「群衆を養うイエス」
- 日付
- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ルカによる福音書 9章10節~17節
「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 9章10節~17節
「群衆を養うイエス」 ルカによる福音書 9章10~17節
2025.7.6
今日示されているこのお話は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が全て記している奇跡物語です。それだけ重要な話であるとも言えますが、しかしこの出来事は、ただイエスが僅かな食べ物をもとに大群衆に行き渡るほどの食べ物を配れるお方なのである、というその奇跡を行う能力について知らせたいというだけのものではありません。もしそうだったら、イエス様はすごい御力をお持ちの神の御子だ、という感嘆の言葉が感想として語られるだけに終わってしまいそうです。しかし私たちは、このお話で示されていることの意味を聞いてまいりましょう。
1.十二使徒の報告の後に
使徒たちは神の国を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊に打ち勝つ力をいただいて宣教の旅に出て、そして帰ってきました。自分たちの行ったことを皆主イエスに報告します。この働きは主イエスの権威の下に行われ、使徒たちはあくまでも力を与えられ、権限を委ねられて行ってきたにすぎません。報告することにより使徒たちは、自分たちが主の特別な委託によってこの働きをすることができたのだ、とより深く実感できたことでしょう。
主イエスは彼らだけを連れてベトサイダという町に行かれます。ガリラヤ湖の北の方、ヨルダン川の東側にあります。すると群衆はイエスの後を追います。興味深いのは、主イエスが彼らを迎え入れて、神の国について語ったこと、治療の必要な人を癒されたことです。これは、使徒たちが主イエスに遣わされて行ってきたことです。弟子たちは、自分たちも行ってきたことを主であるイエス様がなさるのを見て、この権威を持つお方と同じことを自分たちが行ってきたことに感じ入ったことでしょう。ああなんと大いなる業を、主イエスにしかできないような業を自分たちもしてきたことであろうか、と。そして彼らは自分たちと主イエスとの違いもまた思い知らされることになります。
2.あなたがたが食物を与えなさい
男だけでも五千人ほどの群衆は、一体どれほどの道のりを歩いてきたでしょうか。ベトサイダにいると知って追ってきたにしても、そこまで行ったら今日中に帰れるだろうか、食事はどうしたらよいだろうか、休める所があるだろうか、などある程度考える人もいたかもしれませんが、多くの人は、とにかくイエス様の話を聞きたい、病気を癒してもらいたい、という一心でやって来たのでしょう。弟子たちは群衆のことを心配して主イエスに解散を促しました。しかし主イエスは弟子たちが食べ物を与えなさい、と命じられます。しかしそこにはパン五つと魚が二匹しかありません。ヨハネによると、それはある少年が持っていたものでした。マタイもマルコも、そこは人里離れた所だと書いており、ルカの記述からも、村や里から離れていることが伺えます。弟子たちは主イエスから悪霊を追い出し、病気を癒す力を授かっていましたが、まさかこれほどの群衆に食べ物を与えられるとは思っていなかったでしょう。食べ物を買いに行かない限り、群衆すべてに食べさせることはできないと彼らは即時に判断したのでした。
今日、私たちも食べ物は買いに行く、という感覚が当たり前になっています。勿論家庭菜園があったり、畑を持っていたりしてある程度のものならば自給している人もおられますが、大抵の人は、自給自足はできていません。農家の方でも、農作物以外はいろいろなお店で調達していることでしょう。そのように、私たちは今日、食べ物は買いに行くという感覚が相当強いと思います。しかし食べ物は主なる神が、地上で生きるもののために備えてくださったものだという事実を思い出しましょう。あらゆる生き物の内、人間は特に神への感謝をすべきものとして食べ物が与えられています(Ⅰテモテ4章3節)。主イエスはここで敢えて買いに行きなさい、とお命じになりますが、買いに行くには町から遠く、今で言えばスーパーもなければコンビニもない、ではどうしたらよいか、と思案にくれるところです。しかし主イエスは買いに行けなくても、行かなくても御自身が調達できることを示されました。弟子たちは悪霊を追い出し、病気を治してはいたものの、その権威を授けてくださった方が、群衆を養える方だということまでは思い至りませんでした。この方なら何とかしてくださるに違いない、という信仰にまでは至っていなかったのです。
3.残ったパンくずは十二籠もあった
こうして主イエスは、男だけでも五千人もの人々にパンと魚を十分に与えることができました。女性と子供なども合わせれば一万人はいたかもしれません。私が通っていた小学校は全校児童が千人ほどいました。朝礼の時間に、校庭に並んでいた子どもたちの数で何となく千人という規模がわかります。その10倍となると相当の数です。
旧約聖書に登場する預言者モーセの時、荒野で食べ物がなくて人々が不平を漏らした時に、主は天からマナと言われる食べ物を降らせて民を養われました(出エジプト記16章)。それは神が与えたものでしたが、そのような役目を担ったモーセはイスラエルでは大預言者として尊ばれてきました、そして主はモーセのような預言者をやがて世に送ると約束しておられたのです(申命記18章)。
また紀元前九世紀の預言者エリシャは、数多くの奇跡を行いました(列王記下4章以下)。ある時、土地が飢饉に見舞われていました。ある男が大麦のパン二十個と新しい穀物を袋に入れてエリシャのもとに持ってきます。エリシャは人々に与えなさいと命じるのですが召し使いはどうしてこれを百人に分け与えることができましょうと答えます。しかし、エリシャは「彼らは食べきれずに残す」という主の言葉を告げ、その通りになりました。ユダヤの人々は聖書の話を知っています。エリシャが預言者として行った奇跡にはるかにまさる規模の奇跡をイエスは行ったのです。旧約聖書の時代の預言者以上の方が来られたことを示す業として示されたのでした。
また旧約聖書中の大預言書として知られるイザヤ書の中には、「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に肉と古い酒を供される」という預言の言葉があります。主が救いを与えられる時には、主が宴会を催される、という素晴らしい予告が描き出されているのです。主イエスはそういう預言を踏まえて、御自分がそれを実現に至らせるメシア=キリストであることを示されたのでした。モーセやエリシャにまさる方として来られたのでした。
そして、主イエスがこの大勢の人々が満腹するまで食べさせられた後に、残ったパンくずは十二籠にもなったのでした。十二という数も主イエスの十二人の使徒たちを表していると言えます。彼らはこの場面で自分たちの先生であるイエスがこれほどのことをなさるとは思いもせず期待もしていませんでした。しかし彼らには人々に配る役目があり、群衆に行き渡らせる働きがありました。そしてその働きは、日常の食物を配ることではなく、神の言葉という永遠の命に至るパンを世界中へと行き渡らせることでした。
主イエスがパンと魚を取って天を仰ぎ、賛美の祈りを唱えられたのは、聖餐式を思わせるものです。今日も聖餐式が行われます。司式する牧師の手の中で、パンは何倍にも増えることはありませんが、しかしこの尾張旭の地でも教会が立てられ、主イエス・キリストの御名のもとに礼拝が行われ、イエスこそ世に来るべきメシア=キリスト、つまり救い主であると信じる民が起こされ、集められています。世界中で見ればそれは優に五千人や一万人を超えています。これこそ、十二人の使徒たちの後、ずっと教会が続けてきた宣教の働きによっています。12の籠に一杯になったパンが象徴するように世界中に届けられ、そして多くの人々を永遠の命へと導き、神の国の民としています。
今、世界は混とんとしており、どこへ向かっているのかというはっきりした答えは人間からは出てきません。この世で、私たち主イエスを信じる者も、この世がいつどうなるのかはわかりません。しかし、確かな羊飼いがおられます。目には見えなくとも確かにおられることを、主はこの二千年にわたって教会を通して示し続けてこられました。目に見える教会の歩みだけを見れば、それは欠けのあるものであり、人と人とが衝突し、袂を分かつということもありましたが、それは羊が時に勝手な方向に行こうとしたり、羊飼いの意図を十分に理解していなかったりすることから生じてきました。それでも、真の羊飼いとその羊たちは途絶えることはなかったのです。
今日の招きの言葉の詩編にあるように、「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」という告白はいつの時代、世界がどのようであっても、羊たちは同じ声をあげます。今日、私たちも主に養われています。それは体と心、生活に必要なものによると共に、私たちの魂を生かし、強め、支える霊的な養いを御言葉と礼典(洗礼と聖餐式)、そして祈り、それらが特に目に見える仕方で実現している礼拝を通して与えられています。聖餐式にあずかる時にも、その食卓の中心には主イエスがおられ、世界中の主の教会に、群衆を養い奇跡を行われた同じ主イエスがおられます。五千人以上の人々を満腹させたことは確かに奇跡です。しかしそれ以上に、何世紀にもわたって主の教会において民を養い続けてこられたその御力は、五千人の養いにはるかにまさります。十万人や百万人どころの話ではありません。私たちは今、その恵み深い力と憐れみの内に置かれていることを信仰によって見ているのです。
