神は我々と共におられる
- 日付
- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 マタイによる福音書 1章18節~25節
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 1章23節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 1章18節~25節
クリスマス礼拝の時を与えられました。神が私たちのために備えてくださった救い主イエス・キリストの御降誕を感謝して、今日はマタイによる福音書によって、主イエスの誕生の時のことを神の御言葉に聞きます。この記事の話は何度も聞いた、という方も多いと思いますが生ける神の御言葉は常に新しく私たちに語りかけています。既に一度聞いたからそれで充分というわけではなく、私たちは聞くたびにそこに示された神の恵みと、救い主誕生、という出来事がいかに素晴らしい神の恵みであるかを知らされるのです。
1.イエス・キリストの誕生の次第
マタイがこの福音書を書いたのは、救い主イエス・キリストが既に十字架で死なれた後に復活され、天に昇った後です。しかも数十年経っています。使徒たちや弟子たちの宣教活動によって、あちらこちらに教会ができていて、主イエス・キリストを主と信じる人々が日曜日ごとに集まってキリスト教会としての礼拝をしている時代です。日曜日には、旧約聖書を神の御言葉として信じ、その聖書が預言していた救い主、メシア=キリストは、あのイエス様だ、と信じる人々が礼拝していました。そういう中で、マタイは特にユダヤの人々に向けてこの福音書を書いたのでした。
イエス様が人としてこの世で生活しておられる間に何をなさったのか、何を語られたのか。そもそもイエス様はどなたなのか。このようなことが教会で語られている中で、マタイは福音書を書き、特にイエス様がお生まれになった時に、何があったのかを書き記しました。だから、マタイが「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と書き出しているのは、この頃にはあのナザレのイエスと言われていたイエス様のことが、「イエス・キリスト」つまりキリストであるイエス、という呼び方で言われていたことを示しています。キリスト、つまりメシア即ち神によって油注がれた方、神が特別にこの世に送られた救い主であることを少なくとも読者たちは知っている中でこれが書かれたのです。既にイエス様が何をなさり、何を語り、そしてどうなったかを知っている人たちに向けて書かれています。そのような知識や情報が全くない中で「イエス・キリスト」と言っているわけではないのです。だから私たちも、ここで言われているイエス・キリストというお方は、神の御子として、多くの神の御言葉を語り、奇跡を行い、病人をいやし、目の見えない人を見えるようにし、聞こえない人を聞こえるようにしてくださった、そしてついには十字架につけられて殺され、死なれたけれども三日目に復活された方。そして天に昇られ、聖霊を与えてくださった方。そういう様々な素晴らしい御業をなさった方について、その誕生の時のことを書いているわけです。
2.ご自分の民を罪から救う方として
このイエス・キリストがお生まれになった時、母親となったマリアはまだ少女であったと思われますが、婚約していたヨセフと一緒になる前に身ごもっていることがわかりました。それは聖霊によるものである、とマタイは書いています。人間として生まれたけれども、それは聖霊の力によるのであって、通常の生まれ方とは異なっています。ヨセフは肉親としての父親の役目を担ってはいないということです。母親だけでなく、父親もいなければ人は生まれないことを私たちは知っています。しかし神の御子イエス・キリストには、人間の母親としてのマリアはいますけれども、人間としての父親はいません。ではイエスは人間とは言えなかったのか、ということではなく、人間としての父親がいなくても、人間として生まれるように聖霊がその御力によってそうなさったのでした。だからイエスは人間ではないとか、半分神で半分人間というのではありません。聖霊によってマリアの胎に宿ったのは、神の御子であることを示しています。そしてマリアの子であって正真正銘人間でもあられます。
そのようにしてマリアが子を宿したことを知ったヨセフは、自分の子でないことがわかっており、マリアが不貞を働いたのではないかと考えるしかなかったので、ひそかに縁を切ろうとしました。マリアのことを表ざたにしないためとありますが、結局マリアはお腹が大きくなってきますから、完全に引きこもってでもいない限り、マリアが妊娠していて誰かの子を宿していることはいずれわかってしまいます。そうすればマリアは遅かれ早かれ不貞を働いたのであろうと見られてしまうことはわかっています。それ以外だと、誰かに襲われて無理やり妊娠させられたのか、と人は思うかもしれません。でもそうならばなぜマリアはその時にそれを明らかにしなかったのかということにもなります。だからヨセフがマリアと縁を切ったとしても、マリアの身に何があったのかということについて何事もなかったかのようにはいかないのです。
そういう中、主の天使がヨセフの夢に現れて告げました。マリアは神の聖霊によって身ごもったこと、その子はイエスと名付けるべきこと、この子は自分の民を罪から救うからその名前をつけること。これを聞いたヨセフは眠りから覚めると言われたとおりにしました。
3.神は我々と共におられる
マタイは、この出来事について説明しています。それは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであったと。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言の言葉は、旧約聖書イザヤ書の7章14節にあります。これは紀元前8世紀にイザヤが当時南北に分かれていたイスラエルの内の南ユダ王国の王であったアハズと国の人々に告げた言葉です。北から来る大国の脅威に覚えていた人々に対して、主なる神が共におられるのだということのしるしとして、一人の男の子が生まれる、ということを告げたものです。
旧約聖書では、「神が共におられる」という言葉は、何度も民や預言者たちに語られてきました。だから、神が共におられるという約束はイスラエルの歴史の中では何度も与えられてきました。このイザヤの預言では、それがある男の子の誕生と結びついているものとして言われたのでした。その時代の誰を指していたのかはわかりません。
しかし、マタイはイエスの誕生においてこの預言が実現したと言っています。ということは裏返せばそれまでは実現していなかったのです。ただ、この実現する、という言葉は「満たされる」という意味があり、その点からすると、イエスの誕生によってやっと満たされた、とも言えるわけです。それまでにも神がその民と共におられるということが全くなかったわけではないのだけれども、神の子イエスが誕生されてこそ、それが十分に満たされたと言える。そして、神が我々と共におられるというのは、イエス・キリストというお方において実現する、満たされる、神はイエス・キリストというお方において私たちと主におられるということです。だから、イエス・キリストを抜きにしては神は我々と共におられる、というこの約束は完全には満たされていないのです。
今こうしてイエス・キリストの御名のもとに集まって礼拝をしている私たちは、神の子であり、救い主であるイエス・キリストの御降誕を祝っています。イエス・キリストにおいてこそ、そしてイエスというお方を通してこそ、私たちは神とのつながりを満たしていただけるのです。旧約聖書の時代、神が御自身を現わしてくださって信仰を与えられた多くの信仰者たちがいました。その人たちは神を信じ、神が共にいてくださると約束されました。ヤコブに(創世記28章15節)、モーセに(出エジプト記3章12節)、ヨシュアに(ヨシュア記1章5、9節)、イスラエルの民に(イザヤ書43章1、2節)。そしてイエス誕生前のマリアに約束されました(ルカ1章28節)。
神が我々と共におられる、という約束は一人一人の信じる者にだけではなく、神の民の群れに与えられた約束でもあります。私たちはこの世を一人一人個別に信仰をもって歩むのではなく、同じ神をキリストにあってあがめる人々、主の民と共に歩みます。それは大変ありがたく、力強いことです。イエス・キリストを羊飼いとする羊たちが、主イエスという囲いの中に守られ、主イエスを羊飼いとして仰ぎつつ共に歩ませていただいています。そのようにして、「神は我々と共におられる」という約束は、今、私たちの内にも確かに実現しているのです。
