2020年11月08日「復讐してはならない」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
   (新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 5章38節~42節

原稿のアイコンメッセージ

 5:39にイエス・キリストの有名な教え、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」があります。これをロシアの文豪トルストイは文字通りに取り、絶対無抵抗主義や非戦論、警察無用論まで主張したそうです。無抵抗主義や非戦論は尊いと思いますが、イエスは何を本当は教えておられるのでしょうか。

 38節の「目には目を、歯には歯を」は、旧約聖書にある野蛮な教えだと言われることもあります。でも、どうなのでしょう。これは旧約聖書に3か所出てきます。例えば、出エジプト21:22~25は言います。「人が人と争っていて、身ごもった女に突き当たり、早産させた場合、重大な傷害がなければ、彼はその女の夫が要求する通りの罰金を必ず科せられなければならない。彼は法廷が定める所に基づいて支払う。しかし、重大な傷害があれば、命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」

 同態復讐法と呼ばれる「目には目を、歯には歯を」は、実は過度の復讐や仕返しを禁じる教えでした。人は皆生れながらに罪の性質を持ち、やられたら、やり返します。倍返し所か、三倍、四倍にして返します。目には目どころか、命すら奪います。

 しかし、神の御言葉・聖書はこれを禁じます。「目には目を、歯には歯を、やり返せ」ではなく、「目には目まで、歯には歯までで、それ以上はいけない。」これが本来の意味です。しかも「法廷が定める所に従って」とあるように、これは公の裁判規定であり、復讐やリンチを許すものではありません。法廷で裁判官が公に、それも行き過ぎないよう、公平に裁定するための基準なのです。これが本来の意味でした。

 ところが、後のユダヤ人たちはこれを個人的に自分に適用し、しかも「目には目を、歯には歯を、やり返して良い」と、自分の権利を保証するものとして解釈しました。これにイエスは制限をかけ、誤解を正されるのです。

 ところで、38~42節の全体で、イエスは何を問題にしておられるのでしょうか。39節「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」は単なる無抵抗主義で収まりませんし、40~42節の更に積極的な教えなどは、どう理解すれば良いのでしょうか。

 実はイエスは、生れながらの私たち罪人が持っている<自我>の問題を扱っておられるのです。「目には目を、歯には歯を」という仕返し、復讐も、自我から来ています。

 神を信じ、イエスを救い主と信じ依り頼むクリスチャンであっても、生れながらの古い自我が尚残っていて、それが色々な状況で露(あらわ)になります。イエスはここで例を四つ上げ、厄介な自我に私たちを死なせ、自我から私たちを解放しようとしておられるのです。

 自我が露になる第一の例は、自分が侮辱される場合です。39節「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」

 人が右手で私達の頬を打つ時、その手は私たちの左の頬に当たります。しかし、ここでは「右の頬」ですから、これは人が手の甲で私たちの顔を打つ侮辱的な場合です。

 侮辱されると私たちの自我はたちまち目覚め、憤慨し、やり返したくなります。しかしイエスは「左の頬も向けなさい」と言われます。これはただ機械的に左の頬を向けるということではありません。侮辱にいちいち過度に反応しない者になりなさい、ということです。

 ヨハネ18:19以降が伝えますが、十字架の前夜、大祭司の前に連れて行かれたイエスを下役の一人が平手で打った時、イエスは「私の言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、何故、私を打つのですか」と抗議されました。個人的反発からではなく、正当な理由によるのかどうかを問われました。私たちもそうして構いません。

 しかし、イエスご自身はまことに感受性豊かな方ですのに、誰から侮辱されてもすぐ憤慨せず、個人的名誉にも固執されませんでした。主はこれを私たちにも願っておられます。

 自我が露になる二つ目は、私たちの権利が侵害される時です。40節「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」

 「下着」とは今で言う普通の服のことです。昔のユダヤでは、服は大切な財産でした。また「告訴して」ですから、無理やり奪われるのではなく、法的な手続きによる場合です。「上着」は一番上に着るコートのことで、夜非常に寒くなるユダヤでは、これはどんな場合でも取られることのない保証された権利でした。出エジプト22:26、27は言います。「もしも、隣人の上着を質にとることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。それは彼のただ一つの覆い、彼の肌を覆う衣だからである。」上着は律法で個々人に保証された権利でした。

 でも、イエスは「たとえ法的に認められた権利でも、それに固執せず、喜んで放棄出来るぐらい、自我から自由な者になりなさい」と言われます。そしてイエスご自身、神の独り子としての権利に固執されず、僕(しもべ)のように私たちに仕えて下さったのでした。

 自我が試される三つ目は、義務に関してです。41節「あなたに1ミリオン行くように強いる者がいるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。」1ミリオンは約1.5kmだそうです。

 イエスは何をおっしゃっているのでしょうか。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマ兵が突然、ユダヤ人の誰かに馬や馬車を出させ、或いは荷物を背負わせて「~~まで運べ」と命じると、ユダヤ人には従う義務がありました。無論、ユダヤ人の多くは「どうして自分が従わねばならないのか」と不満で、自尊心が傷ついたでしょう。

 しかし、イエスは言われます。「あなた方には、義務であっても何かと反発し、従おうとしない傾向がある。しかし、それが合法的なものであるなら、命じられた1ミリオンどころか、2ミリオンでも行きなさい。国や政府、上司、その他のことからの義務であろうと、もはやいちいち自尊心が傷つかず、喜んでそれを行う者でありなさい。」そしてイエスご自身は喜んで私たちのために十字架を負われました。

 四つ目は、自分のものを出したくないという自我です。42節「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。」

 イエスは、どんな場合でも断ったり背を向けてはならない、と言われるのではありません。私たちが応じることで、相手がますます駄目になるなら、応じてはなりません。Ⅱテサロニケ3:10は「働きたくない者は、食べるな」と言います。言い換えれば、簡単に食べ物を出すな、甘い顔を見せるな、ということです。

 イエスが問われるのは、誰かが本当に困り、私たちには余裕もあるのに、人の求めに応えず、自分は楽でいたい、とする利己的な自我です。私たちはどうでしょうか。例えば、災害被災者が物質的にも精神的にも窮し、また身近な誰かが、それどころか教会がSOSを発していても、そこから目も耳も背け、知らなかったかのように素っ気なく、でも自分のためには時間もお金も体も使うというようなことはないでしょうか。私たちの利己的な自我は、何かを求められると露になります。

 これは初代教会にも見られました。Ⅰヨハネの手紙3:17、18は言います。「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対して憐れみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛が留まっているでしょう。子供たち。私たちは、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」

 イエスご自身は、私たちのためにどんなに惜しみなくご自分を捧げられたでしょう。Ⅱコリント8:9は言います。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。それは、あなた方が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 私たちの主は見事にご自分をお持ちであり、少しもブレることがありませんでした。でも、自我に固執することも、自我に振り回されることも、自我のために傷つくことも一切なく、自由でした。主は私たちに、その同じ幸いに与らせ、また自我から解放された清潔で軽やかで喜んで生きる安定した私たちを見て、人々が天の父なる神を崇めるようになることを期待しておられます(5:16参照)。

 自我はどんなに私たち自身を駄目にするでしょう。すぐ腹を立て、仕返しをし、権利意識が強く、しかし義務を負うのはイヤ。自分のものは捧げたくない。自意識過剰で自己関心が強く、すぐ自慢し、人に認められたく、もし認められないと惨めで、気持のアップ・ダウンが激しい。これでは人も私たちから離れ、私たちの人間性も低め、信仰を駄目にします。自我ほど、私たちを不幸にするものはありません。ですから、イエスはマタイ16:24でも言われます。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」自分の十字架を負うとは、自我に死ぬことです。

 これは信仰によって私たちが新しく生れ変ることで可能となります。しかし、ただ信仰があれば、可能なのでもありません。自分を正直に見詰めることから、これは始まります。例えば、何故自分は今、苛々しているのか。これは正当な怒りなのか、それとも自我のためなのか。今、自分が惨めな気持なのは何故なのか。自分のいい所を人に見せられなかったという自意識から来ているのではないかなどと、自分を正直に見詰めるのです。

 それだけでも、私たちは自分と距離を置き、自分を客観的に見詰め、また私たちを愛し受け入れ清めて下さる主を見上げ、主と素直に交われます。すると、主ご自身が私たちを御霊によって自我から解放し、神の御心を第一とし、軽やかに神と人に仕える生き生きとした私たち、主ご自身のように全てを天の父なる神に委ねて生きる私たちに変えて下さるでしょう。

 パウロは言います。ガラテヤ2:19、29「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」私たちもそうなりたいと思います。天国には自我の塊のような人は、一人もいません。主が御霊によって一層私たちを清めて下さいますように!

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