平和の君が生まれた
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- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 イザヤ書 8章16節~9章6節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
イザヤ書 8章16節~9章6節
待降節の中、救い主イエス・キリストの御降誕を感謝して、神の御言葉に聞きます。今日は旧約聖書の預言書の中でも最大の預書書とされるイザヤ書から、私たちの救い主、神の御子イエス・キリストがどのような方として私たちのもとに来てくださったのかを教えられています。
1.主に望みを置くしかない状況
イザヤが預言活動をしたこの時代、イスラエルの情勢はあたかも暗闇の中にいるようなものでした。北から攻めてこようとする国々の脅威があり、人々の心は木の葉のように揺れ動いて動揺しているのでした(7章2節)。それは、イスラエルの罪のためであり、主なる神がご自分の民としてお選びになったイスラエルを罰し懲らしめるためでした。そうなると、イスラエルの人々はとにかく罰を受けねばなりませんので、自分たちを取り巻く状況が段々と悪くなっていくのを感じ取れます。預言者イザヤは、それを「主が御顔を隠しておられる」とたとえました(17節)。
預言者はそれでも主に望みを置いています。しかし民はどうかというと、預言者の語る言葉を聞こうとはせず、死人によって神に伺いを立てようとするのでした。死人を呼び出す口寄せや霊媒などを頼って、神からの託宣を求めようとするのでした。どこの国でもそういうものがあって日本でも死んだ人を呼び出すというようなことをする人々がいます。しかし私たちはそういうものではなく、生きておられる神に直接聞くべきであります。ましてイスラエルはずっと神の御言葉を与えられて導かれてきた民です。それなのに神の立てる預言者ではなく、霊媒や口寄せの力を借りて神の託宣を求めるとは、甚だしい不信仰であり、それは神からの罰を自らの身に引き寄せているのと同じことです。預言者の教えと証しが収められている書には見向きもせず、そんなものには力がないとまで言い放つのですから、イスラエルには苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、といった厳しい結果がもたらされることになるのでした。それが22節の前半までで言われていたことです。
2.暗闇の中にあっても光がある
そのような、人々にとっては全く希望が見いだせないような状況があるにも拘わらず、暗闇と死の影の谷を歩み民に光が照る、という神の宣言がイザヤを通して与えられています。ここでは、既に与えられた、ということを示す過去形で言われていますが、預言書にある一つの文学的表現であって、これから先に起こることを既に起こったこととして語る手法です。そしてこれを宣告される主なる神にとっては、不可能なことはないので、未来のことでも既に起こったこととして語ることができるのです。
しかしこれを聞いた当時つまり紀元前8世紀の南ユダ王国の人々にとっては、いったいどんなことなのだろうと思ったことでしょう。光が照り輝くこと、深い喜びと大きな楽しみが与えられること。北からの脅威を感じている中で、いったいそんなことが実現するのだろうかと。しかも刈り入れを祝うように、戦利品を分け合って楽しむように、神の御前に喜び祝ったと言われているのです(2節)。神の御前にですから、神から与えられる喜びとして受け取っているということです。敵に打ち勝つ、ということでは、後にアッシリア帝国が北イスラエル王国を征服した後(紀元前722年)、ヒゼキヤ王の時代にアッシリア帝国が攻めて来た時、主の御使いが現れてアッシリア軍十八万五千人を撃ったという出来事がありました(列王記下19章35節)。紀元前700年頃のことです。後の南ユダ王国の人々にとっては、イザヤが告げていたあの預言は、このことだったのだろうか、と思った人もいたかもしれません。しかし、南ユダ王国の人々も、やがてバビロン帝国に征服され、エルサレムの都は廃墟にされてしまいます。だとすれば、イザヤの預言はいったい何を表しているのだろうと後々の人々は思ったはずです。しかしこの預言の際立ったところは、敵が打ち破られることを告げたその後の言葉です。一人のみどりごが私たちのために生まれた、という預言です。
3.力ある神、平和の君が生まれた
普通に男の子が生まれたというのなら、それはいつでもあることです。ところがここで言われている男の子は実に特別な存在として生まれてきます。権威がその肩にあり、「その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられるのです。そのような名を唱えられる男の子など、これまでにいなかった。それはイスラエルの人々皆が知っていることです。イスラエルにおいてその王国の繁栄と統治の象徴的存在はダビデ王です。しかしダビデ王とて、力ある神などと呼ばれることはありません。だから、このイザヤの預言を聞いたイスラエルの人々はそのような男の子がいつ生まれるのだろうか、そもそもそんな男の子が生まれるのだろうかと思う人がいたとしても、それでもこのイザヤの預言は残され、ずっと聞かれ続けてきたのです。ユダヤでは安息日ごとに会堂で聖書が読まれてきました。そして人々はこの預言も聖書として読んできたのです。それはやはりイザヤが神から遣わされた預言者であって、神の言葉を語ってきた人であると知っており、その預言の言葉を尊んできたからです。そこには神への信仰があります。今、その神の言葉がどのように実現するのかはわからないし、いったいどんな人なのだろうかということも見当がつかないともいえます。しかし、その預言の言葉を捨ててしまうことはありませんでした。イスラエルがいかに不信仰に陥って、国が敵国によって征服されようとも、この預言の言葉を信じる人々はいたのであり、しかも預言の書として神の言葉として保たれ、読まれ、信じられてきたのです。これは実は驚くべきことです。
時は過ぎ、イザヤの預言から700年ほど経ってから、ユダヤのベツレヘムで一人の男の子が生まれます。その男の子こそイエス・キリストです。イエスこそ、先ほどの「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という四つの称号がぴったり当てはまる方だとイエスの復活を見た人々は確信しました。このイエスこそ、私たちの真の指導者、神、父、王として生まれた方なのです。私たちはその系譜に連なっています。その流れは現代にまで続き、今に至っています。主イエスこそ、イザヤが預言したこの驚くべき四つの称号を持つ、世に来るべき救い主なのです。
イエスは人としてお生まれになりましたが、同時に生まれる前から神の御子として存在しておられました。その力は、人としてこの世で過ごされた時に、風や波を鎮めることとか、悪霊を追い出すこと、死んだ人を生き返らせること、水の上を歩くこと、そして何よりご自身の死後復活されたことに現わされました。
しかしその御力は、復活後天に昇られてからも今に至るまで発揮され続けています。その力は単に物理的な力ではありません。人を心の底から新しくし、神に心を向けるようにしてくださることにおいて実に明らかに示されています。そして、神と私たちとの間に平和を実現してくださる方としておられます。私たち人間は自ら神に背を向けて元々あった神との良い関係を壊してしまったのですが、神の御子イエス・キリストはその壊れた神とのつながりを回復させ、しかももう二度と壊れないようにしてくださいます。もしキリストが回復してくださった神との平和が、再び壊される可能性があるならば、イエスは平和の君とは呼ばれ得なかったでしょう。そのような平和は頼りないものです。今の国際社会でも、平和な関係が保たれている国々はありますが、一度国の指導者が変わり、政策を変え、相手国に対する敬意を払わなくなったり、約束事を反故にしたりするならば、せっかく築かれてきた良い関係も、たちまち崩れてしまいます。その関係を修復するには実に多大な労力が必要になります。
実はそれと同じように、神と人との壊れた関係は、修復し、もう壊れないようにするのは至難の業だったのでした。神は天から呼びかけ、預言者たちを遣わして、悔い改めて従いなさい、と再三にわたって人間に勧め、命じてこられましたが、人間は呼びかけだけではそれに答えませんでした。いや答えられなかったのです。その力さえ失っていたからです。だから力ある神の御子が人となり、平和の君となって自ら人の罪を担い、人の心を悔い改めと信仰へと導き、新しく生まれ変わらせてくださいます。それによらねば神と人との関係を結び直すことはできなかったのです。
そして今や私たちにとっては、救い主イエス・キリストが預言通りに人として生まれ、力ある神、平和の君と唱えられています。神の御子イエスが私たちと神との関係を新しく結び直してくださいました。この結び目はもう誰も解くことはできません。人間が自力で結び直したとても、それはすぐに綻び、結び目は解けてしまいます。そもそも、人の力では結び直せませんでした。しかし、イエス・キリストが、ここでイザヤが預言した通りの方としてお生まれくださったので、私たちに救いがもたらされました。主イエスは力ある神として私たちを救ってくださいました。そして主イエスは永遠に父なる神と私たちが親しい関係を保てるように、平和の君として間に立ってくださいました。そしてその平和は絶えることがありません。このような唯一の救い主が私たちのために世に降って来てくださり、そして今も私たちのために執り成し続けていてくださいます。私たちはこの方の御名をほめたたえます。
