週報コラム 2026.2.8
すべては主からいただいたもの
「わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」 歴代誌上 29:13,14
およそ人の集まる所、人が生活し、活動している所ではお金がかかります。今日のように貨幣が流通して、金銭で様々な商業活動がなされる時代では、あらゆることが金銭によって交換されます。私たちの献げる献金も、現代の教会ではほとんど金銭によって献げられます。ほとんどと言ったのは、金銭だけでなく農産物などを礼拝で献げる現代の教会も国によってはあると聞くからです。
何にしても、私たちが献げる献金は、神に対して献げるものです。集める場は、大抵は教会の礼拝であり、遠方から振替で送る場合もありますが、とにかく献げるのは神に対してであり、教会に払うものではありません。教会が受け取ったという確認をしますが、教会は神に献げられたものを取り扱い、金額を確認して管理し、報告します。そして神に献げられたものの中から、必要な経費をいただきます。その点、何かの団体に属して、毎月会費を払う、というのとは違います。
一人当たりの金額が決められている会費とは違い、各自が神に感謝して、自分の収入の中から元々神のものであったものを献金という形でお返しします。それはただ返すというのではなく、感謝のしるし、また自分自身は神のものであるという信仰を表すしるしとして献げます。
私たちは労働の報酬として給料を受けますが、全ては主からいただいたものです。この世で生活している限りは、何かにつけてお金がかかり、次々と出費が絶えることはありません。しかし、一ヶ月生活して残った分をその時々に献げるのではなく、初めに取り分けておくものです。
主イエスは、十分の一を厳格に献げるが正義と神への愛はおろそかにしているファリサイ派の人たちを厳しく非難されました。同時に献げ物もおろそかにしてはならないと言われました(ルカ11:42)。そして、十分の一は献げていても、高ぶった思いを持ち、他人を見下している者は、神に受け入れられないと主は言われました(同18:14)。
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