2026年02月01日「「時代に対するしるしと光」」

問い合わせ

日本キリスト改革派 尾張旭教会のホームページへ戻る

「時代に対するしるしと光」

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
ルカによる福音書 11章29節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

 「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」ルカによる福音書11章30節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 11章29節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスは、どういう人が幸いなのかを28節で語っておられました。神の言葉を聞いて、それを守る人たちであると。それと丁度対極にあるような人々のことを、今日の個所では話しておられます。それは、「今の時代の者たち」であり、しるしを欲しがる人々です。この時から二千年の時を隔てている今日の私たちですが、私たちもまた、この時代の中に生きており、主イエスはこの御言葉を通して今も語っておられます。

1.しるしを欲しがるよこしまな時代
 私たちが生きているこの時代は、よこしまな時代でしょうか。しるしを欲しがる、というのは特に主イエスに対しては、イエスが本当に神から来た者なのかどうか、それをはっきりとわかる、誰も否定できないしるしを見せてもらいたいという心です。イエスのなさっていることを、素直に受け止めることをしないのです。
 旧約聖書をみると、神の天使が現れた時に、しるしを見せてほしいと言った人たちがいました。ギデオンは三回しるしを求めて、三回ともみ使いはしるしを見せてくれました(士師記6章17、36、39節)。ヒゼキヤ王は、自分の病気がいやされることが確かであることのしるしを求め、聞き入れられました(列王記下20章8節)。逆に、しるしを求めよ、と言われたのに自分はそれを求めない、と言ったアハズ王は、主から厳しくとがめられ北からの脅威が襲い掛かって来ると言われました(イザヤ書7章10~17節)。だから、神ご自身もいつでもしるしを求めることを禁じられたわけではなく、必要な時には人にしるしを与え、主の御業が確かであることを見せてくださっていたのです。主イエスがとがめているのは、目の前で既にイエスが神の御力によって奇跡を行い、その優れた御力を見せておられるにも拘わらず、悪意をもって主イエスを非難し、貶めようとしていたことに対してです。イエスが神の力によって悪霊を追い出していると、それは悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているのだということにもそれが現れています(11章15節)。

2.ヨナのしるし
 そういう者たちには、ただ一つのしるししか与えられない、と主は言われます。ヨナのしるしです。旧約聖書ヨナ書は、預言者ヨナが異教の国アッシリアに行って悔い改めるように宣教することを主から命じられた話です。彼は船で出かけますが初めはアッシリアの都ニネベに行くことを拒み、それが原因で嵐が起こったので、自分を海に投げるように人々に頼みます。自分が主に背いて逃げてきたのでこの嵐が襲ってきたのだと。人々がヨナを海に放り込むと嵐は静まり、人々は主を畏れて礼拝したのでした。ヨナは海に放り込まれましたが、主が大魚を備えてくださり、三日三晩守られて陸地に吐き出されます。そして今度はニネベに行って命じられた通り宣教するのです。
 主イエスはこの話を引き合いに出され、このしるしが与えられると言われます。ヨナが海に放り込まれ、普通ならもう死ぬしかない所で主に助けられて再び陸地に立ち、宣教の業を行ったことです。マタイによる福音書では、主イエスが十字架の死の後、三日の後に復活されることを示すために話されたと言われています(マタイ12章40節)。ルカによる福音書では三日三晩のことは触れられてはいませんが、死の淵からよみがえって人々の前に立ったヨナのことから、主イエスが死から復活されることを示し、そのしるしが与えられることを示しています。主イエスは様々な奇跡を行い、悪霊を追い出し、病人をいやされましたが、そういう一つ一つのことを、ここではしるしとしては挙げておられず、死からの復活というこれ以上ない大きなことを時代に対するしるし、として挙げておられます。
 主イエスは、その時代に対するしるしによって唯一の特別な存在であることを証しされます。このイエスというお方は、私たち人間に対するしるしとなられました。この方を受け入れない人々がイエスの時代に多くいました。目の前でイエスのなさる多くの御業を見ても、神から来た方としての救いのための御業だとは認めようとせず、あくまで反抗する者には、裁く者たちがいることを主は告げられます。南の国の女王であり、ニネベの人々です。
 南の女王とは、列王記上10章に出てくるシェバの女王のことです。彼女は大変な富を持っている人でしたが、ソロモンの知恵についての話を聞き、本当だとは信じていなかったけれども、実際にソロモンに会いに来て、その知恵の素晴らしさを知って感服したのでした。彼女はアラビアの南西の方から来ましたので、おそらく千キロから二千キロ程度の距離を超えてやってきたのではないかと思われます。それほどの熱心をもってソロモンの知恵を聞くために来たのでした。また、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めました(ヨナ書3章10節)。この人たちが裁きの時に立ち上がって、イエスが地上におられた時代の不信仰な人々を罪に定めると言われます。それは、文字通りシェバの女王やニネベの人が裁判官の席に着くということではなく、イエスの時代にいたユダヤの人々は、彼らに比べるとソロモンやヨナにはるかに勝る神の子であるイエスが来られて、神の指によって悪霊どもを追い出し、神の国の到来を知らせられたのにそれを受け入れず信じないから、罪に定められると言っておられるわけです。ユダヤの人々は旧約聖書を教えられて育ってきます。生活の中に主の教えが行き渡っている環境に生きているのですが、旧約聖書に登場する人々のことは、その存在の真実性や、その預言が神から来ているという権威を受け入れています。ところがその聖書が証ししている神の御子イエスが世に来られて、直接神の御心を宣べ始め、人々を苦しめ悩ましている悪霊どもに勝る方であることをその御業によって示し始めると、目の前で行われている神の業の前にはへりくだろうとしないという罪深い姿を現してしまうのでした。

3.あなたの全身が輝くように
 こうしてユダヤの人々にイエスは厳しい御言葉を告げられましたが、今度は弟子たちと、主イエスに聞き従ってきている人たちに向けて語られます。主イエスを信じて従う者たちは、主イエスの光をいただき、それを輝かすようにと召し出されています。ともし火は周りを照らすために燭台の上に置きます。そのともし火が輝くためには、周りを見る信仰の目が澄んでいなければなりません。主は、体のともし火は目であると言われます。光をともすには、その人の中に何が入って来るかが大きく左右します。その目が「澄んでいる」とは、単一な、単純なという意味があり、二心のないとか、純粋な一筋の心、一途な心ということを示します。あっちを見たりこっちを見たりして、定まらないのではなく、真の光である主イエスを常に見ていることです。そうしないと私たちの体は暗くなってしまうのです。だから光が消えていないか調べねばなりません。
 このように主イエスが忠告をなさるのは、やはりこの世で生きていく私たちは何かにつけて目から耳から入って来るこの世の情報に始終さらされているからです。この新約聖書の時代と今日とでは、私たちが晒されている様々な情報や思想等、だいぶ環境が異なります。自分の手元に、立ちどころに詳しい情報が映像付きで入ってくる。そういう中に浸りすぎていると、段々と目が濁ってきます。私たちは一日中聖書を読み祈っているわけではありませんから、確かにいろいろなものを目にし、耳にして生きています。この世に生きている限りそれは避けられません。しかし一日の終わり毎に、短くとも主を仰ぎ祈ることで一日を終えるという積み重ねによって私たちはいただいている光が消えないようにしていけるのです。35節は、光が消えて闇にならないように気をつけなさい、というのが原文に近い訳です(新改訳2017)。真っ暗な部屋も、ほんの少しの光があれば何がどこにあるかは見えますが、それでは輝いているには程遠いです。これは、主イエスが二八節で「神の言葉を聞き、守る」と言われたことを異なる表現で言われたものでもあります。
 私たちには、主イエス・キリストという唯一の救い主がいてくださいます。この方が十字架の死と復活によって、私たちの内に光を差し込んでくださいました。この光を受けた者は、この光がいかに素晴らしく、偉大なものであるかを知らされました。この光を消して闇にとって代わらせるなどということがどうしてできるでしょうか。十字架で罪を贖ってくださった方を脇へ追いやって、目や耳から次ぐ次に入って来るもので目を濁らせてしまうのは、実に主イエスに対して申し訳ないことです。主イエスが「光が消えていないか調べなさい」とあえて言われるのは、私たちがいかに暗くなりやすいかをご存じだからであり、逆に、私たちが世に対して光を輝かすものとなることを望み、喜んでくださるからです。そのために必要な恵みの手段をくださり、聖霊の助けをくださっています。主イエス・キリストはいつの時代に対しても光として輝き、そしてそこに生きる者たちを、その時代ごとに世で光を放つようにと召し出してくださいました。私たちはこの世で、たとえ小さくとも、それぞれの燭台を与えられてその上で輝くようにと、それぞれの場所に置かれているのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す