2026年01月25日「「キリストの体として立つ」」

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 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」コリントの信徒への手紙一 12章27節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 12章27節~31節

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 今年の年間標語は、昨年の標語からの継続の意味もありまして、「キリストの体として立つ」としました。生ける神の教会は、キリストをかしらとする教会です。所有者、主権者は神であり、そのかしらはキリストであると、パウロはエフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙で書いています。その教会がキリストの体である、と使徒パウロはこの手紙で述べています。今日まで続くキリスト教会は、同じようにキリストをかしらとして仰ぐ教会です。そのことを覚えて、今年の教会標語として掲げたこの御言葉を聞きます。

1.キリストの体であること
 パウロはここに至るまで、12章の初めのところから、霊的な賜物について語ってきました。そして教会を一つの体にたとえて説明してきました。体には多くの部分があるけれども、頭がそれを一つにまとめていると。体に分裂が起こらず、互いにつながりをもって補い合っているとも言っています。そういう体と同じように、キリストを信じる私たちも、キリストをかしらとする体であり、一人一人はその部分なのです。
 パウロは、26節までで、体のたとえによって部分のことを示しました。それぞれの部分は違う働きと役目がありますが、体はそのように各部分が互いに連携を保ち、頭の意思を実行します。どんなに小さく、弱く、大きな役割を果たしていないかのように見える部分も、実はそれが却って必要なものなのだと述べました(22節)。

2.神は教会の中にいろいろな人を立てられた
 このたとえは大変わかりやすいものです。教会は人の集まりですが、同じ人間でも、本当に人の個性は多様性があります。考え方も性格も感覚も違いますし、何か事が起こった時の反応も様々です。それはその人が洗礼を受けて教会生活を送ってきたのがどういう教会だったかによって、教会についての捉え方も異なってきたりします。
 使徒パウロは今日の教会の状況を想定して書いてはいません。彼の目の前にある教会に存在している様々な働きを具体的に見ている中で、それぞれの職務をあげて述べています。初めに使徒、預言者、教師については順番を定め、そのほかの務めについては次に、として列挙しています。使徒は、直接主イエスが定められた十二弟子と、パウロやバルナバなど限られた人たちです。預言者とは、旧約聖書の預言者たちではなく、初代教会の預言者たちで、使徒言行録に登場します(11章27、28節、21章10節=アガボ、15章32節=ユダとシラス等)。そして教師(使徒13章1節、ヤコブ3章1節)。使徒たちは初代教会だけのもので、預言者については、今日でも預言を特別な賜物として見る向きもありますが、私たちの教派では、特に定めません。教師は長老と執事と共に役員とされ、私たちの教会では第一に挙げられる職務です。神の言葉を説き明かし、教え、教育するという務めです。同時に誤った教えに対しても注意深く対応する務めがあります。教会が神の御言葉に正しく立って信徒たちを導く重要な役目が与えられています。
奇跡を行う者がいました。ペトロやパウロは使徒でしたが、同時に奇跡も行いました。病気をいやす賜物を持つ者もいましたが、この二つの種類の人々は今日の教会には特にいないと見ることができます。援助する者、管理する者、異言を語る者などが終わりに挙げられています。援助する者、とはおそらく執事たち、管理する者とはおそらく長老たちを指しているでしょう。こうしてみるとパウロは、初めは職務を述べていますが、賜物、という観点から「いろいろな人」として挙げています。いろいろな人に、様々な賜物が主から与えられ、それぞれの職務に就くようにされている、ということです。ここではキリストの体の部分、ということで考えているので、ある程度普遍的な教会の職務を述べてはいますが、体の部分としてはいろいろな人がいて構成している、という点を強調しているのです。
 異言を語る者については、今日の私たちの教会では認められていません。通常の世の中にある言語ではなく、霊によって神秘を語るもので、しかも神に向かって語るものです(Ⅰコリント14章2節)。これは説き明かさない限りほかの人にはわからないもので、解釈する人が必要です。それならば初めからわかる言葉で語ればよいわけですし、それが本当に説き明かしているのかどうか、神から来ているのかどうかもわかりません。それで今の教会としてはもはや必要のないものです。パウロ自身は異言を語れたと言っていますが、霊は祈っていても、知性は実を結ばないと言います(同14節)。教会では人々にわかる通常の言葉で説き明かすことが求められています。教会を造り上げるためには、異言ではなく、預言が重要なのです。

3.キリストの体の一部分であることを知る
 そしてこの後、パウロはもっと大きな賜物を受けるように努めなさい、といって愛について語り始めます。そこでは、たとえ異言を語れるとしても、愛がなければ私は騒がしいどらだ、といいます(同13章1節)。いくらほかの人にはできないことをして、神秘を語っているのだと言っても、それが教会の中で他の人のために益となっていないなら、意味がないということです。無に等しいと(同2節)。
 だから、教会の中にはいろいろな人が立てられていますが、それは愛を追い求めるという目的に向かうものとして立てられているのです(同14章1節)。それで、改めてキリストの体の部分であるということをみましょう。皆が教師ではなく、皆が長老や執事になるわけでもありません。しかし、それ以外の人は教会を造り上げるために何の役目もないわけではなく、主がいろいろに賜物を分け与えてくださるのです(同12章4、5節)。
 まず私たちが弁えるべきは、教会の頭はキリストだということです。教会を指導し導くのに役職がありますが、人ではなくキリストが主であり頭であり、その御心に従って教会を築きます。そのためにはまず、キリストというお方を良く知り、へりくだり、崇める心でその体の一部分として存在します。今日の個所の直前に、とても大事なことが言われていました。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)。これは、パウロは別の所では、命令の形で述べています(ローマの信徒への手紙12章15節)。
 私たちは、教会の礼拝に集まる時、特にお互いの存在を意識します。また礼拝の場に来られない方もあります。そういう方もあるけれども、キリストをかしらとする体の一部分として覚えるのです。人間の体は、足や手に怪我をすれば、すぐにそれを自覚します。しかし教会の場合、誰かが苦しんでいても、その人がそれを外に表したり、言葉で示したりしないと伝わりません。そういう意味では、キリストをかしらと仰ぐ教会の各部分は、誰かが苦しんだり尊ばれたりしても、すぐにはそれを感知できないことがあるわけです。しかしかしらなるキリストはそれを見ておられ、ご存じです。だから私たちはかしらなるキリストにしっかりと付いている必要があるのです(コロサイの信徒への手紙2章19節)。そうでないなら、他の部分の苦しみと尊ばれていることを感知するに当って、鈍くなってしまいます。そうならないように私たちは肉の思いを捨て、キリストに結びついて日々歩めるように、聖霊の恵みに謙虚に信頼します。
 そして今日の個所では、特に教会の中のいろいろな賜物と職務の両方について言われていました。何らかの賜物が与えられている人が、必ずしも教会の中である役職についているとは限りません。しかし明確に教会の中である務めを与えられる場合があります。それはその人が尊ばれているということの一つの形です。ならば私たちはそのこともまた喜ぶわけです。苦しむという時、これは実に様々です。心の中や体の痛み、不具合、不自由、家族の問題、対社会での問題、実にいろいろです。だからこそ、パウロが挙げるように教会の中にいろいろな人をお立てになるのです。役職についていなくても、誰かの状況を聞き、必要な人に伝え、助けを与え、そして祈ること、御言葉を示すことなどができます。しかしそれを実際に行っていくに当たって、やはり愛がなければ空回りしてしまいます。だからパウロは、13章で愛についてのべ、それが最高の道であり、求めるべきものだと教えているのです。
 教会が教会として、キリストの体として立っていくには、頭であるキリストの御心を受け止めていることが何より大事です。形がまとまり、組織ができていくのは良いことですが、それはキリストの体が、各部分とも健全で良い状態にあり続けられるようにするためです。そのことを覚えて、私たちも一人一人がキリストの体の部分として生かされていくこと、尊ばれていくことを祈り求めます。そうすることによって、キリストの体として栄光を現していくのです。キリストの体の一部分とされていること。これは私たちがいかに小さくとも、実に光栄なことであります。

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