2026年05月31日「復活について」

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聖句のアイコン聖書の言葉

22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
22:24 「先生、モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫をおこさなければならない』と言いました。
22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
22:27 そして最後に、その妻も死にました。
22:28 では復活の際、彼女は七人のうちの誰の妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」
22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなた方は聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
22:30 復活の時にはひとはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
22:31 死人の復活については、神があなた方にこう語られたことがないのですか。
22:32 『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。マタイによる福音書 22章23節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 ひと時、マタイの福音書から大切なことを学びます。今朝は22:23以降に進みます。

 約二千年前、天の父なる神の許(もと)から来られた神の独り子(ひとりご)イエスは、多くの尊い教えや病人を癒すなどの働きにより、ご自分が旧約聖書の約束していた全世界の救い主・キリストであることを示されました。しかし、当時のユダヤ教の不信仰な指導者たちはイエスを妬み、イエスをやり込めようとしました。今朝の聖書箇所では、ユダヤ教の一派・サドカイ人たちが「復活」についてイエスに議論を持ちかけました。

 そこで、まず私たち人間の復活について基本的なことを確認しておきます。

 私たちは皆、いつか必ず死に、体は土に帰ります。しかし、イエス・キリストを心から信じる人の魂は、直ちに神の聖い(きよい)永遠のご支配の中に入れられます。

 が、これで終りではありません。世の終りに、もう一度新しく体を与えられ、全く新しくされた麗しい天と地に、神と共に永遠の喜びの中に生きることを許されます。但し、最後まで不信仰で頑なな人は、永遠の滅びに至るほかありません。

 大まかに言いますと、以上が、主イエス・キリストと聖書全体が教える世の終りに起る私たちの復活です。

 そこで話を戻します。この復活を否定していた当時のユダヤ教の一派・サドカイ人たちが来てイエスに質問し、イエスを論駁(ろんばく)しようとしました。彼らは当時のユダヤで裕福な階級に属し、旧約聖書の最初にあるモーセ五書と呼ぶものを大事にしました。しかし合理主義者であり、復活を否定し、またユダヤを支配していたローマ帝国ともうまくやろうとした人たちでした。

 彼らはイエスに言いました。24節「先生、モーセは『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起さなければならない』と言いました。」

 確かに旧約聖書の申命記25:5~10にはそう言われています。これは元々、神を畏れ敬う子孫を残すための結婚であり、ラテン語に基づきレヴィラート婚と呼ばれます。

 続けて、サドカイ人たちは言いました。25~28節「ところで私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の時、彼女は七人の内の誰の妻になるのでしょうか。彼らは皆、彼女を妻にしたのですが。」

 確かに普通に考えますと、これでは復活の時、非常に困ったことになります。だから、復活などない、という理屈です。

 では、これにイエスはどう答えられたでしょうか。29、30節「あなた方は聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐ(とつぐ)こともなく、天の御使い(みつかい)たちのようです。」

 イエスは、彼らが「思い違い」をしていると言われました。

 確かに、サドカイ人たちには、第一に聖書に対する姿勢に根本的な問題がありました。何故か彼らは旧約聖書の全体ではなく、最初のモーセ五書だけを大事にし、他の部分を無視し、あるいは軽視しました。けれども、それは神が歴史の中で示された正統的な信仰ではなく、それでは本当の意味で聖書を知ることにはならず、神の力も分らなくて当然です。

 例えば、旧約聖書には、モーセ五書に入っていないエゼキエル書があります。その37章、すなわち、神が干(ひ)からびた骨から人を生き返らせられるという幻をエゼキエルに示されたことを伝える箇所を見れば、神の力がよく分ります。

 それに、そもそもモーセ五書の最初にある創世記は、神が全くの無から天地万物を造られた全能者であられることを明確に教えています。

 今では新約聖書も含めてですが、聖書全体を聖書とせず、あるいは聖書の中身をえり好みしたり、読み飛ばすような姿勢は、私たちの信仰を駄目にすることを改めて教えられます。

 第二に、サドカイ人たちが合理主義者であったことも大きな問題であり、そのために神の御業(みわざ)、つまり神のなさることの全体を捉えることができませんでした。

 無論、私たちは、神から与えられている理性により論理的思考を大事にし、キチンと筋の通った合理的な判断に努めるべきです。しかし、有限なこの世における考え方や物差しを、無限・永遠・不変の霊であられる神にまで全部当てはめるのは間違っています。が、サドカイ人たちがしたのは正に(まさに)それでした。ですから、イエスは29節「思い違いをしています」と言われたのです。

 そして、思い違いの一つとして、イエスはこう言われました。30節「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」サドカイ人たちは、今のこの世の事象から、神による世の終りや永遠の世界のことも類推して結論づけるという間違いをしたのでした。

 思い違いの二つ目として、イエスは次にこう言われました。31、32節「死人の復活については、神があなた方にこう語られたのを読んだことがないのですか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

 確かに、旧約聖書の出エジプト記3:6で、神はモーセに「私はあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、大分(だいぶ)前に死んだ先祖たちですのに、今も彼らの神だと言われました。ですから、彼らは今も生きていて復活を待っている、ということです。

 サドカイ人たちもこの聖書の御言葉(みことば)は当然知っていたでしょう。しかし合理主義に染まっていたため、聖書の教えの深さにも高さにも気付かず、結局、心の中で読み飛ばし、注意を払っていなかったのです。これは他人事(ひとごと)ではありません。今日の私たちもよく注意しなければならないことです。

 そう言えば、旧約聖書の申命記29:29はこう教えていました。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは私たちと私たちの子孫のもの」と。

 神が聖書とこの世において「現されたこと」、つまり、私たちに分るように啓示しておられる点はしっかり学び、分ったことを大切にし、また従順に従うべきなのです。

 しかし、「隠されていること」、つまり、神がハッキリ啓示しておられないことについては、その手前で留まり、それ以上は踏み込まないという謙虚さがとても大切です。有限は無限を把握できないからです。

 以上、サドカイ人たちの持っていた問題点から、大事なことを教えられました。

 そこで最後に、今日のテーマである復活について少し再確認しておきたいと思います。

 第一に、神が今の世を終らせ、万物を新しく造り変えられる時、信仰者は復活させられることを、イエスがご自分の復活によってハッキリ示しておられたことをよく覚えていたいと思います。

 二千年前、神の御子イエスは私たち罪人の罪を全部背負い、十字架で命を捧げられました。しかし、その三日後、約束通り復活されました!それは私たちに永遠の天の御国(みくに)への道を開いて下さり、またイエスを信じる者が特に世の終りに必ず復活の恵みと祝福に与る(あずかる)ことを保証しているのです。イエス・キリストの復活は、Ⅰコリント15:20が言いますように、私たち信仰者の復活の「初穂」なのです。初穂は、それにあとのものが続くことを意味します。

 第二に、信仰者は、もう二度と罪を犯さず、また辛い病気や障害も全くない完全に整った聖い最高の体を、復活の時に与えられるのです。この点をⅠコリント15:44はこう言います。「血肉の体で蒔かれ、御霊(みたま)に属する体に甦らされる」と。主イエス・キリストのように全く聖く、また夫々に一番相応しい最高に美しい完全な体を神から頂くのです。

 第三に、イエスはマタイの福音書22:30で「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのよう」だと言われました。すなわち、この世での特別な関係は終りますが、それ以上に、私たちは一切のことを何より感謝でき、神のそばで互いに喜びと愛、安らぎに満ちた天使たちのような者とされ、永遠に神を喜び、賛美の内に生きることを、許されるのです。

 サドカイ人たちからの議論で始まった今朝の聖書箇所でしたが、大切な復活について改めて確認できたことを主イエスに感謝致します。世の終りの復活の時を、皆で仰ぎ望みながら、天に召される時まで、神に置かれた所で、神と人に愛をもって仕え、また自分の体と心と魂を御言葉に従って大切にし、あくまでも誠実に歩みたいと思います。

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