神の国は来ている
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- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ルカによる福音書 11章14節~23節
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」 ルカによる福音書11章20節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 11章14節~23節
新しい年を迎え、最初の主の日を与えられました。主の日は、イエス・キリストが復活されたことを祝い記念して初代のクリスチャンたちが礼拝をはじめ、キリスト教会の礼拝として定着したものです。今私たちはこうして主の日、日曜日に集まって礼拝をしています。それは、この教会が、主イエスのもたらされた神の国を信じ待ち望む者として、礼拝をしているということです。主イエスは、天の父は求める者に聖霊をくださると約束されました(13節)。それは主イエスこそ私たちに天の父である神から最も良いものをくださる方であると示しています。その主イエスは、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出しておられました。それを見ていた人の中には、それを悪く言う者があり、イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出しているのだという者がいたのでした。
1.悪霊を追い出す
悪霊につかれた人がしばしば聖書には登場します。現代人は、そのような現象を受け入れにくいとも言えますが、福音書の記事では、病気と、悪霊につかれた人とを区別して書いている所があります(ルカ6章18節)。悪霊につかれた人の場合、墓場を住みかとして、怪力を発揮するなどの異常な様子が示されていることがあります。今日の私たちは、目の前の人が病気である場合、それが肉体であれ、精神であれ病を得ている場合、それを悪霊の仕業だと簡単に言うことはできません。主イエスが世に来られた時には悪霊たちの活動が盛んになっていたとも言われます。
主イエスは悪霊の存在をはっきり認識しておられましたから、その御力によって悪霊がついている人から出て行くようにお命じになると悪霊どもは逆らえず、出て行くのでした。ここに今のこの世界の状況が示されています。神様は、御自身に背き、人に悪を働き、悪影響を与え、体を不自由にしたり、普通の生活ができないようにしたりする悪霊どもの存在を、今はまだ許しておられます。この世からその存在自体を消滅させることまではまだなさいません。だから悪霊どもは人間に働きかけ、罪に誘い、罪を犯させ、人を神から引き離そうとする活動を続けています。
しかし、悪霊どもは神の子としてのイエスを知っていて、自分たちを人から追い出す権威を持つ方だと認めています。それで主イエスが、人から出て行くように命じられると、悪霊どもは従わざるを得ないのです。神の御子に命じられても、いやだから取りついた人から離れない、ということは許されていないのでした。神様にはこの世界に対する明確な御計画があり、最後には御自身の御国を完成させられます。それまではこの世界の中で人間は堕落した状態で生き、罪と闘いながら信仰をもって神の御言葉に聞きながら生きる者となることを神が望んでおられるのです。
2.神の国はあなたたちのところに来ている
しかし、主イエスが悪霊を追い出していることについて、それは悪霊のかしらベルゼブルの力で追い出しているのだ、とあらぬ言いがかりをつける者や、天からのしるしを求める者がいました。天からのしるしについては、この記事の後、29節以下で主イエスがお話をされますので、そこで話します。
悪霊のかしらが、手下の者を追い出すことでいったい何の益が彼らにあるでしょうか。それは内輪もめであり、それでは国は立ち行かないと主イエスはごく一般的な理由を示して反駁されます。たとえ手下の悪霊が表向き従ったとしても、筋の通らないことを上の者がしていれば、下の者は喜んで従わなくなっていくでしょう。
また当時のユダヤの世界で悪霊を追い出すという働きがなされていたようで、だとしたらイエスを批判している人たちの仲間はいったい何の力で追い出すか、と主は問い返されました。結局、主イエスを批判する人たちは、イエスの力と悪霊に対する権威を認めたくないので、言いがかりをつけていたのでした。
ここでイエスは、御自分が悪霊を「神の指で」追い出している、と言われました。この表現は、モーセの時代にエジプトで奴隷となっていたイスラエルの人たちを救い出すために、神がモーセをお立てになってエジプトの王ファラオの所に交渉に行かせた際、モーセに不思議な業をさせる力を授けられました。その時、いろいろな不思議な業をモーセが行った時、エジプトの魔術師たちも同じようなことを行いました(出エジプト記7章11節、22節、8章3節等)。ところがモーセと共にいた兄のアロンが土の塵を杖でたたくと、ぶよとなってエジプト全土に広がって人と家畜を襲ったのでした。これを見たエジプトの魔術師たちが「これは神の指の働きでございます」といって自分たちにはできないと白旗を上げた話があります(同8章15節)。主イエスが悪霊を追い出されたのも、まさに神の指の働きである、つまり神が直接に事を行われたのだということを明らかにしているものです。
そうであるなら、神の国はあなたたちのところに来ているのだ、と主イエスは言われました。主イエスが宣教を始められた時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコ1章14節)。そこでは神の国は近づいた、と言われたのですが、ここでは神の国は来ている、と言われます。近づいた、というのは時間的な意味ではなく、手の届くところにある、という意味で「近づいた」と言われたのです。神の御子として主イエスが世に来られたことによって近づいたのです。イエスは神の国が近づいたとただ言葉で言うだけではなく、それが本当にこの世で起こっている事実なのだということを示すために、様々な奇跡を行われました。そして悪霊につかれた人から悪霊を追い出すことによって証しされました。悪霊が神の御子イエスの活動に水を差すかのごとくにその活動を活発にして、人々が神の国に入るのを邪魔するかのように登場してきました。そしてその悪霊どもを人から追い出すということを通して主イエスはご自分が神の国をもたらし、人々を悪霊の束縛から解き放ち、罪から救い出し、人々が真の平安と救いに与れるように救い主として活動されたのでした。人を神から引き離して苦しめる者から救い出し、神の子どもとして新たに生き始められるように、神の御子イエスは世に来てくださいました。
3.イエスに味方し一緒に集めるか
主イエスは、武装して家を守っている強い人のたとえを話されました。強い人は悪霊またはその頭である悪魔。もっと強い者は主イエスを表しています。ベルゼブルとは、「住まいのあるじ」というような意味です。それでこのようなたとえをされたのです。主は悪魔の武具をすべて奪い取り、「分捕り品」を分配されます。これはイザヤ書53章12節を思い出させます。苦しみを受ける神の僕は、多くの人の罪を担って打ちたたかれます。これは主イエス・キリストを描き出しているものです。この僕は自分を投げうち、死ぬことにより罪人の一人に数えられます。彼は自らを償いの献げ物とします(同10節)。そうして「戦利品としておびただしい人を受ける」のです。イエスのたとえに出る強い人は、その家を守っていたあるじに勝ち、頼みの武具をすべて奪い取ってしまいます。力ずくで敵をねじ伏せるという印象がありますが、イザヤ書の預言を見るとずいぶん違います。イザヤ書でも戦利品とは言われますが、それはあくまでも御自分を投げうって犠牲とし、その命を差し出した結果です。神の御子が自らを差し出して犠牲としたことに対して、敵の持つ頼みの武具はもはや役に立ちません。人を神から離れさせ、自分の欲得に従ってやりたいように生き、神に逆らう者とならせるために悪霊の頭は狡猾な手段を用いて近づいてきます。しかしそういう武器も役には立たず、神のもとから離れていた人々をイエスは戦利品として獲得されるのです。武力や暴力によるのではなく、犠牲の死という仕方で悪魔の武具を空しくされます。
そして最後に、イエスはご自分に味方するか、それとも敵対するか。この二つに一つの道があることを示されます。罪のもとに捕らわれている人間をそこから救い出し、そのためには悪霊どもを人から追い出すことをされる主イエスに味方するか。それとも敵対するか。ここではイエスはどっちつかずの中道路線はないと言われます。私たちは、この世において神の指をもって救いの御業を成し遂げられる救い主イエス・キリストにつき従います。イエスは信じないけれども信じる人が良いならそれでいい。自分は関係ない、という態度をとる人は多いかもしれません。別に敵対しようとは思っていないが信じることはしない、と。
私たちはそうではなく、既に世に来られて神の国が来ていることを示してくださったイエス・キリストの側につきます。今日の聖書個所のルカ一一章一七節には、イエスは人の心を見抜く方だと示されています。この方が神の国をもたらし、しかもその王となってくださいます。私たちは人の心を見抜くことはできませんが、与えられた信仰により神の国が来ていることを知ることができます。今から二千年も前に世に来られた方が私のために、私たちのために自らを十字架で献げて死んでくださったことを信じている人がいます。それはその方が神の指で悪魔の働きに打ち勝ち、その武具も奪い去って、私たちを罪から救ってくださった、その御力と恵みによっています。神の国には神の御支配が届いています。それはやがて自分が死んで天国に入れていただいて初めてわかるのではありません。今のこの時代に、この世に生きながらして神の国を味わい、見ることができます。一人の人が主に立ち帰るなら、それは神の国が来ていることのしるしです。私が信仰によって生きているなら、それは神の国が来ていることのしるしなのです。その人は救い主イエス・キリストが罪と死と滅びから救い出して獲得された尊い戦利品です。その代償はイエス・キリストの十字架の辱めと苦しみと死でした。武力によらず、自らを償いの献げ物として救ってくださったのです。
