2026年07月05日「偽善者のわざわい ⑴」

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偽善者のわざわい ⑴

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章13節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:13 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは人々の前で天の御国を閉ざしている。お前たち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。
23:15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。
23:16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。お前たちは言っている。「誰でも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。」
23:17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。
23:18 また、お前たちは言っている。「誰でも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。」
23:19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。
23:21 また、祭壇にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。
23:22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。
23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義と憐みと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
23:24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。マタイによる福音書 23章13節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 神の御子イエスは、私たち罪人を罪と永遠の滅びから救うために、約2千年前、世に来られました。しかし、当時のユダヤ教の指導者であった律法学者たちやパリサイ人たちはイエスを拒み、イエスに敵対しました。彼らはイエスに質問し、イエスを陥れようとしましたが、全部失敗しました(マタイ福音書22:15~46参照)。

 そこで今度は、23:1~12が伝えますように、イエスは彼らの問題点を群衆や弟子たちに語られ、13節以降では、直接、彼らに向かって語られました。今朝は13節以降を学びたいと思います。

 13節「わざわいだ」と、イエスは29節まで7回も語られます。5:3以降でイエスは真(まこと)の信仰者について「幸いです」と8回言われましたが、ここではユダヤ教指導者たちの偽善をとても厳しく指摘し糾弾されます。私たちも心して学びたいと思います。

 では、彼らの偽善はどういう点にあったのでしょうか。一つは彼らの教えです。

 イエスは言われました。13節「お前たちは人々の前で天の御国を閉ざしている。お前たち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」と。ここの並行箇所であるルカ福音書11:52で、イエスは「お前たちは知識の鍵を取り上げて」と語っておられます。つまり、天の御国に入るためには、正しい知識という鍵がいるのです。

 では、それはどんな知識でしょうか。

 一つは、自分の罪と不信仰を心底悲しみ、神を恐れ、平伏し、神の憐れみにすがる悔い砕けた魂が必要だという知識です。例えば、詩篇51篇の作者は「神よ、私を憐れんで下さい。あなたの恵みに従って、私の背きを拭い去って下さい。あなたの豊かな憐れみによって」と祈りました。

 もう一つは、私たち罪人を贖って下さる神からの救い主を心から信じ、受け入れ、依り頼むという知識です。紀元前8世紀の預言者イザヤは、神がやがて遣わされる救い主をイザヤ書9:6で「一人のみどりごが私たちのために生れる。一人の男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と預言しました。お分りのように、これは神の独り子、主イエスを指していました。

 ところが、律法学者たちは自分自身も守れないのに「神の戒め・律法を完全に守って救いを得よ」と、いわゆる律法主義の信仰を人々に教えたのでした。ですから、イエスは13節「お前たちは人々の前で天の御国を閉ざしている。お前たち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」と語られたのでした。

 イエスは15節でも彼らの教えを問題視してこう言われます。15節「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。」今度は、異邦人がユダヤ教に改宗した場合のことを語られます。

 ユダヤ教の指導者たちは、地中海を取り巻く世界の各地へ行き、熱心に異邦人たちに教え、改宗者が出ていました。異邦人改宗者たちは当然強い決意をもって改宗しましたので、大変熱心でした。それだけに、ユダヤ教指導者たちの教えを必死に守ろうとし、却って苦しいことが少なくありませんでした。彼らは「ゲヘナの子」、つまり、地獄のような苦しみを味わい、しかも天の御国に入れなくされていました。何とひどいことでしょう。

 以上の点を、私たちもよく注意したいと思います。律法主義的な信仰は真面目で熱心です。けれども、その信仰はどうしても狭く厳しくなり、自然と湧き出る救いの大らかな喜びや感謝、賛美、笑顔、また進んで人々に近づき、助け、優しく生き生きと仕える姿勢も、希薄になりやすいですね。

 今、キリスト教会はどこも皆、苦戦しています。それだけに私たちは、イエスがマタイ福音書5:3以降で言われた幸いな真(まこと)の信仰者の八つの特徴をしっかり心に留め、また命を捧げて天国の門を開いて下さった主イエスの福音に喜んで生き、聖さ、喜び、賛美の溢れる教会となり、もっともっと多くの人がゲヘナの子ではなく神の子になって下さることに、よ~く用いられたいと思います。

 律法学者たちの問題の二つ目に進みます。それは、彼らの信仰が本末転倒していたことです。

 その一つは、誓いについての問題です。イエスは言われました。16節、17節「わざわいだ、目の見えない案内人たち。お前たちは言っている。『誰でも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。」「黄金」とは、恐らくエルサレム神殿にあった様々な金の装飾品のことでしょう。

 またイエスは18節で「祭壇の上の献げ物にかけて」する誓いの問題を指摘なさいます。

 16~22節まで、イエスはかなり詳しく語っておられます。ということは、誓いという点で、彼らの偽善性は相当ひどかったのでしょう。詳しい説明は省きます。要するに彼らは、神殿よりも黄金、祭壇よりも祭壇の上の献げ物を、神の前に重要だと人々に教えました。本末転倒も甚だしいですね。

 で実は、このように彼らが教えたということは、彼ら自身、誓いというものを軽く考え、また全てをご存じの神を畏れることよりも、見える物、形ある物を重んじたことを意味します。しかし、これは信仰の本質に関わるとても大きな問題です。そこには、人に見せ、人に見られることに心が傾く見栄や偽善が伴っているからです。ですから、信仰が本末転倒していると共に、見栄や偽善が見え隠れしていたのでした。

 この問題は、この後の23、24節でイエスが指摘しておられる点にも現れています。イエスは言われました。23節「偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義と憐みと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」

 旧約聖書の最初にありますモーセ五書と呼ばれる所には、地の産物や家畜の1/10を神に捧げよとの規定があります。それらは、第一に神殿で仕える祭司やレビ人の生活をしっかり支え、第二に貧しい人たちに施す憐れみとしても用いられ、第三にそれらは元々神のものであるという神への誠実な信仰を表すものでした。ですから、イエスが言われますように「正義と憐みと誠実」を表していると言えます。今日、私たちが1/10献金をするのも、これに基づきます。

 ところで、ミント、イノンド、クミンは香りの高いハーブ・薬草であり、料理や薬としても使われ、庭によく生えていましたが、これらを捧げることまでモーセ律法は定めていません。それなのに、律法学者たちは捧げたのでした。どうしてでしょう。「自分はこういうものまで神に捧げているのだ」と、皆に見られるためだったのです。本来、捧げ物は神の前で正義と憐みと信仰者としての自分の誠実さを表わすものでした。しかし彼らは、自分自身の信仰深さを人々に見せようとしたのです。何と本末転倒したことでしょう。

 この点をイエスは、24節でも指摘されます。「ブヨはこして除くのに、らくだは呑み込んでいる」と。モーセ律法で汚れたものとされた小さな虫のブヨは、よく葡萄汁や葡萄酒に飛び込みます。そこで、あなた方は布でこして飲むが、律法の中(例えばレビ記11:4)で汚れたものとされている遥かに大きならくだは呑み込んでいる、とイエスはおっしゃったのです。無論、これはユダヤでよく用いられた誇張した表現でしたが、こういう本末転倒したことが見られたのでした。ですから、イエスは「わざわいだ」と言われたのです。

 この点に私たちもよく注意したいと思います。

 「あの人は偉い人だ。立派な方だ」と人々から自分がほめられ、また高く評価されたくて自己アピールすることは、この世の社会では普通のことかも知れません。けれども、キリスト教会では、決してあってはなりません。これは最終的には、本人にとって災いでしかありません。その上、砂の上に家を建てた人のように、自分の信仰を見せかけだけのものにしてしまい、厳しい試練に襲われるなど、いざという時、何の力もありません。しかも、パン種、イースト菌のように、悪い影響を教会全体に及ぼし、教会を内側から変質させ、破壊していきます。

 私たちは、何より「まず神の国と神の義を求めなさい」というマタイ福音書6:33の主イエスの教えに従うことにより、「幸いです!天の御国はあなた方のものです!」と主イエスに言って頂き、祝福される、神中心で、信仰・希望・愛に生き、見栄や偽善のない真実な教会を、皆で絶えず目指したいと思います。

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