2020年11月29日「ヨセフの信仰」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは訳すと、「神が私たちとともにおられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いに命じられたとおりにし、その妻を迎え入れたが、
1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
   (新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 1章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 クリスマスを迎えるアドベント(待降節)に今年は本日から入ります。そこで、それに関連する聖書箇所に今朝は注目します。

 イエス・キリストの誕生の次第は、マタイ福音書とルカ福音書が伝えています。その分量は多くはありませんが、ゆっくりと瞑想しつつ読み、情景を思い巡らしますと、興味は尽きません。また様々な人物が登場します。その中心は幼子イエスですが、そのイエスを聖霊によって宿し、母となる役目を神から頂いたマリア、またイエスの父親の役目を神から託せられたヨセフやその他の人物がいます。今朝はヨセフについての聖書の記述から教えられたいと思います。

 ヨセフは19節「正しい人」でした。神を畏れ、神の律法に忠実な信仰者だという意味ですが、もう少し具体的にはどうでしょうか。

 第一に、彼は心優しい愛のある信仰者でした。

 マタイ1:18以降から分りますように、マリアと婚約していた彼は、彼女とまだ一緒にならない前に彼女が身ごもったのですから、どんなに驚き、困惑したことでしょう。彼には全く身に覚えがなかったからです。

 マタイは伝えていませんが、彼はそのことを当然マリアに問いただしたでしょう。しかし、マリアは、ルカ1:26以降が伝えますように、聖霊によって自分が神の御子を身ごもったことが分っていますから、当然、彼にその通り答えたと思います。けれども、彼にはそんなことは到底信じられません。疑いたくなくても、つい彼女を疑い、問い詰めたかも知れません。でも、彼女はどこまでも自分は聖霊によって神の御子を宿したのだと答える。事実ですから、仕方がありません。しかし、ヨセフにすればやはり納得できず、彼女を信じる努力はしても、釈然としません。

 昔のユダヤでは、婚約は、男女が一緒に住んで生活しないだけで、法的には結婚と同じ重みがありました。ですから、19節には「夫のヨセフ」とあります。従って、彼はマリアを訴えることも出来ました。しかしそうすれば、当時のユダヤでは、彼女は姦通罪で確実に死刑になりました。

 繰り返しますが、ヨセフは正しい人で、何より神を畏れる敬虔な人です。従って、神の前に納得出来ず、気持ちがついて行かないごまかしの結婚など出来ません。けれども同時に、世間体でも自分のプライドでもなく、何より神の御心を優先する信仰者であり、マリアを愛するヨセフでしたから、彼女が死刑になることなど、全く望んでいません。

 そこで、解決の見つからない欝々とした思いのまま、マリアを19節「さらし者にしたくなかったので、密かに離縁しようと」思いました。これで訴えなくて済み、別れるのは辛いですが、彼女はどこかで何とか生き延びてくれる。恐らくこういうことを考えたのでしょう。ここに、信仰者ヨセフの愛が見られると思います。疑いや苛立ちや落胆が全くないと言えば、嘘になる。しかし、だからといって、ただ相手が裁かれ、苦しみ、絶望の内に滅んでしまえば良いのではない。そんなことは決してあってはならない。自分も苦しみ、悩み、耐えようとする!これが愛というものではないでしょうか。ヨセフはそういう人でした。Ⅰコリント13:4以降は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。…愛は…不正を喜ばずに、真理を喜びます。全てを耐え、…全てを忍びます。」愛について改めて教えられると思います。

 第二に教えられるのは、神の御心が分り、納得したら、キッパリ従う大変素直なヨセフの信仰です。

 悩みつつも密かに別れる決心をするヨセフ。しかし、神はこのような彼を愛しておられました!そこでついに神御自身が介入されます!20節「見よ、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。』」天使は事の次第をヨセフに告げました。

 「ダビデの子ヨセフ。」こう呼ばれてヨセフは、自分が、神の大きな愛を受けて神の尊いご計画の道具として用いられたダビデの子孫であり、自分も神の栄光が現されるために生かされていることを改めて思い、またダビデの子孫から救い主が出るとの神の約束を思い出し、信仰者として一層強い自覚を持ったかも知れません。

 とにかく、ヨセフは一切を理解しました。もうためらうことはありません。彼は、愛するマリアを信じられなかった自分を恥じたかも知れませんが、一旦信仰によって事柄を理解し、納得し、受け入れた彼は、もう迷いません。神に言われた通り、即座に行動を開始します。

 24節「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じた通りにし、自分の妻を迎え入れ」ました。この素早い応答は見事です!いつまでもウジウジしていません。ここに私たちは、真に神を畏れるヨセフの敬虔な信仰と誠実さ、特に素直でキッパリとした信仰を教えられると思います。

 そして聖書は伝えます。25節「子を産むまで彼女を知ることはなかった。」すなわち、イエスの誕生まで通常の夫婦関係を持ちませんでした。マリアのお腹の子供が聖霊による神の御子であり、人間をあらゆる悲惨の原因である罪から救って下さる救い主、メシア、キリストであることがよく分っていたからです。

 ここにもヨセフの真実な信仰を見ることが出来ると思います。神の御心と神のなさることを、自分の思い、自分の計画、自分の計算、自分の都合よりも優先する!ヨセフのこの素直でキッパリとした信仰に、私たちも教えられます。

 第三に教えられるのは、信仰に基づく勇気と決断、また責任をもって実行する姿勢です。

 ヨセフは自分の責任を誠実に果たしていきます。今日は読みませんでしたが、マタイ2章が伝えますように、やがてマリアはイエスを産みます。2:11によりますと、少し後に、一家はベツレヘムに住いを得て、漸く落ち着いたようです。しかし、それも束の間で、2:13以降が伝えますように、残酷なことで有名なヘロデ王による危険が迫りました。実際、「ヘロデの息子になるより、ヘロデの豚になった方がましだ」とまで噂され、ヘロデ大王と呼ばれたこの人物は、自分の地位を脅かされると考え、息子たちを次々殺し、妻も殺した人です。

 とにかく、再び主の使いが夢で現れ、幼子を殺そうとするヘロデ王のことをヨセフに伝えました。ヨセフはどうしたでしょうか。やっと落ち着き、大切な幼子をマリアと共に育てる喜びをゆっくり味わいたかったとしても、不思議ではありません。しかし、天使に危険を知らされますと、彼はすぐ2:14「立って、夜の内に幼子とその母を連れてエジプトに逃れ」ました。エジプトは、最短の直線距離でも300Kmは離れ、途中に危険もいっぱいあります。けれども、彼は勇気と素早い決断力、責任感と一体となった行動力をもって動きました。幼子イエスと妻マリアを何が何でも守らなければならない。まだ夜であろうが、何百キロの徒歩の旅となろうが、彼は二人を連れて直ちにエジプトへ逃れました。

 そして漸くヘロデが死に、危険が去ってユダヤに戻ろうとしましたが、2:22、新たな危険があり、再び夢で警告されますと、今度は幼子イエスとマリアを守るためにガリラヤ地方に退き、ナザレという町に住みます。彼は、信仰に基づく勇気と素早い決断力があり、責任をもって実行する人でした。

 以上、ヨセフの信仰に関して三つの点を、主にマタイ福音書の記述から見てきました。

 その後、ヨセフのことはルカ2章に、つまり、イエスが12歳になられ、過越祭の時に一家はナザレからエルサレム神殿に上りますが、その時のエピソードに少し出てくるだけです。それも辛うじて「両親」という表現に含まれているのと、少年イエスにマリアがヨセフのことを「お父さん」と呼んでいる記述ぐらいしかありません。

 聖書はその後のヨセフについて一切伝えていません。昔から推測されてきましたように、彼は早く世を去ったのかも知れませんですね。これが信仰者ヨセフという人でした。地味で殆ど目立ちません。聖書には、彼が話した言葉が一言も伝えられていません。多くを語らず、どちらかというと寡黙な人だったのでしょうか。

 しかし、改めてその全体像を見ますと、幼子イエスと妻マリアの背後にあって、もの静かですが、優しくて愛が深く、そのために却って悩む人でした。けれども、一旦神の御心を確信すると、素直でキッパリし、いつまでもウジウジしていません。そして勇気と素早い決断力、責任感と実行力をもって、幼子と妻をしっかり守った信仰者ヨセフの姿が浮かび上がってきます。

 彼の一生は長くはなかったかも知れません。しかし、誠実な人生を歩み、神から託せられた役割を見事に果たします。マタイ1:19が伝えますように、まさに彼は神を畏れる「正しい人」でした。ここに大切なメッセージがあると思います。

 どちらかというと、人目にもよく立ち、長生きをし、神と人に精力的に仕える人生を送る人がいます。素晴らしいことです。しかし一方には、どちらかと言いますと、いつも脇役で目立たず、しかも短い一生で終る。多くの場合、人の後ろにいて優しく静かに微笑み、そうして神と人に仕え、神の栄光を表す人もいます。どちらであるかは、神が決められることであり、どちらでも良いです。素晴らしいことに、どんなタイプの人であろうと、私たちの神は本当にただ信仰だけで人を罪と滅びから救い、永遠の命を与え、祝福し、またどんな人もその人らしくお用い下さる愛と慈しみに満ちた救い主なのです。

 イエス・キリストのために神からの大切な役目を誠実に果たしたヨセフの信仰を覚え、またこのヨセフへの豊かで深い愛を示された素晴らしい神を、改めて賛美し、お仕えしたいと思います。

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