2020年05月24日「なぜキリスト教を信じるのか」

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なぜキリスト教を信じるのか

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章16節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書 3章16節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、伝道説教として「なぜキリスト教を信じるのか」というストレートな題でお話させて頂きたいと思います。多くのことが言えますが、今朝は三つばかりの点をお話致します。

 第一は、万物を創られた神が本当におられると思うからです。

 神がおられないなら、神を信じることは元より愚かでナンセンスなことですが、神がおられるなら、神を信じるのは当然で自然なことですね。では、神はおられるのでしょうか。

 今は、神を否定する進化論教育が一般的です。しかし、実は進化論には色々な生物の存在を本当に説明出来るかという大きな問題があります。

 進化とは、犬同士の変化のようなものではありません。ダーウィンが言いますように、原初の生命体が膨大な時間と偶然と自然選択の三つにより、複雑で高等な生物に自然に至ったとします。しかし、それは本当でしょうか。自然界では、高い所の物は必ず下へ落ち、温度差のあるものは中間の温度に向います。外から力を加えない限り、不安定で複雑なものは安定した単純なものへ向い、その逆は決して起りません。これは熱力学第二法則とかエントロピー増大の法則と言われる自然界の大原則です。ところが、進化論はこれに反します。原初の単細胞生物が、人間のような非常に高度で複雑で、それも不安定な者に自然に至ったとするからです。

 また進化論では、アメーバのような原始生物が自然に細胞分裂し、複雑な生物に進化したとしますが、ことはそんなに単純ではありません。細胞がコピーを作り、分裂し、増殖して初めて生命体と言えますが、それには細胞内の全ての蛋白質の合成に必要なDNAが不可欠です。しかし最初の細胞に、複雑で膨大な遺伝情報を持つDNAのようなものが、どのようにしてあり得たでしょうか。また、そのDNA情報を読み取り、メッセンジャーRNAを作り、コピーを作るのに必要なリボゾームなどの別々の分子機械は、どうやって初めから全部細胞内にあったのでしょうか。これらが最初から全部揃っていませんと、細胞は一切分裂も増殖もできません。ですから、ips細胞の研究でノーベル医学生理学賞を受賞された山中伸弥教授はおっしゃいます。「細胞を見ていると、こんな凄いものはやっぱり神様にしか作れないな、と」。

 他にもあります。単純な細菌の鞭毛を5万倍の電子顕微鏡で見ますと、船のスクリューと殆ど同じ構造で、プロペラ、駆動軸、モーターを初め、何種類もの部品からなる超小型の見事な工学機械であることが分かります。しかし、それらの部品は、進化論の言うように膨大な時間の中で一つずつ生じても意味がありません。最初から全部揃っていて、初めて鞭毛の働きをするからです。でも、どうやって最初から全部完全に揃ったのでしょうか。

 またこの鞭毛の動きが凄いです。毎分1万回転出来るモーターは高性能ですが、鞭毛の中には毎分10万回転し、しかも瞬時に僅か1/4回転で止り、次の瞬間には逆方向に毎分10万回転する驚異的なものもあります。こんなものが自然に生じるでしょうか。神がデザインされたものでなくて、どうしてあり得るでしょうか。

 2千数百年も前にヨブ記12:7~9は言いました。「獣に尋ねて見よ。あなたに教えてくれるだろう。空の鳥にも。あなたに告げてくれるだろう。あるいは、地に話しかけよ。教えてくれるだろう。海の魚も語るだろう。これら全ての内で、主の御手がこれらをなしたことを、知らないものがあるだろうか。」神はおられる!ですから、キリスト教を信じるのです。

 第二点に進みます。人間が生きる上での大切な指針があることです。何でしょう。正しさです。神が正しい義なる方ですから、神に創られた人間も正しく生きるべきだという明確な倫理があることです。

 聖書は、人が神に背き罪が入ってきたため、人は理屈をこね、状態を一層悪くしてきたことを教えます。「神は人を真直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた」(伝道7:29)。そして、ますます厄介な問題が増え、人間の罪で自然界も歪み、多くの悲惨が人間を襲うことも聖書は告げます。

 創り主なる神との関係が壊れ、世界は矛盾や不条理に満ちたものとなり、毎日驚く程多くの罪深いことや醜いことが起っています。しかし、私たちはこれではいけないと思っていると思います。

 私が10代の終りにキリスト教に関心を抱いた理由の一つは、一緒に学生生活を送ってきましたのに、いつの間にか世間ずれし、性的にも放縦な生活を送る者たちのいたことがあります。色々な本を読んでいた私は、自分を含め、段々人間の罪深さ、汚さを強く思うようになり、それに伴い、キリスト教に関心を持つようになりました。

 無論、神による死後の裁きを思いますと、怖かったです。しかし、正しい神がおられ、人も正しくあるべきであり、最後には神が全ての人を公平に裁かれることにも納得できました。しかもその神が人間を憐れみ、ご自分の御子を十字架につけ、私たちの罪を償って下さいましたので、私もイエス・キリストを心から信じるだけで救われることが分り、安心して洗礼を受け、クリスチャンになりました。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 私たちは、正しい神なら、戦争やむごい犯罪が起るのを何故止めないのか、と思うこともあるでしょう。しかし聖書、特に旧約聖書を見ますと、神が敢えてしばしば手を引込めておられることが分かります。人間に好き勝手にさせ、その結果、とことん悲惨を味わい、人が自分の罪深さと惨めさに心底気付き、悔い改めるためです。

 罪の世を神が早く終らせ、悪を滅ぼして下さるようにと思うこともありますね。しかし、Ⅱペテロ3:8、9は言います。「愛する人たち、あなた方はこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなた方に対して忍耐しておられるのです。誰も滅びることがなく、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 神は正しい方です。ですから、私たちもイエス・キリストに導かれていつも正しく生きる意味があります!決して空しくありません!ここに良心の深い満足も安心もあります。これがキリスト教です。

 三つ目は愛です。神が愛に満ちた方ですから、私たちも愛し合うべきであり、またそこに人間の最大の幸福があるという点です。

 私自身を振り返りますと、まず神存在と神の正しさが大きな関心事でした。しかし、クリスチャン生活を重ねる内に、神の愛こそ究極のものであり、結局、人間も愛なのだと、ますます思うようになりました。

 愛の教えで有名なⅠコリント13:1~3で、使徒パウロは、私に愛がないなら、私は無に等しく、私は何の役にも立たないと言います。私たちも本当にそうだと思いますね。

 また13節には「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛」とあります。人間の救いの最終状態は天国ですが、そこでは愛が全てです!従って、人が今生きていく上でも最も尊いことは、神の愛を知り、私たちも相互に愛に生きることでしょう。これがキリスト教ですが、これこそ、人のあるべき姿ではないでしょうか。

 愛について、Ⅰコリント13:4~7はこう言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます。」これを読みますと、私たちは皆、自分の愛の欠けを思わずにはおれません。でも、神の愛を思いますと、私たちもやはり愛こそが本当に大切だと思いますよね。

 私は時々パソコンで動画を見て、すごく嬉しくなることがあります。それは大変仲良しの猫と犬とか、虎と山羊がいつも一緒にいる動画です。私は「あぁ、神は愛がどんなに素晴らしいかを教えておられるのだ。動物でもこうなのだから、人間はもっとそうだ。世の終りに救いが完成した新しい世界では、こうなるんだ」と思って、とても嬉しくなります。実際、イザヤ11:6以降は、世の終りに神の国が実現した時の愛と平和の世界をこう語っています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」

 米国の神学者リチャード・ニーバーは言いました。「愛とは、愛する者が存在していることに対する喜びである。愛は感謝である。すなわち、愛は、愛する者が存在していることに対する感謝の想いである。」

 聖書的には、愛とは、一緒にいること、共にいることを何より喜ぶことと言えます。神が私たちを愛されるとは、神が私たちと共にいることを喜ばれるということです。何という光栄であり感謝なことでしょうか!イエス・キリストがその架け橋となって下さいました。ですから、私たちも主にあって、互いに共にいることを喜び、その喜びが増し加わるように、自分を開くのです。永遠の命もそこにあります。

 こういうキリスト教信仰に、是非ご一緒に導かれ、もっともっと育まれたいと願います。

 最後に聖書を二か所お読みして終ります。

 Ⅰヨハネ4:16「神は愛です。愛の内に留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まっておられる…。」

 ヨハネ3:16「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

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