2020年12月27日「終りにあたって」

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終りにあたって

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章7節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:7 万物の終りが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
4:11 語るのであれば、神の言葉に相応しく語り、奉仕するのであれば、神が備えて下さる力によって、相応しく奉仕しなさい。全てにおいて、イエス・キリストを通して神が崇められるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン
   (新改訳聖書2017年版)ペトロの手紙一 4章7節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今年最後の主の日となりました。今朝は特に二つのことを心に留めたいと思います。

 一つは、今年を振り返ることです。

 今年も色々なことが起りましたが、新型コロナウィルス問題は予想外のものでした。今朝現在で、世界では8017万人が感染し、亡くなった方は175万人。相変らず感染は広がっています。病人に関る医療従事者は皆、どんなに疲労困憊しているでしょう。お一人一人に神の御顧みを祈らずにはおれません。

 コロナのために職を失い、あるいは職を変えざるを得ない方も驚くほど多いですね。コロナ以外にも、地球温暖化の影響で、夏には異常な高温が続き、大規模な山火事が発生した国もありました。人種差別が表面化し、世界でも日本でも格差が一層広がりました。

 無論、神の摂理の下、良いこともありました。しかし、世の終りの徴として、イエス・キリストがマタイ24:6以降で言われた「戦争や戦争のうわさ、…民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こり」という御言葉を思わないではおられません。ですから、世の終りの近づきを覚え、エペソ6:10、11が言いますように「主にあって、その大能の力によって強められ、…神の全ての武具を身に着け」る必要性を一層強く思います。

 では、当教会はどうだったでしょうか。私たちはⅡテモテ4:2「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」を教会標語とし、コロナのために随分制約は受けましたが、伝道を掲げてとにかく歩みました。

 また礼拝をライブ配信し、やむを得ない事情で集えない方や遠くの方々のリモート参加が可能となり、礼拝と祈祷会メッセージも録音して配信しました。5月から説教要約をホームページに載せ始め、最近は毎日40人位の方が読んでおられます。

 8月には教会修養会も持てました。

 1人の兄弟が東京へ移ったため、淋しくなりました。でも、新たに1人の姉妹が来年早々加入されます。客員や求道者の皆様も続けてご出席下さっています。さらに小豆島のクリスチャンたちとの交流も新しく与えられました。こうして見ますと、人知を超えた神の見事なご計画、ご配慮を思わないではおられません。感謝と賛美を神に捧げたいと思います。

 一人一人はどうでしょうか。神の下さる恵みの手段の一番中心的なものは、ウェストミンスター小教理問答の88問が言いますように、御言葉と聖礼典と祈りです。

 まず、神の御言葉・聖書ほど素晴らしい恵みの手段はありません。では、その聖書をこの1年、私たちはどれ位読んだでしょうか。家庭礼拝はどうでしょうか。

 無論、礼拝説教は完全ではありません。けれども、そこには必ず神の語り掛けがあります。それを、少年サムエルのように、「主よ、お話し下さい。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:9)と、私たちは毎回、心を集中して聞いたでしょうか。

 聖餐式では、パンと葡萄酒を受ける時、自分をよく吟味したでしょうか。パンと葡萄酒を「霊のまことの食べ物・飲み物」として、また永遠の命と罪の赦しの徴として頂いたでしょうか。

 祈りはどうでしょう。ヨブのように、自分の家族の罪の赦しと救いのために何度も祈ったでしょうか(ヨブ記1章参照)。知人や教会員、客員、求道者、日本の国と為政者、世界の平和のために、どれ位祈ったでしょうか。

 イエスは「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれを叶えて下さいます。二人か三人が私の名において集まっている所には、私もその中にいるのです」と言われました(マタイ18:19、20)。では、それに励まされて、どれ位、家族で、また教会で一緒に祈ったでしょうか。

 イエスは、何かと心配性の私たちにマタイ6:33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます」と言われました。では私たちはどれ位まず神の国と神の義を求めて歩んだでしょうか。主は「受けるよりも与える方が幸いである」と言われました(使徒20:35)。私たちはどうだったでしょう。

 不信仰を神にお詫びし悔い改めると共に、計り知れない忍耐と寛容をもって今年最後の礼拝にお招き下さったイエス・キリストの父なる神に心から感謝し、この1年を神にお返ししたいと思います。

 二つ目は、新年が目前に迫っていることの意味をしっかり受け留めることです。

 神が、日や月や年など、時間に区切りを与えておられることには、とても大切な意味があり恵みがあります。こういう時間の区切りがありませんと、私たちの生活は、だらしなくなりやすいですね。区切りがありますから、私たちは、それまでの自分の歩みを振り返り、まとめることも出来ます。

 しかし、私たちの生活に神が時間の区切りを与えておられることには、もう一つ重要な意味があります。それは、私たちの命には必ず終りがあり、隠れたことも何もかも一切を公平に裁かれる神の審判とその後の永遠の報いを覚え、それによく備えさせることです。Ⅱコリント5:10は言います。「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならない…。」色々理屈を並べ、人と自分を説き伏せても意味がありません。神は全てを明るみに出し、裁かれます。これを決して忘れてはなりません。ガラテヤ6:7は言います。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」

 けれども、聖書がこう警告するのは、同時に私たちを整え、最も幸いな神と人への愛と奉仕に一層生かし、祝福するためでもあります。

 泣いても笑っても、あと5日で今年が終るように、私たちの命にも必ず終りが来ます。

 そこで大事なことは、私たちがいつ死を迎え、神の前に立っても良いように、どのように生きるか、です。パウロは自分自身について、Ⅱコリント5:9「心から願うのは、主に喜ばれることです」と言いました。私たちも是非そう決意したいと思います。

 しかし、繰り返しますが、そのためには自分の死を覚えることが大切です。詩篇90:12に「どうか教えて下さい。自分の日を数えることを」とありますように、自分の死をしっかり意識することが本当に大切です。

 先程、お読みしましたⅠペテロ4:7~11は言います。「万物の終りが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。夫々が賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神の言葉に相応しく語り、奉仕するのであれば、神が備えて下さる力によって、相応しく奉仕しなさい。全てにおいて、イエス・キリストを通して神が崇められるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」

 「万物の終り」とあります。これは、世の終りと共に、自分と人の死と考えても構いません。

 要するに、神を畏れ、身を慎んでよく祈り、神からの賜物を生かし、愛をもって互いに仕え合いなさいと言います。すなわち、必ず来る終りの時に向っての最も幸いな生き方とは、神と人を愛し、神と人に仕えることだということです。私たちを極みまで愛しておられる神への、また人への愛と奉仕、特に人に愛をもって自分を提供することの大切さを思います。

 突然、幼い息子を亡くしたノーマ・コーネット・マレクという女性の「もし明日が来ないなら」という詩があります。読んでみます。

 もし、あなたが眠りにつくのを見るのが最後だと分っていたなら、私はもっとちゃんと毛布でくるんで、神様にその魂を守って下さるように祈っただろう。

 もし、あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だと分っていたなら、私はあなたを抱きしめ、キスをし、またもう一度呼び寄せて抱きしめただろう。

 もし、喜びに満ちた声をあなたが上げるのを聞くのが最後だと分っていたなら、私はその言葉と行動をビデオに取って、毎日繰り返し見ただろう。

 あなたは分ってくれていたかも知れないけれど、もし最後だと分っていたなら、一言だけでもいい、『あなたを愛している』と私は伝えただろう。

 明日が決してやって来ないで、今日で全てが終るのだとしたら、私は今日、どんなにあなたを愛しているかを伝えたい。そして私たちは忘れないようにしたい。若い人にも年老いた人にも、明日は誰にも約束されていないのだということを。愛する人を抱きしめるのは、今日が最後になるかもしれないことを。

 明日が来るのを待っているなら、今日でもいいはず。もし明日が来ないとしたら、あなたは今日を後悔するだろうから。微笑みや抱擁やキスをするための、僅かな時間を、どうして惜しんだのかと。忙しさを理由に、その人の最後の願いとなってしまったことを、どうしてして上げられなかったのかと。

 だから、今日、あなたの大切な人たちをしっかり抱きしめよう。そして、その人たちを愛していること、いつも大切な存在だということをそっと伝えよう。

 「ごめんね」「許してね」「ありがとう」「気にしないで」を伝える時を持とう。そうすれば、もし明日が来なくても、あなたは今日を後悔しないだろう。

 大切な家族への愛を改めて考えさせられますが、神の家族とされた教会員や友人同士でも同じですね。死という終りを思う時、結局、愛こそが、また愛による温かい言葉と行動が、どんなに尊いかを教えられます。愛がないなら、私たちは必ず後悔することになるでしょう。しかし、愛をもって人を大切にする時、私たちは神の前に後悔しないことを許されるでしょう。

 この1年を真摯に振り返ると共に、いつ来るかも知れない自分と人の死を覚え、神がお教え下さっている私たちの最も幸いなあり方を改めて心に刻みたいと思います。イエス・キリストが私たち一人一人を励まし、手を取って導いて下さいますように!

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