2021年01月24日「言葉を取り戻す」

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。
4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分ち与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
エフェソの信徒への手紙 4章25節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は「言葉を取り戻す」と題してお話致します。

 こういう話を選んだ理由の一つは、日本でも世界でも、乱暴で攻撃的で無責任な言葉が溢れているからです。インターネット上では、品のない独善的で失礼な書込みも多く見られます。悪い言葉は、悪い言葉を誘発します。日本も世界も一体どうなっていくのかと憂えます。

 第二に、言葉が足りず、貧相な言葉が多いのを憂えるからです。言葉はコミュニケーションの道具ですが、実は人格形成において決定的役割を持ちます。言葉が貧弱な環境では、人をよく理解し、人を思い遣り、人に深く共感できるような人格が形成されにくいのです。

 こういうことを思いますので、今朝はこのテーマを選びました。

 実際、言葉は何と大切でしょう。ですから、聖書には言葉に関する教えが多く見られます。神の御子イエス・キリストが神の約束に従って世に来られる前に書かれた旧約聖書でも、言葉についての教えは枚挙に暇がありません。箴言10:19は「言葉数が多い所には、背きがつきもの。自分の唇を制する者は賢い人」と述べ、同15:1は「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しい言葉は怒りを煽る」と言います。詩篇141:3は言います。「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい。」

 これは、イエスが世に来られた後に書かれた新約聖書でも同じです。先程お読みしましたエペソ4:29は「悪い言葉を、一切口から出してはいけません。むしろ、必要な時に、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えなさい」と教え、5:3、4でも「あなた方の間では、聖徒に相応しく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはなりません。また、猥褻なことや、愚かなお喋り、下品な冗談もそうです。これらは、相応しくありません。むしろ、口にすべきは感謝の言葉です」と教えます。

 私たちの罪を背負い、十字架で命を献げ、復活して今天におられる主イエスご自身、当時のユダヤ教指導者たちに厳しくこう言われました。他の人に及ぼす悪影響がとても大きかったからです。マタイ12:34~37「蝮の子孫たち、お前たち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良いものを取り出し、悪い者は、悪い倉から悪いものを取り出します。私はあなた方に言います。人は、口にするあらゆるい無益な言葉についても、裁きの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって不義に定められるのです。」

 私たちの社会の今後や個々人の人格形成、また私たちが最後の審判で神に言葉を問われるという点でも、言葉の重要性がよく分ります。言葉の数、内容、質の点でも、言葉を取り戻すことは、どれ程、大切でしょう。家庭、学校、職場、社会、教会で、このことがもっと意識されることを願います。

 では、具体的にはどうすれば良いでしょうか。今朝は8つばかりお話致します。

 第一は、挨拶の言葉を尊ぶことです。

 ローマ16:16やⅠコリント16:20は言います。「聖なる口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい。」悲しいことに、挨拶を殆どしない人もいます。しかし、人と人との関係は挨拶に始まり、挨拶に終ります。

 挨拶も状況によって色々あります。「お早うございます。こんにちは。今晩は/お疲れ様です。お疲れ様でした/ありがとうございます。ありがとうございました/お休みなさい。さようなら。失礼致します/行ってきます。お帰りなさい/宜しくお願いします。」これらの挨拶があるだけで、人間関係は随分良くなり、これらを発する者自身も気持がいいですよね。

 第二は、人の言葉をよく聞くことです。

 信仰についての文脈ですが、ローマ10:17は言います。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについての言葉を通して実現するのです。」ヤコブ1:19は言います。「人は誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」

 人との間に真実な関係を築くためには、自分が話すだけでなく、相手の様子や反応に注意し、相手に敬意を払い、相手の言葉を注意深く聞くことが不可欠です。すると、私たちもより適切な言葉を相手に返すことができ、言葉が旨く機能し、生きた交流が生れ、双方が幸せです。

 第三は、敬語の大切さです。

 丁寧過ぎる敬語を連発する人や、仕事上のマニュアル通りに敬語を使うだけの人もいます。それでは真のコミュニケーションに繋がりません。

 敬語は、元々相手を敬い、大切に思う所から出るものですが、敬語を使うことで、実は相手への丁寧な姿勢が自分の中に形作られ、自分の品性が高められるという面があります。それも敬語を使う大切な理由の一つです。とにかく、Ⅰペテロ2:17は言います。「全ての人を敬い、兄弟たちを愛し」と。

 第四は、ユーモアです。

 聖書にユーモアを直接教える所はないと思います。しかし、マルコ3:17によりますと、主イエスは、少々気性の荒かった弟子のヤコブとその兄弟ヨハネに「ボアネルゲ」、つまり「雷の子」というユーモラスなあだ名をつけられました。二人は頭を掻いて笑い、他の弟子たちも笑って、きっと緊張がほぐれたと思います。

 元上智大学教授、故アルフォンス・デーケン氏は「諸外国のホスピスに共通しているのは、末期患者さんのケアに当る人たちが、いつも実に明るくユーモアたっぷりなことです」と述べ、キリスト教とユーモアは切り離せず、人生を神の前に完成する上で、ユーモアは欠かせないと言いました。ジョークは頭を使うテクニックですが、ユーモアは人への愛から出るものです。特に、自分を客観視し、自分を笑い飛ばせる健康的なユーモアは、神が下さった素晴らしいコミュニケーションの道具であり、皆を和ませる愛のツールです。

 第五は、人を支え、神の恵みを与える積極的な言葉に努めることです。

 人に問題点を気付かせる厳しい言葉を発することも、無論、大切です。自分の非を認めず、傲慢で頑なな人たちには、主イエスもそうされました。でも、常にではありません。

 先程のエペソ4:29は「悪い言葉を、一切口から出してはいけません。むしろ、必要な時に、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えなさい」と言います。「人の成長に役立つ言葉」とは、人を潰すのではなく、むしろ信仰、希望、愛において成長出来るように、人に寄り添う言葉と言って良いでしょう。人に対して、口からであれ手紙やメールなどによってであれ、積極的で肯定的な言葉を発すること忘れないでいたいと思います。

 第六は、優れた人格者の言葉に多く触れることです。すると私たちも、神に喜ばれる適切な言葉を出せるようになれます。振り返れば、アウグスティヌス、宗教改革者ルターやカルヴァン、ナチスの下で殉教したボンヘッファーの言葉など、一杯あります。マザー・テレサが若い修道女たちに語った言葉を一つご紹介致します。「あなたに出会った人が、誰も前よりもっと気持ち良く、明るくなって帰るようになさい。親切があなたの表情に、眼差しに、微笑みに、温かく声をかける言葉に表れるように。子供にも貧しい人にも、苦しんでいる人全てに、いつでも喜びに溢れた笑顔を向けなさい。世話をするだけでなく、あなたの心を与えなさい。」

 第七は、私たちの言葉をやがて裁かれる神を畏れることです。先程も引用しましたが、イエスは言われます。マタイ12:36、37「私はあなた方に言います。人は、口にするあらゆる無益な言葉についても、裁きの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって不義に定められるのです。」

 不適切なことを言い、批判されるとすぐ訂正し謝罪する政治家が多いですね。でも、言葉はそんなに軽く出したり引っ込めたり出来るものではありません。一旦発せられた言葉は、神の記憶装置に全部保存され、最後の神の法廷で裁かれます。

 私たちは自分の言葉に責任を持たなければならず、その意識が大切であり、そこから出る誠意ある言葉が、人と私たちの人間性をよく保ち、真理を共有させ、神に喜ばれる人格を形作るのです。

 第八は、言葉が生み出される心そのものを、救い主イエス・キリストに清めて頂くことです。

 イエスは言われます。マタイ12:34「心に満ちていることを口が話す」と。ですから、上手に上っ面だけ良い言葉を出そうとしても、所詮、限界があります。泉が汚れたままでは、綺麗な水は出ません。言葉の泉は心なのです。

 私たちに何故よく言葉が足りず、言葉で失敗し、罪を犯すかと言えば、私たちの人格の座である心に罪があり、濁り、ひずんでいるからです。

 では、心が清くされるためには、どうすれば良いのでしょうか。一切罪のない、全く清い神の御子イエス・キリストを救い主として心から信じ、聖書の清い言葉に沢山触れ、特に主イエスを自分の心の全体に迎え入れ、清めて頂くことです。すると、慈しみに満ちた主は、徐々にでも必ず私たちの心を神に喜ばれるものに清め、成長させて下さるでしょう。

 申し上げたこれらのことは、生活習慣にすることが大切です。そうやって、神が私たちに下さった素晴らしい贈り物である言葉を、是非、しっかり取り戻したいと思います。

 私たち自身の言葉が変えられることで、私たちの周りに、楽しくて、真実で、人を成長させ、神の恵みをもたらす言葉が増えるなら、どんなに素晴らしいでしょう。

 イエス・キリストへの信仰によって救われ、最後には皆で天国において、最高に温かく、美しい、真実な言葉で語り合い、主イエス・キリストによる救いを喜び合い、神を賛美出来るならば、どんなに幸いかと思います。

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