2026年06月07日「一番重要な戒め」

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聖句のアイコン聖書の言葉

22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」マタイによる福音書 22章34節~40節

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 キリスト教信仰とは、万物の造り主なる真(まこと)の神と、その神に対し、生れながら不信仰で利己的な私たち罪人の救い主・神の御子イエスを信じて生きることです。今朝は、そのキリスト教信仰において最も重要な戒めを、マタイの福音書22:34以降から改めて学びたいと思います。

 34節が伝えますように、当時のユダヤ教の一派・パリサイ人たちは、対立していたサドカイ派の人たちをイエスが黙らせたと聞き、それなら自分たちでイエスを倒そうと考えました。そこで、35節、彼らの中の「律法の専門家」、つまり、旧約聖書をよく勉強していた人たちの一人が、イエスを「試そう」としてこう尋ねました。36節「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」

 「律法」とは、人間が神の前に正しく生きるために神ご自身が示された旧約聖書にある規範であり、多くの戒めから成っています。ユダヤ教の教師たちは、積極的な戒めは248個、消極的なものは365個、計613個あるとしたそうです。そのために、どの戒めが重要なのかという点で、彼らの間で議論がありました。

 では、イエスはどう答えられたでしょうか。二つあります。

 一つは、37節です。「あなたは心を尽くし、命を尽し、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 これは旧約聖書の申命記6:5の引用であり、すぐ前の6:4「聞け、主は私たちの神。主は唯一である」に続きます。「聞け」は、ヘブル語で「シェマー」と言います。そこで、ユダヤ人たちはこの戒めをシェマーと呼び、礼拝の度にこれを最初に唱え、また子供たちが最初に暗記したのがこの戒めでした。

 「心を尽くし、命を尽し、知性を尽くして」とあります。知性、感情、意志は勿論、私たちの全存在を上げて、また全生涯を通じて、造り主にして救い主なる真(まこと)の神、主を愛するということです。また「愛する」とは、本当に大切にし、尊ぶことです。

 これはキリスト教の特徴を、よく表わしていると思います。

 私たちの周りには、昔から色々な宗教があります。しかし、それらの宗教では、何がしかの神仏を恐れ、信じないと祟り(たたり)があり不幸になり、信じて何かを供え捧げると運が向き、幸せになるという、いわゆるご利益(ごりやく)が中心で、信心の対象を愛するなどというのは、まずないでしょう。それらの宗教では、殆どの場合、信心する対象のことより、人間自身の幸・不幸や欲望が第一で、中心ではないかと思います。

 しかし、キリスト教では違います。創世記の1章から分りますように、天と地の全てを造られ、十分に環境を整えた後、最後に、人間をご自分のパートナーとして造られた真(まこと)の神を、私たちは仰ぎ、神と親しく交わり、感謝し、神を喜び、また神に喜ばれるように生きるのです。すなわち、神を愛することが第一のことであり、神を愛することから全てが始まるのです!ですから、イエスは言われました。38節「これが、重要な第一の戒めです」と。

 このことを、私たちも改めて心に深く刻みたいと思います。クリスチャンは、単に神の色々な戒めを気にし、守らないと裁かれるから、といった動機で生きるのではありません。私たちが考え、発言し、行動する動機は、愛をもって私たちをお造りになり、また私たちを罪と永遠の滅びから救うためにご自分の愛しい(いとしい)独り子(ひとりご)イエスを十字架につけられたほどに私たちを愛しておられる、生ける真(まこと)の神への愛なのです。これがキリスト教信仰というものです。

 さて、イエスはもう一つお答えになりました。39節「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」これは旧約聖書のレビ記19:18の引用です。

 たくさんある戒めの代表が、出エジプト記の20章にある十戒です。その中の対人的戒めとして、「あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。隣人の家を欲してはならない」とあります。これらは、ただ守れば良いというのではなく、何より相手を大切に思う愛のあることが重要です。

 キリスト教信仰に生きるとは、「これこれを守るなら自分は咎められず、世間からも教会でも変な人間とは思われず、うまくやっていけるから」といった、自分のことが動機ではありません。何より、人を本当に大切に思う愛が動機であり、これが一番重要なのです。

 ですから、主イエスの教えに従って、使徒パウロも新約聖書のローマ人への手紙13:10で「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです」と言い、また人への愛こそが最重要であることを、次のように言って教えました。「たとえ私が持っている物の全てを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(コリント人への手紙 第一13:3)

 以上、キリスト教信仰では、神と人への愛が何より尊いことを確認しました。主イエスは40節で「この二つの戒めに律法と預言者の」、つまり、旧約聖書の「全体がかかっている」と言われ、この二つがどんなに重要かを教えて下さいました。

 そこで、ここからもう少し教えられたいと思います。三つあります。

 第一のことは、二つの戒めの順序・順番の大切さです。イエスは神への愛をまずお教えになりました。

 人間への愛を優先すると、どうなるでしょうか。どうしても神への思いが抜け落ち、あるいは希薄になり、人間中心の愛、ヒューマニズム的な愛が第一になり、更に言いますと、自己中心で肉的な愛になりかねません。ですから、神への愛を自分は第一としているだろうか、後回しにしていないだろうかと、常々、自問自答することが大切だと思います。私たちは、神を愛する時にのみ、人を正しく愛することもできるのです。

 第二に、人への愛も決して忘れないようにしたいと思います。

そもそも、聖書は何故、人への愛を教えるのでしょうか。創世記1:26~28が言いますように、神が人間を皆、ご自分に似せて造られたからです。人間の内にある神に似ている性質、その部分を神はご自分の「かたち」と呼んでおられます。つまり「神のかたち」です。

 人間の罪のために、私たちの内にある神のかたちは確かに歪んでしまっています。しかし、これがありますから、動物とは違って、人は神に応答でき、実際、何らかの形で応答しています。これがいわゆる宗教と呼ばれるものです。偶像礼拝も、間違った形ではありますが、実は神への応答にほかなりません。

 話を戻します。神が他の人への愛をお教えになるのは、人には皆、神の形があるからであり、人への愛は、結局、神への愛の一つの姿、一つのかたちだからです。

 従って、神を愛する人は、他の人をも愛し、自ら進んで人に仕えます。自分は神を愛し、神を大切にしていると言いながら、人に仕えない人は、本当の意味で神を愛してはいません。神への愛は、人への愛に表れるのです。

 ですから、人に関心を向け、自分を捧げ、具体的に人に仕えることを通して、神への愛を私たちは表わしたいと思います。

 第三に、正しい自己愛の大切さも教えられます。

 39節に「あなたの隣人を『自分自身のように』愛しなさい」とあります。「自分自身のように」です。ということは、自己愛が前提とされているわけです。確かに、ひどく自分に執着するといった利己的で歪んだ間違った自己愛もあります。しかし、イエス・キリストの福音の光の中で正しく自分を見つめ、自分を受け止め、神の愛に感謝する、そういう自己愛もあります。そのように、正しく自分を愛し、大切にする自己愛から、他の人への健全な愛が可能になることを、是非、覚えたいと思います。

 以上、天地の造り主なる生ける真(まこと)の神への愛と、その神が愛され、ご自分の形を刻んでおられる隣人への愛という、とても大切な尊いことを、今朝、私たちは改めて教えられました。

 無論、この二つを行うことは、私たちにとって決して簡単ではありません。けれども、この二つの愛に、自ら歴史の中で生きられた主イエスの私たちへの計り知れない愛!それと、ローマ人への手紙8:28が教えますように、神を愛する者には最終的に万事を益として下さる父なる神と御霊の愛を覚え、罪の世ではありますが、いいえ、罪の世ですからこそ、私たちクリスチャンは、この尊い二つの戒めに少しでも生き、神の素晴らしさをますます味わい、それをより多くの隣人たちと分かち合うことができれば、と思います。

 最後に、コリント人への手紙 第一 13:13をお読みして終ります。

 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」

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