永遠の命を受け継ぐために
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- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 ルカによる福音書 10章25節~37節
「そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」ルカによる福音書10章37節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 10章25節~37節
「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。この問いが主イエスに対して発せられました。さて、この問いには、いろいろなことが含まれています。こういう問いを発するということ自体、永遠の命について日頃考えている人だからこそ出てきた問いです。この問いに主イエスはどのように答えられたでしょうか。今日はこれについて、聖書の中で大変有名なたとえ話である、善いサマリア人のたとえ話を通して主イエスの教えを聞きましょう。
1.永遠の命とは
私たちの日常で「何をしたら永遠の命が得られるだろう」という問いが発せられるでしょうか。そもそも永遠の命があるかどうかなど話題にもならない社会に私たちは生きています。人は死んだらどうなるのだろう、という問いにしてみると、それなら興味があるという人はいるかもしれませんが、永遠の命というと一体どんな命か皆目見当がつかないと言うかもしれません。人は死んだら天国に行く、と思っている人も、それが永遠に続くのか、では永遠とは何かということまであまり考えないのではないでしょうか。漠然と死んだらあの世へ行くという程度かもしれません。
そして、むしろ世の中の多くの人にとっては、物価特に米の値段を安く、税金も安くしてもらいたい。それが切実な問題です。永遠に生きるかどうかよりもまず、暮らしが良くなり、健康でいられるかどうか。これが重要課題です。
ここに登場した律法の専門家は、時に主イエスから厳しく叱責されますが、彼らはユダヤ人として聖書の教えを聞いてきた人たちで、生活の中で神を信じて日常生活が聖書の教えと結びついた中で生きている人たちです。その点では、今日の私たちよりもはるかに主イエスと「永遠の命」という話題についてすぐにやり取りができたのでした。
しかし律法の専門家の問いは、まず自分が何をしたらよいかという点から始まっています。この出発点をまず覚えておきましょう。彼は、イエスを試そうとして問いかけたという点も重要です。彼は律法の専門家として何をしたらよいかを知っています。その上でイエスを試そうとしたわけで、自分が良く知る律法の教えの他に何か独自のことを言うのかどうか、聖書の律法の教え以上のことを言うのかと言ってイエスの教えをあげつらうこともできるからです。
主イエスは律法には何と書いてあるかと問い返されました。そしてそれをどう読んでいるか、と。まずは聖書に何と書いてあるかを正しく受け取り、そしてどう読むか。つまりどう解釈して受け取り、行っているか、という点です。
2.神を愛し、隣人を愛しなさい
彼はまず、聖書の教えを単純に述べます。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と。これは申命記6章5節、レビ記19章18節を合わせたものです。律法の専門家ですからそれは知っています。申命記六章二節には「あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである」とあります。ダニエル書には「ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(12章2節)とあるので、永遠の命に入るためにはどうすべきか。それは主の戒めに従って生きることだ、となるわけです。
主イエスは、律法の専門家の答えは正しい答えだ、それを実行しなさい、そうすれば命が得られる、と言われました。ここでの主イエスの答えは、ではそれが人間にできるのかどうかということは問題とせず、神から人に対して与えられている掟と戒めはそれを人が行えるのなら、それによって命を得られるものなのだという点について言われただけです。しかしこれはとても大切なことを含んでいます。神の掟や戒めは、何々をしなさい、という命令であり、人がそれを行うかどうかが問題なのですが、それは神を愛することの現れとなるものです。神の戒めを守らないと裁かれる、厳しい審判を受ける。それは恐ろしいから仕方なく従うというのではなく、私たち人間を造り、生かしてくださっている生ける神を、心と精神と思いと力を尽くして私たちが愛することを主は望んでおられるのです。そしてそこから進んで隣人を愛する方に向かうように神の愛は与えられています。神は愛するが、隣人つまり目の前にいる人を愛さない、というのはおかしなことで、神を愛することは、隣人を自分のように愛することと一つのことです。ですから、律法の専門家が神を愛することと、隣人を愛することの二つをあげたのは、正しい答えでした。
3.行って同じようにしなさい
主イエスは、その戒めを実行しなさい、と言われましたが、律法の専門家は切り返して「わたしの隣人とはだれですか」と聞き返します。それは自分を正当化しようとしてでした。自分の正しいことを示そうとして、という訳もあります。彼は隣人を愛しなさい、という戒めをよくよく知っているつもりでしたが、自分にとっての隣人は、ある特定の人だという考えを持っていたのでした。愛すべき隣人とそうでない隣人がいる、という見方で、同じ民族である同胞イスラエル人は愛するけれども、敵は愛さずに憎んで良いという考えです。神を愛することをしてきたつもりでも、隣人を愛するという点に関してはその対象を限定していたのでした。自分が隣人愛を向けるにふさわしい相手は誰か、と。その隣人は愛するが敵は憎んでよろしい、と。
それに対して主イエスはたとえ話をされました。善きサマリア人のたとえとして大変有名です。主イエスはこの話によって、律法の専門家に、隣人をより分けるのではなく、自分が出遭う人は誰でも隣人であるし、はじめから隣人をより分けるのではないことを、まず気づかせようとされました。
追いはぎに襲われた人を見ても素通りした祭司は、宗教指導者で神礼拝を司る人です。レビ人は祭司の下でやはり礼拝のために必要な働き人です。しかしどちらも倒れている人を見ても道の向こう側を通って行きました。彼らには礼拝のための大事な務めがあります。しかし襲われて倒れている人を見ても素通りして行きました。この二人が示しているのは、神への務めとして礼拝のための働きをしてはいたけれども、隣人愛については全く神の戒めを行っていなかった点です。倒れている人を見ても、サマリア人のように、憐れには思いませんでした。しかし、ユダヤ人から見れば異邦人であるサマリア人は、この人を宿屋に連れて行って介抱しました。倒れている人を見て憐れに思ったからです。それが隣人愛の出発点です。憐れに思うからこそ近寄って助けたのです。それは神が私たちを愛してくださっている愛から出ているものです。しかし注意しておきたいのは、このサマリア人はできるだけのことをして宿賃を払い、不足分も払うと言いましたが、今後のその人の生活まで丸抱えで面倒をみるとまでは言っていません。
そして主イエスは律法の専門家に質問されます。だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うかと。もちろんその人を助けた人です、と彼は答えます。このサマリア人は襲われた人の隣人となったのでした。すると主イエスはあなたも行って同じようにしなさい、と言われます。
この律法の専門家は、隣人を愛しなさい、という戒めの前に、その出発点に初めて立たされたのでした。それまでの彼の隣人愛は、その対象を振り分けて、限定していたのでした。自分が愛すべき隣人をより分けていたのです。こうして彼は隣人愛の出発点に立たされたのですが、しかしこの後どうでしょうか。この主イエスの御命令が与えられて、では自分も同じようにしよう、そうして永遠の命を得ようということになるでしょうか。それで得られるのでしょうか。主イエスは私たちを、神を愛し隣人を愛すること、それを守ることで永遠の命を得られるという途方もない道へと放り出されたのでしょうか。もしも聖書の教えがここで終わっていたら、私たちは途方に暮れてしまいます。
主イエスはそう命じられたが、私たち人間にはそれは無理だと。事実そうです。このルカ福音書でも後に金持ちの議員が登場して同じ質問をします(18章18節以下)。彼は、自分は神の戒めは子供のころから皆守ってきたと言います。すると主イエスは彼には足りないものがあると言って、持ち物を売り払って施せと言い、実は隣人愛の戒めを皆守ってきたなどとは言えない、と示されました。そして自力ではできないことに気づかせたのです。ではどうしたら救われるのかという問題に光を当て、人間にはできないが神にはできると教えてくださいました(同27節)。
また、新約聖書の使徒パウロの手紙には、私たちの行いではなく、キリストの十字架の贖いを信じる信仰によって私たちは義とされ救われる、と明白に教えられています(ローマの信徒への手紙3章23節)。だから福音書もまず全体で何を教えているかを知り、新約聖書全体でもどう教えているかを知る必要があるわけです。ウェストミンスター小教理問答は、問82以下でそれを教えます。私たちは神の戒めを完全には守れないから神の裁きを受けるしかないが、ではどうすれば救われるのか。罪からの贖い主であるイエス・キリストを信じることです、と(問85)。
だから今日の善きサマリア人のたとえは、まず律法の専門家を隣人愛の出発点に立たせること、それは私たちも同じように、自分の隣人愛、そしてその前にある神への愛を顧みさせてくれます。その上で私たちが改めて神を愛し隣人を愛する戒めの前に立つようにしてくださったのです。すると今度は、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか、という質問ではなく、イエス様を信じて救いをいただき、永遠の命を受け継ぐことができたので、私たちは何をしたらよいでしょうか、という質問に逆転します。そして同じ戒めが示され、命をいただいたのだから、それを実行しなさいと主は言われるのです。それが永遠の命を受け継いだ者に相応しい歩みなのだと。
