ああ、エルサレム、エルサレム
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 23章37節~38節
23:37 エルサレム、エルサレム、預言者達を殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。私は何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、お前の子らを集めようとしたことか。それなのに、お前たちはそれを望まなかった。
23:38 見よ。お前たちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
23:39 私はお前たちに言う。今から後、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」とお前たちが言う時が来るまで、決してお前たちが私を見ることはない。マタイによる福音書 23章37節~38節
凡そ2千年前、天の父なる神の御許(みもと)から来られた全世界の救い主・神の御子イエスは、37節が伝えますように「エルサレム、エルサレム」と言って非常に強く嘆かれました。これは当時、大変不信仰だったユダヤの人々により、あと数日でご自分が十字架で殺されることが分っておられたイエスの言葉です。
今朝は37~39節にありますこのイエスの嘆き悲しむ言葉から、改めて大切なことを教えられ、心に深く刻みたいと思います。
では、どんなことを教えられるでしょうか。
第一は、父なる神また御子イエス・キリストがどんなに彼らユダヤの人々を愛し、憐れんでおられたかという点です。イエスは言われました。37節「私は何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、お前の子らを集めようとしたことか。」
ユダヤ人は、旧約聖書から分りますように、罪と不信仰のため、神の裁きの下で滅ぶ他なかった全人類の中から、神がただ憐れみによってお選びになり、ご自分の民とされたまことに幸いな民でした。彼らが特に優れていたからとか大きな民族であったからではありません。申命記7:11はかつてユダヤ民族に向かって「主があなた方を慕い、あなた方を選ばれたのは、あなた方がどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなた方は、あらゆる民の内で最も数が少なかった」と述べています。しかし、神はそういう彼らをお選びになり、親しくご自分を現わし、また神の御前(みまえ)で真に(しんに)正しく生きるための大切な律法や戒めもお与えになった幸いな民族でした。
ところが、旧約聖書が繰返し伝えますように、彼らは何度も神に逆らい、近隣の国々の真似をして偶像礼拝にふけり、正義を曲げ、弱者や貧しい人々を虐げるなど、いっぱい罪を犯しました。そのため、神は彼らに何度も罰を与え、他国から攻撃を受けさせるなどされました。しかし、尚も預言者たちを遣わされ、彼らをご自分の民として守ろうとされました。
ここで覚えておきたいことの一つは、天におられた神の独り子(ひとりご)イエスが、旧約時代にも預言者たちを何度も遣わされ、忍耐強くユダヤ人たちを守ろうとされたことです。ですから、イエスは「私は何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、お前の子らを集めようとしたことか」と言われたのです。しかもその上、ついに御子イエスは、父なる神のご計画に従い、神でありながら人間の性質をまとわれ、この世に来られ、ユダヤ人たちに直接ご自分を現わし、神の愛を示されたのでした。
このような天の父なる神と御子イエスの勿体ないばかりの愛と憐みを、私たちも決して忘れたくないと思います。主は今も御言葉と御霊により、また教会を通して、「めんどりがひなを翼の下に集めるように」、私たちをも勿論、全ての人をご自分の許に深い愛と憐みをもって、忍耐強く集めようとしておられるのです。罪と永遠の滅びから救い、永遠に幸いな神の子供とするためです。ですから、私たち先に信仰を与えられた者も、いつでも、どこででも、神に豊かに用いて頂きたいと思います。
二つ目に進みます。
既に触れましたが、それは折角神の民とされましたのに、ユダヤ人たちがどんなに罪深く、心が頑なだったかという点です。
37節「エルサレム、エルサレム、預言者達を殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ」とイエスは嘆かれました。エルサレムの名前をイエスは口にされましたが、無論、この町自体に問題があったのではありません。エルサレム神殿を拠点とする不信仰で心頑ななユダヤ教指導者たちと彼らに従っていた人々皆をイエスは嘆き、糾弾されたのです。35節で学びましたが、旧約聖書を読みますと、父なる神と御子イエスが遣わされた預言者や誠実な信仰者たちに、ユダヤの人たちどんなにひどいことをして来たかがよく分ります。
神の預言者たちは、決して自分の個人的な考えや意見を語ったのではありません。御霊に導かれて神ご自身の御心を伝え、また人々の偶像礼拝や不正、また弱く貧しい人たちを虐げ、彼らから奪うなどの強欲の罪を指摘したのでした。けれども、それが指導者たちや多くの人たちには気に入りませんでした。そこで、多くの預言者や誠実な信仰者たちを殺したのでした。
主イエスは、そんな彼らに尚も悔い改めの機会を与え、「めんどりがひなを翼の下に集めるように」救いへと何度も招いて来られました。所が37節「それなのに、お前たちはそれを望まなかった」とありますように、彼らは非常に心を頑なにし、預言者たちを石で打つなどして殺して来ました。特に王や祭司たちなど身分の高い人たちは、誰かを「自分に楯突く者だ」と見なしたなら、その人を殺しました。その態度は、神の御子イエスに対しても同じでした。
これに近いことは、「聖書の教えに立ち返ろう」とローマ・カトリック教会に訴えた16、17世紀のヨーロッパの宗教改革者たちだけでなく、それ以前もそれ以降も、また世界の様々な所で、同じように色々な点で訴えた人々に起っています。
ここに私たちは、人間の恐ろしい程の頑なさ、罪深さを、改めて思わないではおられません。とはいえ、これは他人事(ひとごと)ではありません。私たちも自分以外の誰かの問題や罪はすぐ分りますが、自分のこととなると、とんと分らず、それを指摘されると急に頑なになり、不機嫌で攻撃的になったりします。いわゆるハラスメントに出やすいです。こういう罪深さを決して忘れず、私たちはまず神を恐れ、神の御前(みまえ)にひれ伏し、自分を客観視し、誰よりも自分に対して厳しくありたいと思います。
そこで、三つ目の点を見ておきます。
それは、どこまでも悔い改めず、頑なであるなら、最後には必ず神の裁きが私たち人間の上に臨むということです。イエスは言われました。38節「見よ。お前たちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」
ここの「家」はエルサレム神殿を指すのでしょう。何度か申しましたが、イエスの十字架と復活と昇天のあったその30数年後の紀元70年、後にローマ皇帝となる将軍ティトゥスの率いるローマ軍により、エルサレム神殿は徹底的に破壊され、永い間、荒れ果てたままでした。かつて神殿のあった場所は、今は、イスラム教徒が管理する岩のドームになっています。すなわち、神の裁きを私たちは今も目にすることができるのです。従って、私たちは絶対に神を侮ってはなりません。
自分の罪と不信仰に鈍感で、すぐに悔い改めなくても、必ずしも神の裁きが直ちに私たちに臨むわけではありません。けれども、イエスが32節で「お前たちは先祖の罪の升を満たすが良い」と言っておられましたように、「罪の升」を実は満たしつつあるのであり、それが満ちたならば、神は、また主イエスは必ず私たちを裁かれます!ですから、仮に今神の裁きらしきものを感じなくても、罪の升目を自分も満たしつつあるのではないかと、本当に恐れをもって自分を深く省みたいと思います。
神の裁きをイエスは39節でも語られます。39節「私はお前たちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とお前たちが言う時が来るまで、決してお前たちが私を見ることはない」と。
これは主イエスを拒否したユダヤ人たちの多くに実際に起りました。心を閉ざし、主イエスを拒み続けるなら、主イエスの方から、ご自分を見たりご自分に会ったりできなくされるのです。すなわち、神が人間をシャットアウトされ、二度と救いのチャンスをお与えにならない、ということです。何と恐ろしいことでしょうか。
ですから、自分の不信仰と罪を誰かから指摘されるとか、何かの折りにそれに気付かされたならば、直ちに心から悔い改め、39節「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と、天におられる主イエス・キリストに申し上げ、喜んで主イエス・キリストを、自分の心と生活に受け入れることが、とても大切です。そうすれば、私たち人間は神に罪を赦され、永遠の救いに入れられます。そして、そういうユダヤ人たちがいたことも、新約聖書の『使徒の働き』から分ります。何と感謝なことでしょう。
ただ、ここで難しいことがあります。その一つは、13節から学んで来た、すなわち、自分の罪や不信仰に私たちを鈍感にさせる偽善、虚栄心、傲慢さといった問題です。イエスが16節以降で5回も言っておられるのですが、これらは私たちの心の目を見えなくさせるのです。
それともう一つ難しいことがあります。それは、私たち自身の罪の升目がいつ満ち、そのための神の裁きがいつ、どんな時に私たちに臨むのかが分らないことです。
ですから、神の前に絶えず本当にへりくだり、また常に、特に今朝の説教の最初の方で教えられたように、神の憐れみにすがることは、どんなに大切でしょうか。是非、是非、そうしたいと思います。その意味で、讃美歌21の30番以降に、主の憐れみを求める讃美歌『キリエ、エレイソン』がいくつか掲載されていることは、とても大切で感謝なことだと思います。『キリエ、エレイソン』とは、元はギリシア語で、「主よ、憐れんで下さい」という意味です。教会は、そして信仰の先輩たちは、歴史の中で、こういう賛美を皆で心を合わせて歌ってきたのです。何と尊い賛美の歌でしょうか。
最後に、神の憐れみを心の底から祈り求める旧約聖書の詩篇51:1、2を読んで終ります。
「神よ、私を憐れんで下さい。あなたの恵みに従って、私の背きを拭い去って下さい。あなたの豊かな憐れみによって。
私の咎を、私からすっかり洗い去り、私の罪から私をきよめて下さい。」