2026年02月21日「「祈りで援助する」」

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「あなたがたも祈りで援助してください。」コリントの信徒への手紙二 1章11節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙二 1章8節~11節

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 キリストの教会は、神の御子、救い主イエス・キリストを頭としています。私たちはそのキリストの体とされており、一人一人はその部分です。では、その一人一人は、どのようにしてお互いを支え助けているのでしょう。

1.生きる望みさえ失った中で
 この個所を選んだのは、「キリストの体として立つ」という今年の年間標語から、教会は祈りによって互いに援助するものだという点を学びたいからです。今日は、この個所からパウロの置かれた状況を見て、その中で使徒パウロが何を考え、何を望んでいたかを教えられます。
 私たちはパウロのように、耐えられないほどひどく圧迫されたことがあるでしょうか。生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いだったとパウロは言います。現代では病気になって診察を受けた時、余命宣告を受けることがあります。それまで元気でいた人が、体調が悪くて病院で診察を受けたら、検査の結果、いきなり余命宣告される。今では探せばそういう人の経験談を読むことができます。病気の治療が現在進行中だという人もおられます。そういう人たちがどんな心持ちなのかを私たちはそう簡単には理解できないでしょう。想像はできますが、自分の人生が、来年の今頃はもうないかもしれない、ということを考えるのはた易いことではありません。

2.死者を復活させてくださる神を頼りにする
 神を信じキリストを信じている使徒パウロは、ずっと主イエスと復活とを宣べ伝える働きをしてきました(使徒言行録17章18節)。彼は復活された主イエスが天からの光と共に呼びかけてこられた時に地に倒れ、そして主イエスから福音宣教者に任命されました(同9章3、4節)。自ら死人の復活を力強く人々に告げ知らせていました。そのパウロが、もう殺されるかもしれないという所で、自分を頼りにせず、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった、と言っています。それまで復活された主イエスを信じてきたパウロの信仰と、ここでの彼の心境は、調和できるのでしょうか。パウロはそれまで自分を頼りにはしてこなかったはずだからです。しかしパウロがここでこういうことを言うのは、やはり人はいざ、切羽詰まった状況に追いやられた時に、それまでどれだけ信仰をもって歩み続けてきたとしても、人間としての弱さを思い知らされ、自分の信念や自分がこれまで生きてきた経験や実績のようなものは、もはや役に立たず、力はないことを改めて悟らされたからではないでしょうか。ここまで来たらもう後は神にお任せするしかない、地上でこの先、生き残る可能性はないに等しい。だから死んだ後のことを、神にゆだねるしかないと。しかし神はこの時、大きな死の危険からパウロを救い出してくださったのでした。
 もともと、人の命は神の御手の中にあります。人が生きるも死ぬも、神の許しなしにはありません。神が御心とされるなら、パウロが生き延びるのは可能なことでした。パウロはそういうことを経験して、これからも似たようなことがあっても救い出してくださると信じています。しかし言うまでもないですが、いつかは必ず、死の危険どころか、もう避けようがない形で死の入口へ入って行かなければならない時が、人にはやってきます。パウロのように死の危険をもたらす迫害のような経験をしていなくても、すべての人は、その道を通らねばなりません。だから私たちは、パウロが言うように、そのような信仰の備えを積み重ねていく必要があります。

3.祈りで援助してください
 パウロは、他の手紙で、自分はできることならこの世を去って天におられるキリストと共にいたいと書いています(フィリピ1章23節)。しかし生きながらえるなら、実り多い働きができ、それはこの世で生きる多くの信徒たちのために必要な事でもある、とも言います。信じた人はすぐに天に召されるのではなくて、やはり何らかの主から託された役目や理由があって、そのために生かされているのです。だから地上での命がなお生きながらえることを望むのは、決して悪いことでも間違ったことでもありません。自分の快楽のためにそうしたいというのは論外ですが、そもそも主にある信徒たちはそういう目的で生きながらえようとは思わなくなっていきます。パウロの場合、特にあちらこちらでキリストを宣べ伝え、教会を築き、信徒たちの教育に尽力してきました。パウロは機会を見ては各地を旅して、それらの教会を巡回して訪ね、信徒たちを励まして回りましたから、その働きを続けていくために、そう簡単にはこの世を去るわけにはいかないと思っていたでしょう。もちろん主の御心であれば、です。
 そのパウロはこれからもその働きを続けていくために、コリントの教会に祈りによる支援を求めています。パウロの働きを知っている教会は、それを支えるために支援をしていました。特にフィリピの教会は、パウロがマケドニア州から出て宣教を始めた時、もののやり取りで彼の働きに参加したことで、パウロは大変感謝しています(フィリピ4章15節)。もののやり取りや、献金を送ることは一番分かり易い援助の仕方で、その効果は最もよく形として(数字として)現れてきます。しかしパウロは今日の個所では、祈りで援助してほしいと願います。経済的支援を頼むことは、先方に経済的な負担をかけますが、それでも頼まれた方は、その働きの重要性を知っているなら、喜んで支援するでしょう。そしてそれを主にあっては負担とは思わないのです。
 それに対して祈りによる援助を頼むのは、経済的な重荷を与えませんから、頼みやすいかもしれません。しかし、祈りによる援助を頼まれた側は、意識と記憶の中にそれを留め、折に触れて祈るというとても大事な働きを依頼されたのです。日本キリスト改革派教会内でも、大会、中会内で、しばしば祈りの要請が各教会になされます。自主的に皆がよく祈ることもあります。今年五月に80周年記念信徒大会が四国で開催されますので、全国の教会で祈っています。無事に開催されるように、準備に当たる委員会、当日講演をする教師たち、参加を予定している信徒たちのために、といろんな面での祈りが必要です。一昨年の能登半島地震の後、その地域の人々のために、また復興・支援活動に当たる人々、そして金沢教会の働きのために、など。これは祈りと共に経済的、物質的支援もなされてきました。
 各個教会では、毎週、祈りの課題が掲げられそのことについて祈りが呼びかけられます。献金や物資の援助の場合、献金額とどれだけの支援物資が送られたかが数量的にわかり、それが報告されます。しかし祈りの場合は、どこそこ教会で何回祈祷会がされ、何分祈られたかということは報告されません。そして祈った結果、どうなったかということはすぐには目に見えてこない面があります。祈らなかったらどうだったかということを実験することなどもちろんしませんし、するわけもありません。それでも祈ることによってその祈りは神に届き、覚えられています。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」(使徒言行録10章4節)。私たちが祈った事柄を、神が御心に留めてくださって覚えてくださるなら、私たちはそれに信頼して、信仰をもって祈り、期待して待ち、さらに祈ります。
 使徒パウロは、そういうことをもちろん知っており、信じているので、コリントの教会に祈りの援助を頼んでいるのです。コリントの教会は問題だらけでした。第一の手紙では、特にパウロはそれらの問題に対して助言を与え、支持を与え、厳しいことも命じます。それでも、この手紙で祈りの援助を願っているのは、やはり主につながる者同士、祈ってもらえると信じ、それが神に聞かれ、やがて神が何らかの仕方で答えてくださると信じ期待するからです。
 そして祈りの援助を頼む側は、信頼しているから、祈ってもらえると思うから頼みます。祈ってもらえると期待できないなら、頼みなどしません。そのような祈りの要請を受けた側は、ある重荷を与えられたのです。援助を要請する側は、自分の状況をある程度伝えます。何について祈ってもらいたいかを伝えます。頼まれた側は、その情報をもとに祈ります。しかしすべてが伝えられてくるわけではないので、知らないことは、神様に任せます。
また、主なる神は私たちが祈る前から、その状況については知っておられます(マタイ6章8節)。こちらが神様に状況報告をして、そういう状況ですからお願いします、というよりも主なる神が既にご存じのことをあえて祈ります。状況を申し述べるのがいけないということではなく、特に誰かと祈る場合、共に祈る人に祈りの目的が良く分かるように述べながら祈ることはあり得ます。いずれにしても、主は私たちがそのように祈り求めることを望み、喜ばれます。子どもがあえて親に願うのと同じです。祈らないと何一つ良きに計らってはくれないのではなく、私たちが祈り願うことを通して主がどのように応えてくださったかを信仰によって悟り、その結果、主への賛美に至ることが大事なのです。また、私たちは互いに祈ることで援助し合うことができます。特に自分の身近な人や物事について他の人よりも良く知っているという場合や、誰よりもそのことを願っていることについては、人一倍そのために祈ります。私たちはこうして互いに祈りで援助し合うことにより、主なる神が本当に生きておられ、主イエス・キリストの御名によって祈る祈りを聞きあげてくださっていることの確信に至り、やはり神への賛美に至れるのです。

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