2020年11月15日「敵を愛しなさい」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです
5:46 自分を愛してくれる者を愛したとしても、あなた方に何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
     (新改訳聖書2017年度版)
マタイによる福音書 5章43節~48節

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 今朝も聖書から神の清い御心を学びます。

 私たちは、聖書のある言葉に強く捕われ、全体を見落とすことがしばしばあります。例えば、44節の「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という御言葉だけが心に残り、とにかくこの教えに生きなければ、と思うクリスチャンもいます。しかし、イエスは、一つ一つの行動よりも、それが出てくる私たちの人格そのものを清めようとしておられます。今朝の箇所でも、中心点は私たちが45節「天におられる父の子供」になり、48節「天の父が完全」であるように私たちも完全な者となることです。これを教えるための一例として、イエスは、私たちと良い関係にない人に対する私たちのあり方をお教えになるのです。

 聖書を見ます。43節「あなたの隣人を愛し」は旧約聖書のレビ記19:18にあります。「敵を憎め」は旧約聖書にありません。しかし、昔、イスラエルがエジプトから神の約束の地カナンに入る時、多くの先住民族がイスラエルを宗教的・道徳的に滅ぼす危険があったため、神が彼らを滅ぼせと言われたことがありました。これを後のユダヤ人は「敵を憎め」という教えと取ったようです。特に紀元1世紀のユダヤはローマ帝国に支配されていたため、ローマ人を初めとする外国人を嫌い、敵を憎むことが神の教えだ、と思うユダヤ人が沢山いました。

 けれども、例えば、出エジプト記23:4、5は、敵にも親切にせよと命じ、申命記23:7は「エドム人を忌み嫌ってはならない。…エジプト人を忌み嫌ってはならない」と教えます。根本はこれでした。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエスの教えは、旧約聖書本来の教えを再確認しているわけです。

 結局、イエスは何を教えようとしておられるのでしょうか。実はここでも私たちの持つ自我の問題なのです。普段は影を潜め、自分でも気付かないことの多い私たちの自我。私たちが信仰を持つ前からの古い自我は、色々な時に表面化します。私たちを侮辱し、敵視し、イヤなことをし、また私たちも快く思っていない人に接する時、私たちの自我は、俄然、その姿を現します。「不愉快だ!顔を見るのもイヤだ」と私たちはなりやすい。

 しかし、私たちを愛する主は、そこを取り上げられます。人の態度に逐一過剰に反応し振り回される私たちの自我に気付かせ、私たちをそこから解放し、むしろ神との関係で私たちの内面に築かれてきた新しい自分によって人に応答し、発言し、行動する、自由な者に成長することを、イエスは願っておられるのです。

 イエスは45節「天におられるあなた方の父の子供となるため」と言われます。イエスを救い主と信じる者は、感謝なことに既に神の子とされています。しかしここで言われていることは、天の父なる神に似て実質的にももっと神の子供となることです。48節でも「あなた方の天の父が完全であるように、完全でありなさい」とこの点が繰り返され、私たちへのイエスの期待の大きさがよく表れています。

 今、人の態度や言動に左右される古い自我から自由で、天の父との関係で私たちの内に築かれてきた新しい自分により、人に応答し行動する自分へと成長すること、と言いました。では、その天の父なる神はどんな方でしょうか。45節「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる。」

 これは、神は優しいので誰でも救われる、という意味ではありません。罪を悔い改め、救い主イエスに依り頼まなければ、罪の赦しも天国も私たちにはありません。ここはあくまでもこの世でのことであり、救いに関わる特別恩恵ではなく、広く一般恩恵のことです。そこでは、神はどんな人にも等しく恵み深く、太陽を昇らせ、雨を降らせられます。

 言い換えますと、人が神に対してどんな態度を取り、如何に不信仰で愚かな罪を犯しても、神はそれに振り回されて行動されません。神はご自分の基準を持ち、ご自分の意志で、自由に動かれます。誰にも何にも左右されません。厳しく罰し、悔い改めさせようと思われるなら、信者、未信者を問わず、神は厳しく臨まれますし、ご自分が与えたいと思われるなら、一方的な愛により、誰にもお与えになります。分け隔てされません。神は何からも一切自由で、完璧なご自分の基準によって行動されます。

 私たちはクリスチャンになっても愚かな罪を何度も犯します。自分で気付かない罪は、どれ程あるでしょうか。人が私たちの本当の姿を知ったなら、驚き、軽蔑し、非難し、私たちから離れていくような罪も不信仰も、神は全てご存じです。

 けれども、神はどうでしょうか。失礼な言い方になりますが、もし神にご自分がなければ、神はとっくの昔に私たちに呆れ果て、地獄に突き落としておられたでしょう。でも、そうはされませんでした。傲慢にも神をアレコレ非難する者をさえ、神はすぐに滅ぼさず、太陽の光や恵みの雨を与え、それどころか、ご自分の御子イエスを、私たち人間に殺されることを知りながら、世に送られました!生れながらに石より頑なな私たちの心を御霊によって解きほぐし、説得し、イエス・キリストを信じる信仰まで与え、ご自分の子にして下さいました!これが天の父です。

ですから、イエスは私たちに、人の言動に一々支配され振り回されるのではなく、ご自分の基準で考え行動される天の父にもっと似る者となりなさい、と言われるのです。

 これは大変重要なことだと思います。私たちは教会へ来て、ただ平安で、一応健康で、伝道も奉仕もソコソコできれば良いのではありません。私たちには、主が期待されるように、自我に死に、天の父に更に喜ばれる子となり、御言葉を基準として生きる新しい人として、もっと自由な者となる最高の課題と光栄ある目標があります。イエスは、私たちが神の作品として完成されることを期待しておられるのです。

 44節に「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあります。愛は好きになることではありません。敵対する人を好きになることは出来ません。しかし、愛は相手の善を願います。相手が罪を犯しているなら、その人が悔い改め、キリストによって罪を赦され、変えられて天国へ行けるように願い、特にイエスが言われるように、その人のために祈ることです。

 愛は感情ではありません。愛は相手の善を願い、祈り、天の父に倣おうとする意志です。イエスは、ご自分を殺そうとする人たちのために、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」と祈られました(ルカ福音書23:34)。このイエスに倣い、ステパノは、彼を殺す人たちのために、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と大声で叫び、殉教しました(使徒7:60)。クリスチャン作家の三浦綾子さんとご主人の光世さんも、無言電話や嫌がらせ電話をかけてくる人のために、電話口で何度も祈られました。

 46、47節でイエスは具体例を挙げられます。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなた方に何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけ挨拶したとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。」

 福音書全体を読むと分りますが、イエスは取税人や異邦人を決して蔑んでおられません。むしろ、どんなに彼らを愛されたでしょう。ただ、ここでは分りやすいように、当時のユダヤ人の言い方を使われただけです。「兄弟」というのも、文字通りの肉親だけでなく、広く親しい人を指します。

 イエスは、私たちの古い自我が取る態度をよくご存じです。生れながらの私たちは、自分を愛してくれる人は本能的に愛します。近づきます。しかし、自分に批判的な人は愛せません。避けます。親しい人には、笑顔で自分から挨拶し、冗談さえ言い、話に花も咲かせられます。しかし、苦手で嫌いな人には声もかけません。これは、私たちが自分でそう選択しているというより、相手に自分のあり方を左右されてしまっているわけです。

 けれども、自分だけを可愛がろうとするこんな情けない私たち罪人ですのに、天の父は太陽を昇らせ、雨を降らせ、態度をコロコロ変えられません。それどころか、ご自分の御子をさえ与えて下さいました。私たちを本当に愛しておられるのです。

 天の父は、不信仰な罪人の私たちに、挨拶どころか、御子イエス・キリストにより和解の手さえ差し伸べられました!一旦救いに選んだ者を、微動だにしないご自分の自由な意志でどこまでも教え、戒め、義に導き、訓練し、救いの完成に至らせ、天の御国で栄光の冠をご用意下さっています!これが私たちの天の父なのです。

 では、私たちはどうすれば良いでしょうか。最後に短くこの点に触れて終ります。それは、私たち自身と、また私たちに敵対し私たちもイヤだと思う相手を、よく観察することです。

 第一に、私のこの態度は天の父の前にどうなのか、神は喜ばれるだろうかと、自分と距離を置き、自分を客観的に観察することです。それだけでも、私たちは神による新しい基準を自分の内に築き始めることが出来るでしょう。

 第二に、イヤだ、嫌いだと思う人のことも、よく考えてみることです。「何故あの人はあぁなのか。何か恵まれない過去があるのかも知れない。しかし、神はあの人をも愛し憐れんでおられるではないか。」こう思い巡らすだけでも、私たちは随分変えられると思います。

 私たちを極みまで愛しておられる主イエスが、御霊によって私たちに働かれ、私たちを麗しい天の父に似る者へと日毎に清め、特に敵をも愛する愛において、是非、成長させて下さいますように!

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