祈りを教えてください
- 日付
- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ルカによる福音書 11章1節~4節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。』と言った。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 11章1節~4節
今日から、キリスト教会の暦では、アドベント=待降節に入ります。待降節とはイエス・キリストの御降誕の時を待ち望む期間であり、同時に、既に天に昇られた主イエス・キリストが再び世に来られるのを待ち望む信仰を示す時でもあります。その最初の日に当たりますが、いつものルカによる福音書からお話をします。この一一章は、私たちが日頃献げている「主の祈り」について教えられている個所ですが、その中にある「御国を来たらせたまえ」という祈りは、救い主イエス・キリストの御降誕によってもたらされた救いの恵みが完成するに至る神の国が来ますように、という祈りです。そのことを覚えながら、今日私たちに与えられている主イエスの御言葉を共に聞きましょう。
1.私たちにも祈りを教えてください
私たちが礼拝でいつも献げている主の祈りは、聖書の中ではマタイによる福音書の6章9節から13節にも記されています。このルカによる福音書に示されている形より、マタイの方が今の主の祈りの形になっています。ルカの方が少し短くなっています。この違いについては、今日は気にしないで見てゆきます。イエス様がマタイ福音書に書かれているのとは別の機会に教えられたのかもしれず、何かの事情がありますが、今はそれにこだわらないでおきます。
主イエスは多くの時間を費やして祈りを献げておられました。それを近くで見ていた弟子たちは、主イエスには独特の祈りの仕方があるのだろうと恐らく思ったのでしょう。弟子の一人が「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスに願い出ました。ヨハネとは、洗礼者ヨハネであり、主イエスの先に世に登場して、人々に悔い改めの洗礼を授け、イエスこそ世に来るべきキリストだと告げた人です。このヨハネにも彼独特の祈りの仕方があったのでしょうが、イエスの弟子たちはそれを知っていました。しかしヨハネがその弟子たちに教えた祈りについては、福音書記者たちは何も書きません。情報としては伝え聞いたかもしれませんが、聖書の中には残っていません。ということはヨハネもそれなりの祈りの仕方を弟子たちに教えたでしょうが、それは後の時代に生きる主イエスを信じる者たちにとっては、あえて聞かなくてもよいもの、その時だけヨハネの弟子たちが知っていればよい限定的なものだったわけです。もちろんヨハネの祈りにも、私たちが同じように祈るべき事柄が内容としてはあったかもしれませんが、それは伝えられる必要がなかった。後の世まで語り教えられるべき祈りは主イエスが教えてくださったことの中にすべて含まれている、ということです。
弟子たちは旧約聖書の教えを知っているのですから、旧約聖書のあちらこちらに、いろいろな人の祈りが書かれているので、それらを見れば、どんな風に祈るべきかはわかります。しかしそれらは膨大な頁の旧約聖書の中のあちらこちらにあるので、弟子たちとすれば自分たちの主であり先生であるイエス様なら祈りをどのようになさるのか、それを聞きたいと思ったのでしょう。
2.祈る時にはこう言いなさい
すると主イエスは「祈る時にはこう言いなさい」と言って、この祈りを教えてくださったのでした。主イエスはしばしば祈っておられましたから、すぐに弟子たちがどう祈るべきかということをその場で教えてくださいました。そして、ルカによる福音書では短い形ではありますが、この主の祈りと呼ばれる祈りが、後々、十二弟子たちから始まってすべての主イエスを救い主、神の御子と信じる信徒たちの間で、世界中で祈られるようになっていきました。本当に主イエスの全世界に及ぶそのお力と影響と、主イエスについての福音の世界的広がりがいかに素晴らしいものであるかがわかるというものです。
こう言いなさい、と言われるからには、やはり天の父である神に祈る時には、それにふさわしい祈り方があるということです。主の祈りに示されている祈りは、ただこの言葉の通りに祈ればよいとか、これ以外の言葉で祈ってはいけないとかいうものではなく、祈る時にはどのような内容を、どのような順番で祈るのかという祈るべきおもな内容と、その本質的な意味とを教えているものです。私たちも、礼拝であれ、その他の集会であれ、一人でまたは家族で祈る時に、主の祈りそのままの言葉でなく祈ることはしばしばあります。しかし、祈りの本質的なことについては、主の祈りで示されている内容を、まずよく理解していることが必要なのです。
モーセを通して十戒が与えられましたが、その十戒を見てみますと、前半の第四戒までは、神に対しての戒めであり、後半の第五戒から第十戒までは人に対して、隣人に対しての戒めです。それと同じように、この主の祈りもまず神様に直接関わる内容を祈ることから始めて、そして後半で自分たち人間のことを祈るのです。
主イエスは神の独り子であり、父なる神の御心をご自身の御心としておられる神の御子ですから、天の父である神に対してどのように祈るべきか、誰よりもよく知っておられます。この祈りの中には、私たちが祈るべき大事なことがすべて入っています。今日はこのルカによる福音書で示されている、祈りの前半部分についてだけ学びます。この二つのことの中に、今私たちがこの世で生かされていることの意味と目的が何であるかが教えられています。
3.父よ、御名が崇められますように
まず私たちは、父である神の御名が崇められるように祈り願います。そもそも人間は神の形に似せて造られました、それは、人が他の動物とは違って、神との間に言葉による交わりを持つことができるようになるためでした。被造物である人間が、ただ神様に造られたものとしてこの世でやりたいように生きていくのではなくて、人は神からいただいてものによって生き、神への感謝と賛美を献げる者として神の前に歩むようにされました。その人間はまず自分自身が神を崇める者となるべく生きるべきです。そして他の人もまた神を崇めて生きるようになることを求めます。
しかし人は創造された後に神に背いて罪を犯し、堕落してしまいました。だから、本来神に感謝し、神を崇める者として生きていくべきなのにそれができなくなっています。もし人が誰でも神を崇める者として生きているならば、主イエスもこのような祈りを教えられなかったことでしょう。しかしそうはなっていないので、神の御名が相応しく崇められるように、この祈りを献げる必要があるのです。それは神ご自身がそのように計らい、人に恵みを注いでくださいますようにという願いです。なぜなら、人は神からのそのような恵みによって初めて神を神として認め神としてあがめるようになれるからです。人は神の恵みなくして、自力で神を崇めることのできる者にはなり得ないのです。
更に、御国が来ますように、と祈り願います。これはそもそも神様が、何のためにこの世界を造り、そこに人を造り、生かしておられるのか、ということに関わってきます。神はこの世界をただずっとこのままに永続させて保とうとしておられるのではありません。今あるこの世界を一度終わらせて、神に背いた人間の罪を裁き、新しい秩序をもたらし、この世界を全く新しくされることを御計画なさっているからです。そのことは、使徒パウロがエフェソの信徒への手紙に書きました。「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストの下に一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。~それは以前からキリストの希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(エフェソの信徒への手紙1章10~12節)。パウロはこの一章の一四節までに、四回も神がほめたたえられることについて述べています(3、6、12、14節)。すべてのものが神の御名と栄光をほめたたえるようになること、そして神の御国が完成すること。これが神の大きな御計画の下にこの世界においてなされている神の御業なのです。だから私たちは御名が崇められますように。御国が来ますように。と日々祈ります。この祈りはこの世が今の状態で存続する限り、主の民が祈り続けます。主イエスがこの祈りを祈るようにと私たちに教えてくださったということは、この祈りを天の父なる神が必ず聞いていてくださって、それが実現するようにと御手を伸べて地上に住む人間をその方へと導いてくださるのです。
