2026年02月08日「内側を清めなさい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 尾張旭教会のホームページへ戻る

内側を清めなさい

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
ルカによる福音書 11章37節~44節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

礼拝全体を録画した動画を公開しています。

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

 「主は言われた。『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の内側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。』」ルカによる福音書11章39節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 11章37節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスは、私たちの目が澄んでいるかどうか、調べなさいと言われました(11章35節)。つまり二心ではなく、一心な思いで神の御言葉を聞き、それを守ることに心を向けていることを教えられました。それによって私たち自身が明るくなるということも示されました。今日の話はその続きになります。私たちが神の御言葉を守る(同28節)、とはどういうことなのかを食事の席で主イエスは教えてくださっています。

1.食事の前に身を清める
 主イエスはファリサイ派の人から食事に招かれていました。するとイエスが食事の前に身を清められなかったのを見て、招いた人は不審に思ったのでした。これとは別の機会に、似たようなことが起こったことがマルコによる福音書に記されています(7章1節以下)。そこでは、イエスの弟子たちの中に、洗わない手で食事をしている者がいるのを見たファリサイ派の人々やユダヤ人がそれをとがめたのでした。この人たちは昔の人の言い伝えを固く守り、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、市場から帰った時には身を清めてからでないと食事をしないのでした。また、杯,鉢、同の器や寝台を洗うことなど、たくさんのことを守っていたのでした。聖書で命じられていること以上に、昔からの言い伝えに従って固く守っている事柄がいろいろあったのです。様々なものから自分が汚れを受けないためということですが、その心はどこに向いているか、ということを主イエスは私たちに示しておられます。
 主イエスは実に厳しく言われました。あなたたちは杯や皿の内側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている、と。私たちは普通に考えると、食事に招いてくれた人に対して、これだけの厳しいことを言えるだろうか、と思ってしまいます。しかし主イエスは極めて大事なこととして、招いてくれた人の気持ちを思ってここでは言わないでおく、というような対応をされませんでした。そしてこの時の主イエスの発言は記録され、後代まで長く残り、今日の私たちもまた聞くべき言葉として残っています。そして人にとって大事なことは何かという実に人間の存在の核心にまで至ることを話されたのです。主イエスが真実を、またそれにのみ集中して話されたかがわかります。

2.神は外側も内側も造られた
 ファリサイ派の人たちは、厳格に律法の教えを守ろうとしていましたが、内面と外面を切り離してしまっているのでした。しかし人を造り、生かしておられる神は、外側も内側も造られました。外面、つまり人から見える面は、一見すると神に良く従って、その戒めを守っているかのように見えてしまったとしても、実は内面は全く違っている状態があることを主イエスは見抜いておられます。私たちは人の前では自分を取り繕って良く見せることはできますが、神の前では、それはできません。神の御子である主イエスは、人となられてこの世に生まれましたが、そのような神の御力を捨ててきたわけではないので、人の内面も見通すことができるのです。
 ファリサイ派の人たちは、神の民であるイスラエル人、ユダヤ人として、律法を忠実に守っている者として自分たちを仕立て上げることに心が傾いていたと言えます。そして主イエスは「ただ、器の中にある物を人に施せ」と言われます。この言葉は、一見すると文脈から浮いているようにも見えます。口語訳聖書は、マタイ23章26節に合わせて、「ただ、内側にあるものをきよめなさい」と訳しているのですが、他の訳は皆新共同訳と同じように訳します。結局、人の中にある物、内側にある心からすべてのことは出てきますから、人に何かを施す時、それはその人の内側にあるもの、つまり思いと心と愛や慈しみなどを抱いているならばそれが素直に出てくるものとして表に出し、それを人に向ける、ということだと理解します。そしてそれが施しとなるなら、そこには邪念のような濁りがなくなり、すべてのものが清くなるのです。これは、私たちが自分で罪深い自分を清められるということを言っているのではなく、内側にあるものと外側にあるものを使い分け、外側だけ見映えを良くするのではなく、外側も内側も一つのものとして、つまり神が内側も外側も造られたのだから、そのままにあればよいのです。それは、33節から44節までで言われた、目が澄んでいるかどうかということにも通じてきます。光は闇と共存できません。強欲と悪意からは、心から人に施すことなど出てきません。内側が清ければ、外側も清くなるのです。

3.正義の実行と神への愛
 更に主イエスは、ファリサイ派の人たちは「不幸である」と三回も言っておられます。しかしこの「不幸である」と訳された言葉は、他の翻訳聖書では「わざわいだ」という表現が多いです。不幸、というと不幸せという印象があり、その人の境遇のような意味合いを感じてしまいます。口語訳聖書は「わざわいである」としていました。新しい聖書協会共同訳は、「わざわいあれ」として同じ表現に戻しています。のろいあれ、という訳もあり、やはりここでは主イエスの厳しい非難の気持ちが込められているので、わざわいである、と受け取るべきところです。
 薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一を献げるとあります。旧約聖書のレビ記27章30節には、「土地から取れる収穫物の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである」という規定があります。申命記14章22節にも同様の規定があります。ファリサイ派の人たちはこの規定を厳格に守ろうとして調味料等、細かいものにまで適用して献げていたのでした。そのように数字で計れるものは守っていました。しかし正義の実行と神への愛はおろそかにしている、と主は言われるのでした。十分の一を守ることは結構なことで、主イエスもそれをおろそかにしてよいわけではないと言われます。また、会堂の上席とは会衆の席と役員などの席が分かれているときはその上席、あるいは会堂の前列等です。そういう席に自分が着くことを当たり前とし、広場では特別に挨拶されることを好むこと。結局、最も重要な正義の実行も神への愛もないがしろにし、細々とした規則ばかり汲々として守っているのです。
 結局それらは自分で自分の義を打ち立て、人から尊敬を受けて重んじられることを喜ぶことです。それは神に相対した時、神よりも自分を高めることに直結してくることです。神の前にへりくだり、神を愛するがゆえに戒めを守ろうとするのではなく、自分の見栄が優先されており、細々とした規定を守ることで神に従っているという自己満足にも陥り、正義の実行にも程遠いのでした。そういうファリサイ派の人々の態度は、人にも悪い影響を与えます。人目につかない墓のたとえを主は語られました。旧約聖書民数記には「野外で剣で殺された者や死体、人骨や墓に触れた者はすべて、七日の間汚れる」とあります(19章16節)。人が触れれば汚れるものなのに、外側からはわからなければ、人は知らぬ間にそれに触れてしまい、汚されてしまうことにたとえておられます。この後、律法の専門家に対しての言葉が続きます。こうして、主イエスは外面だけを良く見せる、偽善の行為を非難されました。
 外面のことは、気をつけて何とか整えることはできるでしょう。しかし、形式的、外面的なことに心を捕われていると、内側と外側が分離されてしまいます。形式的な、人から見てすぐわかることに重心を置いて自分を整えようとすると、いつの間にか神を愛する愛ではなく、自分を良く見せることに心が移って行ってしまいます。内側を清めるとは、結局神に対して自分は生きているのだということを認め、すべてのこと、つまり外側も内側も共に神の前には明らかになっていることを悟って、見せかけようとする心を取り去ることです。内側を清めなさい、と言われて、はいそうですか、わかりました、では清めました、と言える人はいません。
 私たちは自分で自分を清めることなどできはしません。しかし主イエスはそう言われますから、私たちはまず、主イエスの御言葉を聞き、自分を清めていただけるように神の前に出ます。一つ一つのことがすべて神の目には明らかになっていることを知れば、私たちは神に対して自分を取り繕うことは到底できないと知ります。「わたしたちは、神にはありのままに知られています」(Ⅱコリント5章11節)。ありのままをご存じの神に、私たちの内側を清めていただくしかありません。しかし求める者に父なる神は聖霊をくださり、清めてくださるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す