2020年11月05日「ぶどうの木と枝10 善意」

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ぶどうの木と枝10 善意

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章5節

聖句のアイコン聖書の言葉

 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。
     (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節

原稿のアイコンメッセージ

 イエスの語られた葡萄の木と枝の喩から、私たちがイエスに留まるなら、必ず尊い御霊の実を結ぶことを学んでいます。その実として、ガラテヤ5:22、23の御言葉から、愛、喜び、平安、寛容、親切を見て来ました。今日は「善意」に進みます。

 「善意」とあるのを、多くの英語聖書はグッドネスgoodnessと訳しています。この英語goodnessには良い所、美点、長所という意味がありますが、ここでは善良、優しさ、寛大で気前の良いことなどの意味です。

 パウロはローマ15:14で「私の兄弟たちよ。あなた方自身、善意に溢れ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています」と、ローマのクリスチャンたちへの確信を述べています。これは彼らにそうであってほしいと願う期待の表明でもあるでしょう。彼はまたエペソ5:8~10でも「あなた方は以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子供として歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実の内に、光は実を結ぶのです。何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」と教えます。こうして、イエスがご自分に留まる者に結ばせて下さる霊の実の一つ、「善意」という資質が強く期待されていることが分ります。

 私たちが、御子イエスの十字架による罪の赦しも救いも神の愛も知らず、自分中心で、自分のことが殆ど全てであったかつての自分と、イエスにより救いに与ってからの自分を比べる時、違いの一つは、善意ある者に変えられていることではないでしょうか。確かに、キリスト信仰に生きる真(まこと)のクリスチャンの特徴の一つは、善意の人であることだと思います。

 善意の反対は悪意です。意地の悪い心で、人に害を与えようとする心です。

 聖書が言いますように、この世は罪の世です。悪意をもって人を落そうとする人も多く、善良で善意の人が苦しめられ、損をし、利己的で計算高い人がうまくやって幅を利かしていることがよくあります。従って、クリスチャンは主イエスがマタイ10:16で言われますように、鳩のように素直である一方で、蛇のように賢くある必要があります。しかし、だからといって、悪意と疑いをもってすぐ人を見たり、頭から人のことを歪んで取ることも主の御心ではありません。私たちはあくまで善意の者として生きたいと思います。

 前回、親切を学んだ時、私たちはイエスの語られたルカ福音書10:30以降の善きサマリア人の喩を見ましたが、「善意」についてもこの喩がよく教えていると思います。そもそも善きサマリア人の「善き」とは、道徳的正しさではなく、善良、優しさ、親切、寛大、気前良さなどの意味での善意のことです。実際、喩の中の善きサマリア人は、どこまで人の好い善意の人でしょうか。

 そして正に主イエス・キリストがそうであられ、天の父なる神がそうではないでしょうか。不信仰で頑なな人たちに、主は時に厳しく臨まれましたが、悔い改める者には驚く程豊かな赦しと救いを与えられました。

 旧約聖書の申命記から歴代誌までの歴史書を読みますと、イスラエル民族が不信仰で罪深く、でも近隣諸国に苦しめられ、助けを叫び求める時、神は一体何度彼らを憐れみ、救いと助けの手を差し伸べられたでしょう。どこまで善意に満ちた方かと驚嘆せずにはおられません。そしてそれは今の私たちに対しても全く同じです。何という主の善意でしょうか。

 地の塩、世の光として、神の義と聖を証しする使命を帯びている私たちクリスチャンは、倫理的に清くある必要があります。けれども、同時に善良で親切で優しくて寛大な善意の人であり、「喜んでいる人たちと共に喜び、泣いている人たちと共に泣」く者であってこそ(ローマ12:15)、人に神の素晴らしさを証しできます。

 この世で善意の人であることは容易ではなく、傷つけられ、人間の醜さを一杯見ることがあります。そこに自分との戦いと祈りが不可欠です。御霊こそ私たちを、人知を超えた力をもって支えて下さるお方だからです。

 よく考えてみますと、諸外国の多くの善意ある信仰の先輩たちが莫大な献金を献げ、大勢の宣教師が命の危険を冒し、日本にやって来ては、涙をもってイエスの福音の種を蒔き続けました。平和憲法や人権意識も根付かせました。何より主イエスご自身、善意をもって神と私たちにどんなに仕えて下さったでしょうか。

 この罪の世では、善意で行動しても報われないことが多いでしょう。しかしやがて、かの世では必ず主から身に余るお褒めの言葉を頂き、驚きと感謝と賛美の中にいる自分自身を発見することでしょう。そこに私たちクリスチャンの究極の希望、喜び、生き甲斐があります。そのことを覚えて、詩篇1:1~3に目を留めたいと思います。

1:1 幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。

1:2 主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

1:3 その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。

 改めて主イエスに堅く留まり、主がご自分の善意という温かくて清いこの麗しい性質を、私たちの人格の中に、御霊により一層豊かに結ばせて下さいますように!

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