主を呼び求める人への恵み
- 日付
- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ローマの信徒への手紙 10章5節~13節
「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ローマの信徒への手紙 10章5節~13節
今年最後の主の日を迎えました。今日は、私たちは主の御名を呼び求めるならだれでも救われる、という実に明確な宣言を聞いています。これは旧約聖書のヨエル書三章五節にある言葉です。ローマの信徒への手紙を書いたキリストの使徒であるパウロは、この旧約預言の言葉を引いて誰が救われるのかを単純に示したのでした。
1.キリストを引き下ろす、引き上げる
5節以下、パウロは少し難しいと思える話を進めます。律法による義についてですがここでパウロが言いたいのは、人が生きること、それは人が救われると同じ意味ですが、それはキリストを信じる信仰によるということです。それを言うのに、旧約聖書の律法を知っている人たちに書いているので、このような言い方を用いているのです。
「だれが天に上るか」。天とは神のおられる所、そこでは神が一切を支配しておられます。単純に言うなら、誰が天に上って私たちのために救いを獲得してくることができようかいう問いです。その問いは、既に地上で十字架にかかり、私たちのために救いの御業を成し遂げてくださったキリストを地上に引き戻すことになってしまいます。反対に、「だれが底なしの淵に下るか」。とは誰かが人間の罪を担って地獄の底にまでくだり、罪の償いをしてくれなければならないだろうかという問いです。それはキリストを死者の中から引き上げることです。キリストは既に世に来られて私たちの救いのために死んで、そして復活され、天に昇られました。その方を無視して、誰か他の人により頼むようなことはしてはならない。そんな必要はもはや全くないからです。それはつまりキリスト以外の自分や誰かの力によって、救いを勝ち取れるかもしれないという考えを捨て、ただキリストにより頼みなさい、という強い勧めなのです。キリストが私たちのために死んでくださらなかったかのような、そして復活して天に昇っていないかのような、そのような誤った理解をしてはなりません。キリストは既に救い主として必要なことをしてくださったのだからです。
そしてそのことは、もはや私たちの近くに、私たちの口に、心にある信仰の言葉、即ち福音によって示されています。私たちが聞き、語れる言葉として既に福音宣教によって与えられています。私たちが自分の救いのために求めるべきは、キリストによって十分用意されている。だから私たちはそれを信仰によって受け入れれば良いのです。
2.心に信じて口で告白する
次は、口での信仰告白と、心で信じる信仰のことです。口で公に言い表すことが先にあり、イエスの復活について心で信じるなら救われると言う順序です。しかしこれは時間的順序のことではなく、むしろ心で信じる方が先に来るのが普通です。しかし、心で信じて、口で公に言い表し、それで初めて救われるのでしょうか。しかし、心で信じたとして、その後口で公に言い表すことが続かないと言うことがあるでしょうか。ここはそういう順序についての教えではないので、九節では口での告白が先に言われているように、この二つは決して切り離せない一つのことなのです。
心で信じることによって、神は私たちを義と認めてくださいます。義認と呼ばれる教理です(ウェストミンスター小教理問答問33)。義と認めていただいているのに、口で告白していないから救われていない、というようなことではなく、心で信じた人には、公に口で言い表すことが伴ってくるのです。
そしてこの9節では、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら」と言われています。主イエスの十字架の死のことについて直接言われていませんが、死者の中から復活させられた、という言葉にそれが含まれています。主イエスが十字架で死なれたのは、御自分の民を罪から救うためでした。そして復活によって、その罪の贖いの御業が有効であり、真に罪の償いが成し遂げられ、罪と死の力が打ち破られたことを証拠立てるために復活されたのです。主イエスの復活は、十字架の死による罪の償いが神の前に有効であることのしるしです。主イエスが十字架で私たちのために死んでくださった、というところで終わってしまったとしたら、私たちの救いはいまだに完成していないことになります。だから、イエスのなさったことや御言葉は素晴らしいので、それに教えられた神の愛を知って、私たちも隣人愛に生きるというだけでは私たちに救いをもたらす信仰とはなり得ないのです。
3.主を呼び求める人への救いの恵み
パウロは続けます。「主を信じる者は、だれも失望することがない」と。イザヤ書二八章一六節の御言葉です。他の訳では「だれも恥を受けることはない」とも訳されます。神を信じ、キリストを信じて生きてきたのに、それが真実ではなかったということになって、信仰をもって生きたことが恥となるようなことは決してないのです。私たち人間は、人前で恥をかきたくない、恥ずかしい思いをしたくない、という気持ちが強いと思います。それは自分の名誉を守りたいからです。例えば、金がたくさん含まれている鉱山があると信じて、大変な労力をかけて金を掘り当てようとして一生をかけた人が、とうとう掘り当てられたなら名誉は傷つかないでしょうが、絶対あると確信して、人にも吹聴していたのに実は全く金などなかったとしたら、その人は恥をかく、ということになります。そして失望に打ちのめされてしまいます。こうなると信じて人生をかけてやったのに空振りしてしまったら、本当に失望の淵に突き落とされた気持ちになるでしょう。しかし、私たちは主を信じることについて決して失望に終わることはないのです。
主を信じる者はこの世での名誉・名声、財産や長寿、そういったものを究極的には求めません。この世で生きていくために必要なものは主からいただきはします。主が与えてくださった能力も良く生かして用いようとします。しかしこの世で主からいただくものは、この世だけのものであり、この世での生活が過ぎ去ればもはや用済みとなります。私たちはそれによって自分の栄光を求める必要はないからです。
主を信じる者は、誰も失望することがないのですが、では、この世で主を信じる者は何を受けるのでしょうか。主を呼び求める者は何人であるというような区別なく、救われるのですが、救われたものが受ける恵みとは何でしょうか。それはもちろん永遠の命、栄光の神の国で神と共に、神にまみえて祝福の内に永遠の命を味わうことになります。
しかし、ここでパウロが書いている「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」と言われているのは何を意味しているのでしょうか。豊かに恵まれるのです。これについて、ウェストミンスター小教理問答は問36で教えています。「義認」とはつまり心に信じて義とされることです。「子とすること」つまり神の子どもとされて神が父としてその人を守り生かし、決して滅びには至らせず、そして「聖化」即ち罪からも完全に清めてくださること、これらに伴いあるいはそれらから生じる恩恵があります。私たちが救われるのは、この世を去って、天国に招き入れられて、そこで初めて恵みが与えられるのではありません。もちろん、問37にあるようにこの世を去る死の時には完全に聖くされ、ただちに栄光に入りますから、この世ではそれはまだ受けられませんが、この世でも義とされ、救われた者はそこから生じる恵みをしかも豊かに受けられるのです。世を去ってからの恵みは、人によって豊かさの違いなどはありません。しかしこの世では主が御心のままに分け与えられますから、人によってその豊かさの性質や度合いは違ってくるとも言えます。しかしだれでも主を呼び求める人には豊かに与えられるのです。それがどのようなものであるかについて、問36は、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、恵みの内に最後まで堅忍することだと述べています。
神の愛を私たちが確信できるのは、何によってでしょうか。私たちが主を信じた後、すぐに天に召されるのではなくなおこの世で生かされているのは、私たちの罪の清めがまだ完了していない中で、また、主を信じない人や反対する人や、罪に誘惑してくる様々なものの中でも神に愛されているのだという確信を得られるように主が訓練をし、人や出来事を通して神の恵みを味わわせてくださるためです。私たちの生涯はそれを味わうためだとも言えます。
良心の平和があれば、ただ一人神にも人にも知られぬ苦悩を抱えて生きなくてもよくなります。自分の内面の心の思いと、外面の行動に一致がなく違ってばかりだと全く落ち着かないと思います。それでは良心に平和がありません。この世では人は褒めてくれたとしても、実は内面は違うのだということをいつも感じていなければならないなら、それはつらいことです。自分の心の内も、行動も、何もかも、主には明らかになっているので、自分の弱さと罪は自覚しつつも主にあって平安があります。一言で言うなら、罪の赦しを信じて安心して主の民として生きられるのです。
喜びも、単にこの世で何かがうまくいったとか、楽しく充実した人生を過ごせたという喜びに留まらず、聖霊における喜びですから、神とつながっているそのこと自体の喜びです。キリストによって栄光の神の国は約束されており、主に連なる人々と共に信仰によって歩める幸いがあります。それらの恵みが、この世で既に豊かにいただけるのです。主を呼び求める者は恵みの内に固く留まり救いの完成へと導かれます。それは主を呼び求める人への最大の恵みです。
