2025年11月02日「「命を得るために」」

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「命を得るために」

日付
説教
久保田証一 牧師
聖書
箴言 9章1節~12節

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「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」箴言9章10節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
箴言 9章1節~12節

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 旧約聖書の箴言は、未熟な者に熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるためのものだと第一章に書かれています。では、若くない者、長く人生を歩んできた人は対象としていないかと言うとそうではなく、賢人になお説得力を与え、聡明な人には指導力を増すことになる、と言われています(1章4、5節)。つまりどのような年齢層であれ、どのような知識や経験や能力があろうとも、耳を傾けるべき教えだということです。それはなぜかと言えば、人を造り生かしておられる創造主なる神からの教えだからです。この世でどれだけ知恵があるとみなされていても、どれだけその教養や学識を認められていようとも、聞くべきものなのです。

1.主を畏れることは知恵の初め
 そのような教えである箴言は、同じ1章の7節で「主を畏れることは知恵の初め」と言っています。その同じことが今日の個所でも言われています(9章10節)。この言葉に、箴言全体の基盤があります。真の知恵とは、天地の主であり創造者である神を畏れることにある。そこが出発点です。何でもそうですが出発点が間違っていれば、たどり着くべき終着点に向かって進むことができません。
主を畏れ敬うこと、神を神としてあがめ、へりくだり、自分がその下にあって生きていることを弁えること、それが知恵の初めである。そこから、あるいはその上に、知恵は築かれていき、積み上げられていくとも言えます。そしてそこを出発点としない限り、真の知恵の道を歩むことはできないのです。

2.命とは何か
 今日の個所では、6節で命を得るために知恵の調合した酒を飲み、パンを食べるがよいと命じます。命を得るためにと訳された言葉は、他の聖書では「命を得よ」、あるいは「生きよ」と命令形になっており、原文もその形です。知恵のパンを食べ、知恵の調合した酒を飲むがよい、と言っていますから命じていることには違いありませんが、端的に命を得よ、と命じられています。しかし人が得ようとして得られるものなのでしょうか。
 命とは何でしょう。あるいは生きよ、と命じられる時、どのような命を生きることがよいのでしょうか。生物として、心臓が動いていて血液が体の中を流れている、呼吸をしている、と言えばそれはとにかく生きている、ということは言えます。しかしこの箴言が言っているのは、もちろんそういう意味ではないことが明らかです。普通に人間として生きている人に向かって、命を得よ、生きよ、といっているわけですから。これは同じ生きるのなら知恵を得て生きよ、ということでしょうか。そういう面もありますが、やはりここは、人には神の下で神を畏れて生きる、そういう命、それこそ命である、と教えているのです。
 人が人間として言いている、心臓は動いて呼吸はしている、社会の中で働き、生活をしている。それは大事なことではありますが、聖書が私たちに教える命、神が私たちに与えてくださる命は、やはりそれ以上のものです。神からいただいた命を神の恵みとして感謝しつつ、神の栄光を帰するように心を向ける命です。神の御言葉を聞き、神に祈り、神の恵みを味わいながら、それが神からのものであると自覚して感謝を献げて生きる命です。
 しかし、そういう命と、神を知らず、神に感謝もせず、神の御言葉も聞かないで日々生活しているのとでは、何が違ってくるのでしょうか。命なら、今すでに与えられていて自分はその命を生きている。それ以上何が必要だというのか、という声が出てくるかもしれません。そして寿命が尽きて世を去れば皆同じではないかと。しかし聖書が言う命は、神から特別に与えられるものです。そしてそれは本来、神との応答があってこそ初めて生きたものとなるのです。生き物、生物としては人も動物も皆生まれた時から生きているのですが、神から新たに与えられる命は神からの言葉を聞き、そして神に応答する。それが神のかたちに似せて神がお造りになった人間に求めておられることです。

3.命を得よ
 神は創造されたままの状態の人間に対して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました(創世記1章28節)。だから人間はそれを知らなくてもこの世で様々な生産活動を行い、文明社会を築いてきました。その文明社会が良いかどうかはまた別の話です。そういうこの世界の中で人は生きています。しかし主なる神は、その中でさらに神の知恵、神を畏れるという知恵を知り身に着けて、そして生きよ、と言われるのです。神の前に堕落してしまったこの世界では、その中でも神は人に知恵を与え、この世で生きていける知恵と力は残してくださっています。だから人間はこの世界を良い方へ向け、便利にし、快適にしてきました。しかしその文明の発達が人に利益と安楽と健康と、文化的で豊かな、平穏な生活をもたらすと共に、それを壊すことにも力を奮ってきました。それはもはや説明を要しないことです。だから私たちは、主なる神が知恵を得よ、と言っていることに耳を傾けねばなりません。
 9章6節では、「浅はかさを捨てて」とまず命じられています。この言葉は純朴さ、素直さ、単純さを表しますが、同時にそれは信じ易い、とか騙されやすい、という意味にもつながります。素朴であることや単純つまりシンプルであることは良いことでもありますが、同時にこの複雑にいろいろなことが絡み合っている世の中では、それだけでは悪い意図を持った人に騙されてしまい易いのです。電話で警察です、と言われたら疑いもせずに言うことを聞いてしまって大金をだまし取られたというニュースを私たちはしばしば耳にしています。
 しかしここで箴言が言うのは単に、人の言うことを単純に信じないでまず疑ってかかれ、ということでしょうか。やはりそうではなくて、この世の中には善人と見える人も悪人と見える人もたくさんいて、犯罪や戦争やけんかの尽きない社会、そして理不尽なことも通ってしまい、それこそ正直者が痛い目に遭うような世界です。そういうこの世界は、神に造られて神の息つまり霊を吹き込まれて生かされているにも関わらず神に背を向けて、神から与えられた知恵を自分のために用いることにばかり集中し易くなっている人間の実態を知る必要があるということです。そして忘れてならないのは、自分もまたその中の一員であるという事実です。自分は世の中を観察して、悪いことをする人がいる者だ、と嘆いているだけで済む立場ではないということです。真に正しい方は主である神様しかいないことをよくよく悟っている必要があります。主イエスは言われました。主イエスを信じる者たちがこの世に出て行くのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい」と(マタイ10章16節)。蛇のように賢いだけではなく、素直であれ、というのは大変興味深い教えです。ただ賢いだけではなく、純朴な、おおらかな、単純な、素直な面も持ちあわせているのが主イエスの羊であると。
 世の中には、大変声の大きい人、影響力の強い人や団体があります。そして魅力的なことを述べて人を惹きつけ、それを信奉した人の人生をほぼ台無しにしてしまうのではないかということすらあり得ます。長年かけて蓄えてきた財産をつぎ込んで、気が付いたら手元には何も残らなかったという人がいます。そういうこの世の中で、私たちは聖なる方を知ることが必要です。聖なる方は、人がどうすることが良いのかを私たち人間よりもご存じです。その方に聞くことで命の日々もその年月も増す、と言われています(11節)。では、神を畏れるという知恵は、この世で長生きをさせてくれるというのが最大の益なのでしょうか。神の知恵を与えられて、命を得よ、というのは、この世でせいぜい長生きできて長寿を全うできる、ということでしょうか。
 聖書の教えでは、長寿自体は神の祝福です。そしてこの世で生きること自体も神の恵みであり祝福です。しかし、人はこの世でただ長く生きればそれが幸い、幸せだとは言い切れません。いくら長く生きていても、苦しみや痛みが常にあり、しかも孤独であって自由が利かないとなったら、それは忍耐を強いられる生活になってしまいます。箴言も、ただこの世の日々が増えればそれが幸いだというのではなくて、神を神として仰ぎ、神と共に生きることが幸いであり、そういう命の道に歩みなさいと言っているのです。たとえこの世的には孤独で病弱で何かと不自由な中で生きているとしても、実は主にあっては自由であり、人を死に至らせる罪の力から自由です。命の反対は死です。その死はただ寿命が来たら死ぬという死ではなくて、神との断絶という死です。それは罪の力に縛られたままでいれば待ち受けているものです。しかしそうではなく、心を神に向けて、神の恵みとして命を受けよ、と言われるのです。
 だからどれほど財産や権力があろうと、神とのつながりを持たない命を生きているなら、それは神に背く罪に縛られている命であり、それは神のもたらしてくださる命とは違います。箴言は一見するとこの世を上手に渡っていく術を心得させようとしているかのような教えもあるのですが、その根っこには神を畏れるという信仰の土台があって、そこに根を張ることが真の命に至る道だと私たちに教え、勧め、その命を得よ、と命じているのです。

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