2026年01月11日「神の言葉を聞き、守る人」

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神の言葉を聞き、守る人

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
ルカによる福音書 11章24節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 ルカによる福音書 11章28節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 11章24節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスは、神の国をもたらすために世に来られました。それは私たちに真の命を与え、私たちを、私たちの天の父である神のものとするためであり、罪と死と滅びから救い出すためです。そのことを喜ばず、邪魔をする存在として、悪霊どもが世に多く登場してきていたのが、主イエスが活動された時代でした。主イエスに心から服従せず、仕えようとはしない悪霊どもですが、彼らはイエスから、取りついた人から出て行けと命令されると嫌でも応でも出て行かざるを得なかったのでした。

1.汚れた霊が戻る
 主イエスはそのようにして悪霊に対する完全な優位を示され、神の国の王であることを明らかにされたのでした。しかし、悪霊を追い出すだけであれば、ユダヤの人の中にも同じようなことを行う人がいたことが一九節によってわかります。では、悪霊を追い出してもらった人のその後はどのようであるのか、どうあるべきなのか、が今日の個所で教えられています。
 主イエスは、御自身のことを、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している、と言われた時に、ではあなたたちの仲間は何の力で追い出すのか、と問い返されました。似たように悪霊を追い出したとしても、その後が問題です。主イエスは汚れた霊が戻ってくるというたとえで教えておられます。人から出て行った悪霊が砂漠をうろつきますが休む場所が見つからず、元の場所に戻ろうと言って、出てきた人の所に戻ってきます。すると、悪霊が出た後なので、その人の中はきれいになっていました。ところが、戻ってきた悪霊はそれを見てもっと悪い霊を連れてきて住み着いてしまいます。すると初めよりももっと悪くなるのでした。汚れた霊が戻ってきた家は、きれいになってはいましたが、再び悪霊に入られないように警戒せず、無防備だったのです。それが問題でした。主イエスが悪霊を人から追い出しておられたのは、その人が悪霊の束縛から解放されて、その後自由に勝手気ままに好き放題に生きるためではありませんでした。そうではなく、イエスを主としてより頼み、神の国の一員として新しく歩み始めることです。悪霊を追い出してもらったということは、罪と死と滅びから救い出してもらったということです。救い出してもらったなら、もう再びそのような状態に戻ることがないようにすべきです。そのためには、悪霊が舞い戻って来ても立ち向かえるような備えが必要です。それをしないでいたら、そしてその防御方法を提供しないでいたらどうでしょうか。ただ追い出すだけなら、このたとえ話のように再び戻ってくる隙を与えてしまうことになるのです。

2.後の状態がもっと悪くなる
 そのように、悪霊が戻ってくる隙を与えているようでは、再び入られた時にはもっと悪い状態になってしまいます。どんな風に悪くなるのかという具体的なことを求めるよりも、それがいかに神を軽んじることになるかを知っておくべきです。せっかく良い状態にしていただいたのに、それを尊ばず、守らず、保とうとしないならば、悪い方へと傾いてしまうのです。神の恵みを軽んじて、再び神の恵みを受ける前のような状態に自ら落ち込んでいくなら、それはより悪い状態に至ってしまうということです。
 このように主イエスが話しておられると、ある女性が声高らかに言いました。イエスをほめたたえる言葉ですが、彼女は特にイエスを宿した母親の胎、そして養った乳房は何と幸いなことかと言うのでした。しかし、主イエスはその言葉をそのままには受け取られませんでした。むしろ幸いなのは誰かと。主イエスは、ここでは自分を養ってくれた母親の幸いを持ち出すようなことを望まれませんでした。そのようなことはここではどうでもよかったのです。確かに母親のマリアは信仰深く、神の御子の母親になることを受け入れましたので、その信仰自体は尊いものでした。しかし今はそういうことを言っているのではない。むしろ神の言葉を聞いて守る人こそ幸いであるとはっきりと言われたのでした。
 悪霊が取りつく、などというと現代ではオカルト映画の世界のように見られるかもしれません。おどろおどろしい化け物のような姿になったしまった人が、怪力を発したり、暴れまくったりするようなものもあります。そういうものに取りつかれるのは特殊な場合であって、そんなものは映画の中だけのものだ、と言う人もいるかもしれません。では、悪霊になど取りつかれていない普通の人は、逆に聖いのでしょうか。さ迷い歩く汚れた霊に自分を明け渡したりはしない、と思うでしょうか。今日の社会で、あなたは悪霊に取りつかれている、などと面と向かって言うとしたら、それは甚だしい侮辱と見なされるでしょう。確かに聖書でも、誰でも彼でもそのような状態になると言っているわけではありません。しかし、では悪霊につかれていない人は、正常で、正しく聖いのかというとそれは決してそうではないわけです。それは言うまでもなく、人間は聖さの点で完全などには程遠いのです。生まれながらの人間はみなそうです。そういう中で、神の言葉を聞き、それを守る人こそ幸いだと主イエスは言われるのです。

3.神の言葉を聞き、守る人こそ幸いである
 イエスのような神の御子、聖なる方を宿した胎や、養った乳房よりも、その語られる御言葉を聞き、守る人の方が幸いです。なぜ主イエスはそのように言われたのでしょうか。この場合の幸いである、という意味は、自分がそう思っているかどうかとか、人間としてみた時に幸せか、というような判断基準にはよっていません。人を造られた神様の観点からの話です。人は、恵まれた環境の中で育った人に会うと、羨ましがったり妬んだりします。幸せな良い境遇の中で育ってきていいなあ、と。しかし神が幸いとされるのは、何不自由なく生活できるとか、金銭的に何の苦労もないとか、心身共に何も不都合がないとか、そういうことによって人を恵まれているとか幸いだとは言われません。心を神に向けて、罪を認めて悔い改めて神に立ち帰り、その御言葉に従って生きようとする人を幸いだと言われます。
 先ほどの悪霊がうろついて休む場所を探し求める話ですが、見つからないので出てきた家、追い出されたはずの家に戻ってきます。すると掃除がしてあった。しかし全く無防備で、悪霊にとっては隙だらけの家です。それで住み着いたというわけです。この話はとても興味深いことに気づかされます。現代人も同じです。罪と悪に対して無防備でいると、感覚は鈍くなり、容易に悪に染まってしまいます。あからさまに悪とは見えなくとも、その場限りの快楽だったり、見せかけ優先だったり、というものに左右されやすく、人の評価ばかり気にして本当に大事なことを見失ってしまうのです。そして目に見えることしか受け付けなくなり、見えない神の存在や、御心には全く心を向けようとはせず、神の言葉を聞き守ることには、さらさら関心がないという状態です。
 では、神の言葉を聞き、守る人は、その幸いをどうして手に入れられたのでしょうか。あるいはどうしたら手に入れられるのでしょうか。これはもう神の恵みによるとしか言えません。なぜ私は今こうして神の御言葉を聞く者となっているのか。私が神に近づいたように思っていたが、実は神の方から近寄って来てくださっていたのでした。しかしそれはやはり誰か彼かの働きかけがあったのも確かです。そうやって神は人を用いて別のある人を動かされます。そしてその人が働きかけた人の心を動かされます。そしてその人は、自分に働きかけてくれた人の背後に、神の恵みと御力を見ることになるのです。そしてその人の内に、救い主イエス・キリストがおられることを知るようになります。人の中にイエス・キリストを見るようになったら、それはもう信仰の世界に招き入れられたことのしるしです。
 それを傍から見ている、信仰をまだ持たない人は、そんなものを信じちゃって、などと思ったりもするのです。しかし主イエスを人の中に見いだし、自分の内にもおられることを悟った人は、神の言葉をさらに聞き、守る人とされていきます。その人は神の恵みの中に招き入れられ、信仰の道、狭い門から入って狭い道を歩くことになるけれども、確かに命へと導いていただける道へと歩み始めたのです。その道では、主イエス・キリストが先導しておられます。そして主イエスを羊飼いと仰ぐ、共に歩む羊たちがいます。その道を歩くようにと召し出していただいた人は、それは何物にも代え難い神の救いの恵みに与っているのだと知り、自らの弱さも罪も担ってくださっている羊飼いなる主イエス・キリストの声を聞き、それを聞き続けて生きるのです。そして、主により頼みますが、自らの内にも御言葉を心に蓄え、神の武具を身に着けるのです(エフェソの信徒への手紙6章11、17節)。

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