2020年10月29日「ぶどうの木と枝 9 親切」

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ぶどうの木と枝 9 親切

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章5節

聖句のアイコン聖書の言葉

 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。
     (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節

原稿のアイコンメッセージ

 葡萄の木と枝の喩から、私たちが主イエスに留まり、繋がっているなら、必ず尊い霊の実を結ばせられることを学んでいます。特にガラテヤ5:22、23に記されている9つの霊の実の中から、「愛、喜び、平安、寛容」を見て来ました。今日は「親切」に進みます。

 ちなみに、9つの実の最初の三つ(愛、喜び、平安・平和)は、おもに神との関係におけるものであり、次の三つ(寛容、親切、善意)は対人関係におけるもの、最後の三つ(誠実、柔和、自制)はおもに対自的なものと言えるでしょう。

 親切と訳されるギリシア語(クレーストテース)は、善意、慈愛、柔和とも訳せます。これと殆ど同じギリシア語(クレーストス)は、マタイ11:28のイエスの言葉、「全て疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい」に続く、30節「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです」の「負いやすく」がこれです。「親切」というギリシア語は、<重荷を一緒に持って上げるような親切>という美しい概念の言葉と言って良いでしょう。

 実際、私たちの主イエスはどんなに親切であられたでしょうか。自分の罪を認めない頑なな人には、厳しく臨まれることもありましたが、自分の罪を深く悲しむ悔い砕けた魂には、どんなに優しく親切であられたでしょう。

 私たちは、神や主イエスのことを「親切」とは、あまり表現しないと思います。しかしよく考えれば、イエスの親切さは、ルカ福音書10:30以降の「善きサマリア人の喩」によく表れていると思います。傷ついたユダヤ人の旅人を助ける義務は、サマリア人にはありません。何故なら、ずっと昔からユダヤ人に嫌われ蔑まれてきたからです。でも、喩話のサマリア人はお人好しなくらい親切でした。瀕死のユダヤ人に丁寧に治療をしてやり、自分の家畜に乗せ、自分は歩く。お金を宿の主人に渡して介抱を頼み、もっと費用がかかったら、帰りがけにその分も自分が払う、と言います。どこまで親切な人でしょう。

 しかし、よく考えてみれば、父なる神また御子イエスは、私たち頑なで傲慢で自分勝手な罪人に対し、一体どこまで優しく親切でしょうか!イエスは、何度も同じ罪と不信仰を繰り返す私たちのために、枕する所もなく、反逆の世を歩まれ、ついに十字架で私たちの醜くくて負い切れない罪の重荷を全部そっくりご自分が負って下さいました!

 使徒パウロはⅠコリント4:12、13で「罵られては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しい言葉をかけています」と言います。彼も一体どこまで親切だったでしょうか!それは、彼がガラテヤ2:20で「キリストが私の内に生きておられる」と言うように、内なるイエスをどんな時にも覚え、感謝し、イエスに留まり、常にイエスと交わり、イエスと共に生きていたからでした。

 2009年11月、私は家内と長男と共に韓国のソウルへ行きました。私はソウルへは初めてで、親しくしていた延世大学セベランス病院のチャプレンを訪問するためでもありました。方々へ出かけました。ハングルも十分読めない中、無謀にも地下鉄を利用しました。ソウルが9つも路線のある地下鉄の非常に発達した町であることや、紙の切符は使わず、磁気カードを降りた駅で機械に通すと500ウォン戻ってくるデポジット方式を取っているのも、初めて知りました。駅でも日本とは逆方向から電車が来ますので、最初は戸惑いました。駅の地下を動いて別の路線に乗り換えます。

 とにかく、地図や路線図を広げ、三人であぁだこうだと言っていますと、親切な方々に色々助けられました。最初は、私たちの泊まったホテルの結婚式でお酒の入った74歳の男性、金さんです。偶然同じ頃にホテルを出ました。家内にすぐ日本語で話かけてこられました。小さい頃、日本語教育を受け、日本語の小説をその時も読んでおられました。顔は少し怖かったのですが、大変親切な方で、彼のお陰でソウルの地下鉄の利用方法が分りました。

 二人目は20代の男性です。電車の中で立ち話をしている私たちをチラチラ見ていましたが、やがて「あのう、私、日本に行ったことがあります」と話しかけてこられました。カトリック信者で、1年間横浜で日本語を勉強したという優しい青年でした。

 三人目はタクシー運転手の安さんでした。テレビの日本語講座を受け、2級だとおっしゃっていました。日本人観光客と日本語で話すのが楽しみなのだそうです。穏やかで大変親切な方でした。

 他にもありますが、不案内な外国で親切にされることがどれ程嬉しいかを改めて体験し、親切を私ももっともっと心がけなければ、と改めて強く思いました。

 イエスはマタイ7:12で「人にしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい」という黄金律を語られます。「人からしてもらいたいこと」の一つは紛れもなく親切でしょう。親切にされて嬉しくない人はいません。主が私たちクリスチャンの内に結びたいと思っておられる美しい実の一つは、間違いなく親切です。困っている方に自分から近寄り、声をかけ、体の不自由な方に少し手を添え、笑顔を向けるだけでも良い。普段からこういう親切に生きる時、福音は人に伝わり、私たち自身も祝福され、人として成長を許されます。主に留まり、主に倣い、親切という実を共に豊かに結ばせられたいと心から願います。

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