスは、「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わす」と言っておられます。その所をルカの方では「神の知恵もこう言っている」としていますから、この知恵とは主イエス御自身のことです。パウロは、「神の知恵であるキリスト」(コリントの信徒への手紙一 1章24節)、「知恵と知識の力はすべて、キリストの内に隠れています」と書きます(コロサイの信徒への手紙2章3節)。キリストは預言者や使徒たちを遣わされますが、人々はある者を殺し、ある者を迫害すると予告されます。それは天地創造以来の預言者たちの血に連なり、今の時代の者たちは、その責任を問われると主は言われます。
アベルとは創世記四章に出てくるアダムとエバの二人の息子たちの内の弟です。彼は兄のカインに殺されました。神の前に、アベルの献げ物は受け入れられましたが、カインは受け入れられず、それを妬んだカインは、ある時アベルを殺してしまいます。世界で最初の殺人事件でした。主は、アベルは殺された後も土の中から叫んでいると言われました(創世記4章10節)。アベルの言葉自体は創世記の中には何も書かれていません。正しい者とされたアベルでしたが、人の悪意によって殺されることにより、カインが示した行動の中にある人間の罪を暴き出し、それが人を苦しめ、世に悲惨をもたらしていることをはるか昔に遠くからそのことを指し示していたのです。
次に、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤのことが挙げられています。この人は、ユダの王ヨアシュの時代、紀元前九世紀の祭司です。この頃、王と高官たちは主の神殿を捨て、偶像礼拝に陥っていました。神は預言者たちを次々遣わされましたが、人々は耳を貸しません。祭司ゼカルヤは、神の霊によって主の裁きのことを告げます。しかし人々は王の命令によってゼカルヤを石で打ち殺してしまいます。ゼカルヤは死に際して「主が責任を追及してくださいますように」と言いました(歴代誌下24章18~22節)。
主イエスは、旧約聖書の歴史の中で、神によって正しいことを語ったがゆえに迫害され殺された人のことを挙げて、今の時代の人たちがその責任を問われると言われました。そしてそれを語ったがゆえにイエス御自身も、その命を狙われることとなったのです。主イエスご自身がこの後に十字架で殺されますが、その後、イエスの十字架の死と復活を証しする弟子たちもまた迫害され、殉教する者たちが出てきます。どうしてでしょうか。形式主義と偽善に染まったファリサイ派の人たちと律法学者たちに現れているように、魂の奥深い所で神の呼びかけに聞く心が人間には欠けているからです。そうして、真に神の御言葉を聞いて語った預言者たちを退け、自分たちこそ神の言葉を正しく聞いていると自認し、誇り、形式的・外面的に従う者であると見せかけ、正しい者たちを迫害し、殺してきたのでした。そして今また、神の御心を真に告げ知らせておられるイエスに激しい敵意を抱き始めたのでした。
3.知識の鍵を正しく用いよ
主イエスは、このようなファリサイ派の人たちと律法学者たちに対して、二度も「責任を問われる」と宣告されました(50、51節)。それはこれまでの過去の人々、つまり天地創造以来、神が預言者たちを遣わして来られたのに、それを正しく受け止めず、聞き従わず、そして形ばかりは預言者の墓を建てて大事にしているかのようにしていることについて。これが一つ。そしてもう一つは、今、自分たちの周りにいる人たちに対してです。「知識の鍵」について主イエスは言われました。聖書の知識を建物にたとえ、それを悟り、身に着けることです。律法の専門家ですから、人々に聖書の教えの知識を授けて、一人でも多くの人がその建物に入れるようにする大事な務めがあります。しかし知識の鍵を人々から取り上げてしまう。自分が入らないのですから、人が聖書の知識という建物の中に入って、そこに住まうように導けるわけもなく、逆にそこに入ろうとする人を妨げてきたのでした。このようなことをしてきた律法の専門家は「不幸だ」、「わざわいだ」と主イエスは断罪されました。
彼らは聖書に教えられてへりくだって神に聞き従うよりも、外見を整え、人から見えない内側は強欲と悪意に満ちているという有様で、形式主義と偽善に陥っており、人にもそのように教えるわけですから、自分も人も聖書についての真の知識には至れません。結局、主イエスがこれほど厳しい言葉をファリサイ派の人たちと律法の専門家に対して投げかけるのは、彼らの心が主の律法に対して、形式的外面的にもれなく行うことにばかり向いており、神への愛を疎かにしているからでした。律法の専門家が「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言いましたが(45節)、逆に彼らは神に対して、神を愛し畏れ敬うのではなく、自分のため、自分の名誉のため、自分の満足のために律法に従い、自らを、律法を守って正しい行いをしている人に仕立て上げようとしていたのでした。私たちもまた、このような形式主義と偽善が入ってくることに十分注意せねばなりません。そのような人間の罪深い心をご存じの主イエスが、真に神に従う道を示し、そしてそれが自力ではできない私たちのために、単なる模範ではなく、私たちの罪を贖う救い主となってくださいました。
主イエスは、私たち人間の罪を贖い、救うためにこの世に来られました。そして人間の罪を鋭く抉り出し、正義と愛に欠けていて、いかに偽善と見せかけに陥り易いかを示されました。あまりにも厳しく言われたので、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは激しい敵意を抱き、イエスの言葉じりを捕えようとし始めます。神の御言葉を語ってこられた方の言葉じりを捕えようとする。そこに人間の罪深さと悲惨さが如実に現れています。そしてやがてついにイエスは捕えられて十字架にかけられます。しかし、この主イエスが十字架にかけられて殺されることが、私たち人間の罪の償いとなり、私たちの罪を赦す唯一の道となります。ここに驚くべき神の知恵が表わされています。そしてこのイエスこそ、神の知恵と呼ばれるべきお方です。主イエスがファリサイ派の人たちに言われた「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」という御言葉は自分には当てはまらない、と言える人はいるでしょうか。私は正義の実行と神への愛について、十分神に喜ばれるほどに行い、また備えていると自信を持って言う人がいたなら、それは神から責任を問われることになります。神から罪の責任を問われるとしたら、私たちは決して逃れられません。あくまでもイエスに敵対し、その御言葉を受け入れず、神からの御言葉として受け入れないならば、ついには神から罪の責任を問われます。自分の罪を自分で担い、神の前で責任を果たしなさい、と。しかしそのように問われて、「はい、わかりました。自分で責任を取って罪の償いを果たします」などとは誰一人として言うことができません。それを代わりにしてくださったのが私たちの救い主となってくださった主イエスです。この主により頼むなら、感謝すべきことに神は私たちに罪の責任を問わず、十字架のイエスにその責任を担わせてくださったのです。主イエスは、ひと度は私たちの罪を担って死なれましたが、御自身に罪がない聖なる方であるため、死の内に留まっていることなく、復活されました。それによって、私たちの罪の償いが成り立っていることが証明されました。主イエスはこうすることによって、この一連の救いの御業の中に神の知恵が示されていることを明らかにされました。そしてイエスこそ神の知恵そのものであられることを私たちの目の前に明らかに示してくださったのです。
