2026年02月15日「終日、神に身を寄せる」

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終日、神に身を寄せる

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
申命記 33章1節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

 「主に愛される者は、その傍らに休んじて住み、終日、神に身を寄せて、その御守りのもとに住まう。」申命記33章12節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 33章1節~17節

原稿のアイコンメッセージ

わたしたちはこの世に生まれ、この世で成長し、日々の暮らしをしています。そのような私たちの日々の歩みは、神に身を寄せるものであることを、今日の個所は私たちに示してくれています。

1.モーセの祝福
 この33章は、モーセの祝福という小見出しがついており、一節に書かれているように、モーセがその生涯を終えるに当たって、イスラエルの十二部族の人々に語った祝福の言葉です。このような祝福の言葉は、創世記の四九章にもあり、そこでは十二部族の先祖であるヤコブの子供たちに、ヤコブが与えた祝福の言葉が示されています。
 申命記の方では、各部族に対して、皆祝福の言葉だけになっており、否定的なことや、悪い面について語る言葉はありません。文字通り祝福のみ、単純に言って良い言葉が与えられています。聞く方も、厳しく自分たちの信仰と行い、生活などをとがめられることがないので、穏やかに聞けるものです。しかし、創世記の49章では違っており、ヤコブは、息子たちの半分には実に厳しい言葉も交えて語っています。祝福に当たる言葉だけを語っているのは、ユダ、ゼブルン、ダン、アシェル、ナフタリ、そしてヨセフです。他の六人に対しては誉れを失うとか、散らされるとか、奴隷に身を落とすとか、そういうことが含まれています。
 聖書には、時代の違いによって同じ対象に対しても、評価の仕方が違った記述があります。例えばソロモン王のことですが、列王記と歴代誌の両方にその記録があります。列王記は、ソロモンが知恵を主に求めたことを良いこととして記していますが、後に彼は外国から多くの王妃を抱え、その影響を受けて外国の神々を拝み、その宗教をイスラエルにもたらして偶像礼拝をしてしまいます。そういう悪い面をあからさまに記しています。
歴代誌は、時代が後ですが、そこではソロモンの事績について良いことだけを書いています。既にソロモンの行いについては列王記で知らされていることもありますが、その書物の目的に沿って、ソロモンの神殿建築という面に焦点を当てて書いたのでしょう。ソロモンの業績を美化しようにも、彼の偶像礼拝は隠し立てしようのない事実でした。

2.ベニヤミンへの祝福
 申命記33章は、ヤコブが多くの言葉で祝福していたユダに対しては、わずかの言葉だけ記されています。それらの中で、今日はベニヤミンに対する祝福の言葉に特に目を留めます。ここには実に穏やかな、平安に満ちた状態が描き出されています。主にあって理想的と言っても良いような姿が示されています。終日、神に身を寄せて、その御守りのもとに住まう、というと何となく、もうそれなりの年齢を重ねてきて、現役を退いている人のような印象を受けます。これは平穏な老後を過ごしている人の姿でしょうか。確かに、一日汗水垂らして働いている人たちからすると、こんなゆったりした状態は日常の中ではほとんどあり得ない、と思う方もいるかもしれません。
 ここで少しベニヤミンのことを考えますと、ベニヤミン族は、イスラエルが南北に分裂した時には、ユダ族と共に南王国を形成していました。ベニヤミンは、ヤコブの十二人の兄弟の中でも一番下の弟であり、母親を同じとするヨセフと共に、最も若い存在でした。このモーセの祝福では、ヨセフに対しては多くの言葉が連ねられています。非常に豊かな恵みと祝福をヨセフ族が受けていることがわかります。ヨセフを先祖とする部族はエフライム族とマナセ族であり、ヨセフの息子たちがその先祖です(17節)。二つとも領土は大変広大なものがあります。それに対してベニヤミン族の領土は非常に小さなものです。イスラエルの最初の王であるサウルはベニヤミン族の人です。
 先ほどのヤコブの祝福では、「ベニヤミンはかみ裂く狼、朝には獲物に食らいつき、夕には奪ったものを分け合う」(創世記49章27節)と言われており、実に激しい気性の者であることが伺えます。ペリシテとの戦いで初めの頃は活躍したサウル王のことを示しているかもしれません。また、武勇に優れた人もいました。左利きのエフドは、モアブの王を倒したことで、士師の独りに数えられ、救助者と呼ばれています(士師記3章15節)。武力ではないですが、預言者エレミヤも(エレミヤ書1章1節)、使徒パウロもベニヤミン族の人です(ローマの信徒への手紙11章1節)。こうしてみると、聖書の歴史の中で、軽んじられてよいような部族ではないとさえ言えます。

3.終日、神に身を寄せる生涯
 しかし、エレミヤとパウロ、この二人の生涯の歩みを見ると、どうでしょうか。エレミヤは預言者としてエルサレムの滅びを予告し、それは主の裁きであり、バビロン帝国に征服されて、人々は捕囚として連れ去られるが、主がその地で暮らせるようにしてくださると告げました。彼は偽預言者とも対決して、真の預言者であることが証しされましたが、その生涯の終わりはエジプトに無理やり連れて行かれて、最期はどうなったのかもわかりません。
 使徒パウロも、初めはキリスト教の迫害者でしたが、天から呼びかけた主イエスによって回心に導かれ、それまでとは正反対にキリストの福音を各地で宣教する伝道者とされました。そしてその後は自分が迫害され続ける道を歩み続けました。何度も迫害を受け、石で撃たれ、投獄され、鞭うたれ、遂には裁判を受けるためにローマに送られます。その途中も船が難破して大変な目に会います。彼は、最後は殉教したと伝えられていますが、聖書には記されていません。エレミヤとパウロは、神の御言葉を正しく語ったがゆえに、ひどい目に会い、人生の中で平穏な時期を過ごした時間は少なかったのではないでしょうか。エレミヤは若くして預言者に召されましたが祭司の息子でしたから、主に召されるまではそれなりに穏やかな生活を送っていたかもしれません。パウロもファリサイ派に属する信心深い人で、人々から尊敬されていたでしょう。二人とも迫害されるような生活環境とは無縁だったのです。
 では、その頃のエレミヤとパウロは、この申命記33章12節のベニヤミンについて言われているような平穏無事な生活を地で行くような人たちだったのでしょうか。それが主に召されたことで、急に壊されたのでしょうか。そうすると、この一二節で言われているような平穏無事に見える生活は、いったい何だということになってしまいます。
そもそも、今日でも、人の一生は安んじて住まうことがずっと続くわけではないという事実を私たちは思い知らされます。そうであれば、私たちはこの祝福の言葉は、単にこの世の生活での一時的な良い状態のこと以上のものを描き出していると、今日の私たちは考えざるを得ないのです。
 命がけで神の御言葉を語ったエレミヤやパウロは、むしろ主に召されてから後、主に身を一層寄せることになり、それがなければ生きられないことを悟らされたのではないでしょうか。何かにつけてその言動をあげつらわれ、訴えられていた彼らは、息をつく間もなかったことでしょう。しかし彼らは終日、神に身を寄せていた人たちでした。主に愛されていた人たちでした。主はその愛する子を特に鍛えられます(ヘブライ12章10節)。
 逆に、主を信じ、その傍らに安んじて過ごせる環境をいただけた人もいるでしょう。しかしそれはこの地上では永続するものではありません。今日の個所でベニヤミンについて言われていた平穏無事に見える状態は、この地上で実現される最終的な、究極の祝福された状態を指し示しているわけではないのです。むしろこの世では、このような状態の内に長く、ずっと留まっていられるものではないことを思い知らされるのが私たちのこの世での歩みです。
 しかしそうではあっても、やはりここで言われている祝福された素晴らしい状態はありえないものではない、と私たちは言うことができます。どのようなことが襲い降りかかってくるとしても、主に愛されている者は、主の傍らに住まい、終日神に身を寄せていられるようにされているのです。私たちはどこにいても、周りがどのような状態でも、孤立無縁に見えても、そこで神に身を寄せることができます。今私たちは天の御国から遠く離れているように思うでしょうか。確かにそうだとパウロは言いました(Ⅱコリント5章6節)。しかし、私たちは神の宮であり、聖霊が住まわれる神殿でもあります(Ⅰコリント6章19節)。この世では身を寄せる神の御姿が見えなくなっているのではないかと思えてしまうことがあったとしても、実は自分の中に主なる神がおられることを私たちは知らされています。
 今日の申命記33章12節の御言葉は、ベニヤミン族出身のエレミヤとパウロの生涯を思い描いてみた時に、その意味が見えてきます。彼らが証しした主、救い主イエス・キリストは、私たちが身を寄せるべき唯一の方です。この方がおられることを知る時、私たちの内に、この御言葉は実現していることを知るのです。それがやがて完成する時もまたやがて来ます。この世で老後を平穏無事に過ごしたとして、それは何十年も続くわけでもありません。しかし、それが長かろうと短かろうと、主に愛されている者は、主から与えられた日々、終日神に身を寄せ、その御守りのもとに住まわせていただいていることを知り、尚一層の信頼を神に寄せ、神の傍らに、その内に生かされていくことができます。それは礼拝と、恵みの手段である御言葉と礼典と祈り、聖徒の交わりによって豊かにされていくのです。

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