2025年11月16日「本当に必要なこと」

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本当に必要なこと

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
ルカによる福音書 10章38節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

 「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書10章42節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 10章38節~42節

原稿のアイコンメッセージ

私たちの日常の生活の中で、それぞれの場面でまず必要なものは何か。第一に必要なことが第一となっているかどうか。これは常に問題になることだと思います。今日はマルタとマリアという、主イエスと親しくしていた二人の姉妹の家で起こった出来事から、主イエスは私たちに、必要なことは何か、を教えてくださっています。

1.主の足もとで聞き入るマリア
 この話が良きサマリア人のたとえの後に置かれているのも、意味のあることです。主イエスは律法の専門家から、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいかと質問されて、このたとえ話をされ、そして追いはぎに襲われて倒れている人を助けたサマリア人と同じようにしなさい、と命じられました。それは神を心と精神と力と思いを尽くして愛し、隣人を自分のように愛するという見本でしたから、そのようにしなさい、そうすれば永遠の命が得られる、ということでした。そもそも永遠の命とは、ただ永久にいつまでも続く命というのではなくて、神と共にいることのできる、人間にとって最高に祝福された状態でいられる命です。しかし主イエスの教えの全体、また聖書全体の教えからすると、それは人が何らかの努力を懸命に行うことで獲得できるものではなく、神からいただくもの、主イエスの救いの恵みに与ることによっていただくものです。主イエスは律法の専門家には、まず隣人を選り好みするのではないことを示され、その上で隣人愛の戒めの前に彼を立たせたのでした。律法の専門家は、自分が隣人を選ぶのではなく、自分が誰かの隣人になることをまず覚えねばならなかったのです。そうして、主イエスのつまり神の御言葉を一心に聞くということがまず何より必要なのだということを今日の短いお話で私たちに示しておられます。
 さて、主イエスと弟子たちは、ある村に入られました。この村はヨハネ福音書によるとベタニヤという村で、エルサレムから3キロメートルほどの所にありました(11章1、18節)。イエスと親しくしていたマルタは、せっかく来てくれた主イエスをもてなすためにせわしく立ち働いていました。大事なお客さんが家に来るとなれば、特に食事については十分なもてなしをしようとして忙しく働くということは、どこにでもあることだと言えます。そういう風にしていたおそらく姉のマルタに対して、妹のマリアはイエスの足もとに座って話に聞き入っていました。ということは、イエスは初めから周りにいる弟子たちや迎え入れてくれたマルタたちの家で、人々に話をすることが目的だったのでした。イエスはここで世間話をして骨休みをしておられるわけではなかったのです。どんな話だったのかはここでは示されませんが、マリアにとっては接待よりも何よりもまず主イエスの話を聞きたかったのでした。もしかすると家の中ではいつも姉のマルタが取り仕切っていて、もてなしのことはマルタがやってくれるという思いがあったのかどうか、それはわかりませんが、とにかくマリアは自分の一番したいことをしたのでした。

2.多くのことに心を乱しているマルタ
 それを見ていたマルタは、マリアにではなく、主イエスに不満をぶつけます。もてなしをマルタに任せきりにしているマリアを見ても、何とも思わないのですかと。何も問題を感じませんか、という問いです。彼女は来てくれたイエスとその一行をもてなすのは当然と思っていたことでしょう。おそらく彼女は、来客が来ればいつでもそうだったのかもしれません。ましてやどんなお客よりも大事だと言っても良いイエス様が来られたのですから、なおさら気をまわしてもてなしのことで頭が一杯だったのかもしれません。それが当たり前なのに、妹のマリアはこちらの気持ちなど構わずにイエス様の足もとに座ってお話を聞いている。これはイエス様からひとこと言っていただきたい。そしてマリアへの不満を持っていたのだけれども、それをそのままにしているイエス様にも鉾先を向けていったのでした。
 そんなマルタに対して、主イエスは彼女が見落としているとても大事なことを指摘されました。おそらくこの主イエスの口調は、厳しいものではなかったのだろうと思います。主イエスも、マルタが自分たちをもてなしてくれているのを知っていましたから、彼女のその心を受け取っておられたでしょう。私たちは、このマルタの言ってきたことに対して、主イエスはどの点を指摘されたかに注目する必要があります。主イエスは、マルタが言ってくるまでは、マルタがしてくれているもてなしについて何も言っていません。何となればマルタも、もてなしのために気を配りながらでもイエスの話を聞けたかもしれません。だとしたら、それはそれでよかったのです。
 ところがマルタは、自分はもてなしのためにせわしなくしているのにマリアは悠々と座ってイエス様の話に聞き耳を立てている。自分だってそうしたいけれど、自分もマリアのようにしたら、誰がもてなしをするのか。やはり自分ではないか。いやマリアだってこの家の者なのだから、一緒に働くのが当たり前ではないか。それなのにマリアは気にも留めずに座っている。しかもイエス様もマリアのこの態度を全然気にも留めていないみたいだ。なんでどうして。仕方ない、イエス様にひとこと言おう、ということでイエス様のそばに近寄ってきたのではないかと推測できます。
マルタにとっての問題は、自分ではなく、マリアにあり、イエス様にあったのでした。ところがイエス様は、問題はマルタの内にある、と言われたのでした。イエス様は、自分たち一行のために心を砕いてもてなしをしてくれているマルタに対して、今は私が話をしている大事な時間だから、もてなしはいいからまずマリアの隣にでも座って私の話を聞きなさいと言われたでしょうか。そうではありませんでした。ただ、マルタが、マリアの今していることについてやめさせようとしているから、それについて言われたのです。だから、マルタにもこの時同じようにイエス様の御言葉を聞くために、やりようはあったのですが、彼女は心が乱れてしまい、肝心なところを見失っていたのでした。

3.ただ一つの必要なことを取り上げてはならない
 マルタにとっては、今大事なことはイエス様とお弟子たちの一行のためにできるだけのもてなしをして、くつろいでもらいたい、休んでもらいたいという気持ちだったのでしょうが、それに集中することができず、マリアの態度によって心を乱されていました。そうであれば聞こえていたかもしれないイエス様の話も耳に入ってこなくなっていたでしょう。マリアはイエス様のそばに座って話を聞いている。それはそれでいい。私はもてなしをする。でもイエス様の話も聞こえてくるからそれでいい。というようにはならなかったのでした。今この時、大事なのは、イエス様がここにいるということ、そうであれば自分たちはイエス様の話を聞けるのが何よりありがたいことなのだ、ということが見えなくなってきて、イエス様の話は自分もそばで聞きたい、でももてなしもしたい、でもマリアは座ったままで動かない。では自分がやるしかない。でもそれは不公平ではないのか。イエス様はなぜそれに気づいてくれないのだろうか。とこんな風にマルタの心は千々に乱れているのでした。
 主イエスはそのような状態に陥っているマルタに対して、必要なことは何か、に気づかせてくださいます。イエス様が来られたのも、人々に神の御言葉を教えるためでした。だとしたらその目的に従って目の前で聞いているマリアからそれを取り上げてはならない、と主は言われたのでした。マルタは、問題の所在はマリアとイエス様にあると思っていたのですが、実は彼女自身の心の内に問題がありました。一番大事なこと、今何よりも必要なことをしているマリアからそれを取り上げるのではなく、マルタ自身の心の内を省みる必要を主は示されました。ですからここでは、人を接待することなど必要ないからしなくてよいとか、接待に心を砕くことと、落ち着いて座って聞くこととの比較をしているのではなく、大事なお客をもてなしながらでも、話されていることを聞くことが悪いというわけでもありません。今マリアが本当に必要なことをしている時に、それを取り上げてはならないというのが主のお考えでした。マリアは、良い方を選んだのです。彼女にとっては、主のイエスの足もとで聞くことが何より良いことで必要なことでそれを彼女は迷わずに選んだのです。それは彼女から取り上げてはならないものでした。
ただ、これを今私たちがしている礼拝の場にそのまま当てはめるわけにはいきません。礼拝が終わったら愛餐会があって、食事の準備をしなければならない、と心が乱れて、その準備をし始めてもいいのかということではありません。礼拝の場であれば、皆がマリアのように主イエスのそばに座って聞くという姿勢を取る時間になるわけです。
 また、自分のするべき奉仕は多いので、他の人も分け持ってほしい。神様はそれに気づかないのだろうか。それを考え出すと礼拝での神様の御言葉やイエス様のお話が頭に入ってこないことがあるかもしれないし、目の前のあれこれの事に心を乱され、目的を見失いそうになることがあるかもしれません。私たちも今日の話を心に留め、神の御言葉を聞くという何よりも必要なことを見失わないようにすべきです。いろいろな奉仕は何のためか。それは主イエスの御言葉を心して聞き、主イエスによる救いに与り、永遠の命をいただくためであること。そして今まさに何より必要なこととして御言葉を聞いている人からそれを取り上げてはならない、と主イエスは教えてくださったのでした。

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