聖書の言葉 13:1 兄弟愛をいつも持っていなさい。13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使い(みつかい)たちをもてなしました。13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。ヘブライ人への手紙 13章1節~3節 メッセージ 以前、私は14年間、あるキリスト教病院で牧師として働きました。キリスト教病院でしたので、その時、特に思ったのだと思いますが、病院内で職員が心掛けることと教会内で信者が心掛けることとは、似ている点が多いと思いました。今も私はそう思います。 では、どうして似ている点が多いのでしょうか。恐らくそれはどちらも人間を大切にするからだと思います。 その病院を退職後、私は神戸市北区の教会で牧師をしていた時、98歳の教会員の女性のお見舞いに殆ど毎日、妻と一緒に行きました。その病院には理念らしいものは見られませんでした。職員が割合大きな音で病室の戸を閉め、大事な話なのでしょうけれども、私たちが近づいても通路を塞いで自分たちで話し続け、また前を通ってもこちらを見ず、パソコンをずっと見続けている受付職員もいました。それは一部の職員だと思いますが、全体に人への関心と思いやりが薄いと感じました。 私の勤めていた病院は、全人医療という理念を持っていました。全人医療とは、「体と心と魂をもった人間(全人 Whole Person)に、キリストの愛をもって仕える医療」です。利己的な罪人の私たちを罪と永遠の滅びから救うために、十字架で命を捧げて下さった神の御子イエス・キリストを知って頂くことを最終的に願いつつ、患者さんの体と心と魂を温かく思いやる医療です。それがあるかどうかの違いは大きいと思います。 今「思いやる」と言いました。先程のヘブル人への手紙13:3は、紀元1世紀の後半、迫害や虐待が起っていたことを背景に、クリスチャンたちにこう教えました。「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」 牢につながれ、虐待されている人々がいる。だから、自分自身が牢につながれ、また虐待されていることを想像し、その辛さをよく覚える!そのように、人の体の痛みや苦しさ、不安や絶望に震える心、魂の叫び、呻きを、想像してみることです。「思いやる」と言う時、聖書はここまで人の辛さをリアルに想い、人の身になって考えることを教えます。 主イエスは神の御子なるお方ですのに、肉体的、精神的、社会的、霊的な様々な苦しみのある私たちを本当に愛し、私たちの叫びや涙を具体的に思いやり、その上で助け、永遠に救うために、実際に人間となって世に来られました。ヘブル人への手紙4:15、16は、イエス・キリストに触れてこう語ります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、全ての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから、私たちは、憐れみを受け、また恵みを頂いて、折に適った助けを受けるために、大胆に恵みの御座(みざ)に近づこうではありませんか。」 全人医療は色々な角度と深みから考え、行動し、その一つは正(まさ)に主イエスご自身に倣って「人を思いやること」と言えるでしょう。 人を思いやることは、どれ程、人を支えるでしょうか。46歳で亡くなったある男性は、人生の半分の23年間、色々な病院にかかり、でも治療法は見つからず、最後が私の勤めていた病院でした。彼はこう言いました。「この病院では~~先生や皆が一生懸命考えてくれる。それが僕には嬉しいんです。治療法はもしかしてここでも見つからないかも知れないけど、一緒に考え、一緒に悩んでくれる人がいてくれることが嬉しいんです。」 別の男性はこう言われました。「私は今までガンガン働き、仕事も皆よりよく出来ました。ですから、仕事がのろく、うまくできない社員を見ると、何でこんなことが出来ないのかとイライラしていました。 家に帰っても、家の者が色々私にしてくれるのは当然と思っていたので、特に感謝に思ったことも感謝を言ったこともありません。 しかし今回こんな病気になり、この病院に入院して初めて分りました。私は本当は生かされているんだ。私ひとりで生きているのではなく、皆にいっぱい助けてもらって生きているんだと。 神様が本当におられるのかどうか分りませんが、神様に生かされているような気がします。そうしたら、心が自然と優しくなり、ありがとうという気持ちになるんです。また、もっと自分を大切にしないといけないことも分りました。」 ボランティアの方々も含めた全スタッフのチームワークと神から与えられた医療理念に基づく思いやりの大切さを今も思います。 当教会の私たちも、神から与えられている大切な使命、すなわち、神と隣人に主イエス・キリストに倣って心から仕え、最後には主イエスにより永遠の救いに与って頂き、また教会内では、常に互いに真摯に思いやりをもって、言葉、表情、行動においても接することに、是非皆で努めたいと思います。 関連する説教を探す 2026年の祈祷会 『ヘブライ人への手紙』
以前、私は14年間、あるキリスト教病院で牧師として働きました。キリスト教病院でしたので、その時、特に思ったのだと思いますが、病院内で職員が心掛けることと教会内で信者が心掛けることとは、似ている点が多いと思いました。今も私はそう思います。
では、どうして似ている点が多いのでしょうか。恐らくそれはどちらも人間を大切にするからだと思います。
その病院を退職後、私は神戸市北区の教会で牧師をしていた時、98歳の教会員の女性のお見舞いに殆ど毎日、妻と一緒に行きました。その病院には理念らしいものは見られませんでした。職員が割合大きな音で病室の戸を閉め、大事な話なのでしょうけれども、私たちが近づいても通路を塞いで自分たちで話し続け、また前を通ってもこちらを見ず、パソコンをずっと見続けている受付職員もいました。それは一部の職員だと思いますが、全体に人への関心と思いやりが薄いと感じました。
私の勤めていた病院は、全人医療という理念を持っていました。全人医療とは、「体と心と魂をもった人間(全人 Whole Person)に、キリストの愛をもって仕える医療」です。利己的な罪人の私たちを罪と永遠の滅びから救うために、十字架で命を捧げて下さった神の御子イエス・キリストを知って頂くことを最終的に願いつつ、患者さんの体と心と魂を温かく思いやる医療です。それがあるかどうかの違いは大きいと思います。
今「思いやる」と言いました。先程のヘブル人への手紙13:3は、紀元1世紀の後半、迫害や虐待が起っていたことを背景に、クリスチャンたちにこう教えました。「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」
牢につながれ、虐待されている人々がいる。だから、自分自身が牢につながれ、また虐待されていることを想像し、その辛さをよく覚える!そのように、人の体の痛みや苦しさ、不安や絶望に震える心、魂の叫び、呻きを、想像してみることです。「思いやる」と言う時、聖書はここまで人の辛さをリアルに想い、人の身になって考えることを教えます。
主イエスは神の御子なるお方ですのに、肉体的、精神的、社会的、霊的な様々な苦しみのある私たちを本当に愛し、私たちの叫びや涙を具体的に思いやり、その上で助け、永遠に救うために、実際に人間となって世に来られました。ヘブル人への手紙4:15、16は、イエス・キリストに触れてこう語ります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、全ての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから、私たちは、憐れみを受け、また恵みを頂いて、折に適った助けを受けるために、大胆に恵みの御座(みざ)に近づこうではありませんか。」
全人医療は色々な角度と深みから考え、行動し、その一つは正(まさ)に主イエスご自身に倣って「人を思いやること」と言えるでしょう。
人を思いやることは、どれ程、人を支えるでしょうか。46歳で亡くなったある男性は、人生の半分の23年間、色々な病院にかかり、でも治療法は見つからず、最後が私の勤めていた病院でした。彼はこう言いました。「この病院では~~先生や皆が一生懸命考えてくれる。それが僕には嬉しいんです。治療法はもしかしてここでも見つからないかも知れないけど、一緒に考え、一緒に悩んでくれる人がいてくれることが嬉しいんです。」
別の男性はこう言われました。「私は今までガンガン働き、仕事も皆よりよく出来ました。ですから、仕事がのろく、うまくできない社員を見ると、何でこんなことが出来ないのかとイライラしていました。
家に帰っても、家の者が色々私にしてくれるのは当然と思っていたので、特に感謝に思ったことも感謝を言ったこともありません。
しかし今回こんな病気になり、この病院に入院して初めて分りました。私は本当は生かされているんだ。私ひとりで生きているのではなく、皆にいっぱい助けてもらって生きているんだと。
神様が本当におられるのかどうか分りませんが、神様に生かされているような気がします。そうしたら、心が自然と優しくなり、ありがとうという気持ちになるんです。また、もっと自分を大切にしないといけないことも分りました。」
ボランティアの方々も含めた全スタッフのチームワークと神から与えられた医療理念に基づく思いやりの大切さを今も思います。
当教会の私たちも、神から与えられている大切な使命、すなわち、神と隣人に主イエス・キリストに倣って心から仕え、最後には主イエスにより永遠の救いに与って頂き、また教会内では、常に互いに真摯に思いやりをもって、言葉、表情、行動においても接することに、是非皆で努めたいと思います。