「神と人の間に立つ人」
- 日付
- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 民数記 11章1節~17節
「民はモーセに助けを求めて叫びをあげた。モーが主に祈ると、火は鎮まった。」民数記11章2節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
民数記 11章1節~17節
人はこの世に生きている限り、何らかの不満を抱き、嘆きや不平を口にし、耳にすることに付き合っていかねばなりません。人に対しても自分自身についてもです。そういう人との関係の中で、神によって民を導くように立てられたモーセが、どのようであったかを私たちは示されました。彼の場合はイスラエルの人々に対する特別大きな務めを授かっており、聖書全体を通じて主イエスを別にして、モーセは人間としては最大級の役目を与えられていました。
1.不満をぶつける民
エジプトでの奴隷状態から救い出していただいたイスラエルの人々は、荒野の旅を始めると、多くの不満を口にし始めます。食べ物についてです。イスラエルの民も、加わっていた雑多な他国人も飢えと渇きを覚えたのですが、主は民に食べ物を与えてくださっていました。7節以下にあるマナと呼ばれる甘い菓子のようなもので、毎日天から朝露のように地面に降り、毎朝必要な分だけ主が与えてくださっていました。それはエジプトを脱出してから、荒野に入った頃のことです(出エジプト16章4節)。実はその初めの頃から民は既に不平不満を抱いてモーセに文句を言っていました。それで主が天からマナを降らせて、食糧としてくださっていたのです。だから、民が不平を述べるのはこの時に始まったものではありませんでした。
かつてエジプトでは奴隷の身分で、重労働を課せられて苦労していたのですが、食べ物には不自由していなかったので、それに比べると荒野ではマナばかりと不満が募っていました。人間は、目の前にあるものが当たり前になると、それに対する感謝の気持ちが薄れてくるのでしょう。奴隷状態でも、肉、魚、きゅうりやメロン、葱や玉葱、にんにく等が食べられたので、荒野での食糧事情よりもよほど良かったと言うのです。やはり人は何を食べられるかどうかで幸福感も違ってきて、エジプトの奴隷状態から救い出していただいたことを忘れてしまったかのような状態でした。
どこを見回してもマナばかりで何もない、と民は言います。マナは調理して菓子にすると、こくのあるクリームの
ような味でした。私たちが、もしそういう場に置かれて毎日クリームのようなお菓子ばかり食べているとしたら、不満が出てくるかもしれません。甘いものばかりは嫌だ、ご飯が、おかずが食べたい、何だかんだと言うでしょうか。
2.祈り、苦しむモーセ
主は民の不満を聞いて憤られ、主の火が燃えあがって宿営を端から焼き尽くそうとされます。民がモーセに助けを求めたのでモーセが主に祈ると火は鎮まりました。しかし、相変わらず民が泣き言を言っているのをモーセは聞いたのでした。モーセは主が激しく憤られたので苦しんだ、とあります(10節)。この苦しんだ、という言葉は直訳では「モーセの目に悪であった」となりますが、この「悪」という言葉もいろいろに翻訳されています。「モーセの目にはひどいことに見えた」(聖書協会共同訳)、「モーセにとって辛いことであった」(新改訳2017)、「モーセは心を痛めた」(フランシスコ会訳)、「モーセはひどく感情を害して」(バルバロ訳)、など。モーセは苦しんだ、というのはかなり意訳ですが、案外モーセの状態を単純に表しているかもしれません。
この後を見るとわかりますが、モーセは主に嘆き訴えているので、彼にとっては非常に辛いことで、自分にはこの民をとても負いきれないという思いが滲み出ています。モーセは主が自分をこの務めに立てたことは重々承知していますが、この荒野の旅の中で民があまりにも不平を述べ、そして自分にはこの人々を担う力がないことを認めざるを得ないので、主に訴えています。モーセはもはや手一杯で、これ以上どうしたらよいのかわからないという気持ちだったでしょう。主が民を導き出すようにとお命じになったので今に至っているのですが、その民はこんな有様であり、何故主は自分にこれほどまでに困難な務めを与えるのか、と言いたいわけです。もともと主なる神も、モーセをお選びになって民をエジプトから脱出させる務めを与えられましたが、モーセはメシア=キリストではないので、民の救い主でもありません。あくまでも地上で民をエジプトから移動させて目的の地へ導き出すための先導者、指導者、預言者です。彼には民の罪を負うことはできません。主が告げられることを民に告げるのが彼の役目でした。
3.一人で民の重荷を担える方
主は、このモーセの心底からの願いを聞き入れてくださいました。主の示された対応策は実に実際的です。イスラエルには長老たちがいたので民の長老及びその役人として認めうる者を七十人集め、モーセに授けてある霊の一部を彼らに授けるというものです。モーセが言っていたように、人が一人で民を担えないのです。どんな優れた人物でも、どれほど強大な権力を手にしている王でも、一人では国の民を担えません。複数の人が担う必要があるのです。但し、イスラエルの場合は主が授けてくださった霊が与えられて初めて長老たちも民の重荷をモーセと共に担えるのです。
ここには、今日の私たちの教会の長老制の発端があります。複数の長老たちが共同で民を担うこと、そして大事な点は、モーセに授けられたのと同じ霊が分け与えられることによって共同でモーセと共に担えることです。人間が他の人間の罪や弱さや重荷をすべて担うことはできません。主に感謝せず、その恵みの豊かさを味わうことができず、かつてのひどい状態の方が良かったとまでいうような民の罪があります。それをモーセが一人で担うことはできませんでした。では複数の長老たちは、民の罪を担えるかというとそれもできません。しかし民を統治するという点において、複数の長老たちによって民を担うこと、そうしてこの世での神の民の統治がなされるのです。
しかし、ご自分の民の罪を贖い、担うことのできるお方が後に来られました。神の御子イエス・キリストです。この方は一人で、多くの民の重荷を担い、罪の償いをし、救いをもたらしてくださいました。そして今も救いをもたらし続けておられます。モーセと長老たちが立てられて民の重荷を担うようになったのは、やがて人の罪を担って完全に罪の贖いを成し遂げてくださる方が来られることを指し示すことでもありました。後に主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」言われました(マタイ11章28節)。
モーセに迫った人々は、当座の食物を求めました。そして主なる神は天からマナを降らせ、そしてこの度はうずらを吹き寄せて宿営の近くに落とされました(民数記11章31節)。主は私たちがこの世で生きるために必要な食べ物をくださいます。しかし、それだけでは私たちは、当座は満足できますが、それが神から与えられたものと感謝していただくのでない限り、本当の満足に至りません。そして、主がお与えくださっているものだと感謝していただいているとしても、私たちの魂は肉の食べ物だけでは真に満たされません。私たちの霊、魂が満たされるのは、神その方が私たちの神であられる、という真理の内にある時だけです。
最後に主イエスとモーセとの違いを述べます。モーセは自分一人で民の重荷を負えないと言いました。そしてモーセ自身も自分自身の罪を負っています。まずそれ自体、自分で担って解決できません。新約聖書のヘブライ人への手紙が詳しく教えているように、人間の大祭司はまず自分の罪の贖いをする必要があります(5章3節)。モーセは大祭司ではありませんが、預言者として人間の一人なので同じことが言えます。モーセも実は誰かに自分を担っていただかなければなりません。モーセは神に特別に選ばれた預言者であり、神と人との間に立つ人ではあったので神の御言葉を人々に明らかに告げ、時には神の力によって奇跡的な業をも行いましたが、人間が持つ神の前での罪を贖って、神と人との間を執り成すことはできません。モーセは神に祈って、それを神が聞きあげてくださって民への対応を変えていただいたことはありました(出エジプト32章11~14節)。それは確かに特別なことでしたが、それはやがて来られる神の御子の務めを指し示していることでした。
私たちの主イエス・キリストは、モーセにはるかに勝る方として神と人との間に立ってくださる神の御子です。神として、聖なる方であり、同時に人として肉体と魂を持つ方として苦しみを受け、モーセは担えなかった民の重荷を担って、私たちの救い主となってくださいました。だからこの方は私たち人間の弱さと、罪と悲惨の中に置かれているがゆえの苦しみをご存じです(ウェストミンスター小教理問答問18、19)。人間として肉体を持ち、感情と結びついた体の故に様々な困難や苦しみを担い、味わわれました。そして人としては天の父なる神に従順に従うことを学ばねばなりませんでした。神の御子でさえ、地上で人の子としては学ぶことがあったのです。であれば私たちはなおさらですが、それは罪の赦しを獲得するためではなく、罪の赦しと救いをいただいた者として、主の恵み深さを悟り、信仰の道を歩み通すことを通して神の栄光を現すためです。私たちは、今日のモーセの話を通して、人の罪深さと弱さを見せられましたが、それを人として生まれ、人の罪を担って十字架におかかりくださった救い主を見上げることができます。その幸いをくださった神の限りない恵みと憐れみに感謝して御名をあがめましょう。そして地上に主の教会がある限り、主は教会に人を立てて必要な職務を与え、皆が共に主イエスを主と仰ぎ、礼拝することを通して宣教と教会形成に当たるようにと、ある仕組みを整えるように聖書によって示してくださっているのです。そのことを覚えて私たちも、与えられている目に見える教会の中で、必要な器が立てられて、より良く民の重荷を担っていくための新たな力を常にいただけるように聖霊の恵みを祈り求めます。
