2026年05月24日「聖霊を求めよう」

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聖霊を求めよう

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
使徒言行録 2章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

2: 1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2: 2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2: 3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2: 4 すると、皆が聖霊に満たされ、御霊が話させるままに、他国の色々なことばで話し始めた。
2: 5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2: 6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2: 7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。
2: 8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国の国語で話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2: 9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちの言葉で神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
2:12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
2:13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。使徒言行録 2章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今年のキリスト教の暦では、今日はペンテコステであり、全世界の教会でペンテコステ礼拝が持たれます。ペンテコステはギリシア語で50を意味し、使徒2:1で「五旬節」と訳されています。これを教会は大切にして来ました。神の御子イエスが紀元30年頃、過越祭の金曜日に全人類の罪を背負って十字架で命を献げ、しかし、三日後の日曜日に復活され、更にその50日後、すなわち7週間後の日曜日に、聖霊が弟子たちに驚くようなかたちで特別に臨まれたからです。

 弟子たちは、1:4にありますように、復活されたイエスに言われた通り、エルサレムを離れず、集まって祈っていました。すると「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分れて現れ、一人一人の上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」のでした(2:2~4)。

 世界中から来ていた敬虔なユダヤ人たちが物音に驚き、集まって来ますと、何と色々な国の言葉でイエスの弟子たちが、11節「神の大きな御業(みわざ)」を語っていました。ここには象徴的なものが見られます。「風」はヘブル語で霊も意味し、「炎」は聖さ(きよさ)を、また「舌」は言葉や語ることを象徴します。すなわち、三位一体(さんみいったい)の神の第三人格(もしくは第三位格)であられる聖霊なる神が、弟子たちをきよめ、御子イエスを中心とする神の偉大な救いの御業を全世界に語らせるために、特別に働かれたのでした。

 実際、この時から弟子たちは教会を形成し、また聖霊に強められて救い主イエスを人々に証しし、やがて全世界にイエス・キリストを伝えることになって行きました。

 以上、教会の誕生日とも呼ばれるペンテコステについて、基本的なことを確認しました。

 こういう特別な出来事はこの時だけでしたが、今も私たちは聖霊を求めることがとても大切です。それは、天と地と人間を造られた真(まこと)の神への不信仰と罪のもたらす永遠の滅びから私たちがイエス・キリストへの信仰によって救われ、また神に喜ばれる者へともっと変えられるためです。

 ここで基本的なことを二つ確認しておきます。

 一つは、私たちの救いの一切合切はただイエス・キリストによるということです。

 私たち罪人が永遠の裁きと滅びから救われるためには、罪も染み(しみ)も一切ないご自分の命を献げ、私たちの罪を全部償って下さった神の御子イエスの救いの恵みを頂くほかありません。そこで、私たちは神の御子イエスを、自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼み、イエス・キリストの体である教会で洗礼を受け、クリスチャンとなります。

 すると、主イエスへの信仰の故に、私たちは罪を全て赦され、神の前に義と認められます。現実にはまだ罪と汚れはありますが、私たち信仰者は、いわばイエス・キリストの真白な義の衣を着せて頂き、神の前に恐れなく立つことのできる資格を頂きます。これが義認(ぎにん)の恵みです。

 と同時に、私たちは神の子供という最高の身分も頂きます。私たちは神を「父よ、お父さま」と本当に呼べる者にされるのです。

 更に、私たちは聖書の教えに生きることを通して、聖い(きよい)主イエス・キリストに似る者とされます。すなわち、聖化の恵みに与ります。私たちはイエス・キリストの故に、義とされ、子とされ、聖とされるのです。

 そして、死の瞬間に、キリストにより完全にきよめられ、祝福に満ちた永遠の神の国に入れられます。このように、私たちの救いの初めから完成まで、一切がイエス・キリストによります。これが第一の点です。

 二つ目に進みます。それは、以上のことを本当に私たちの内に可能にして下さるのが聖霊だという点です。

 大切なことは、私たちが信仰によりイエス・キリストに堅く結ばれていることですが、その信仰を私たちは自分で作り出すことができません。罪の中にいる私たちに本物の信仰を作り出す力はありません。

 しかし感謝なことに、その大切な信仰を私たち罪人の内に与え、また信仰がなくならないように守り、私たちを主イエスに結び付けていて下さるのが聖霊なのです。宗教改革者のカルヴァンは、聖霊を「イエス・キリストと私たちを結びつける紐帯(ちゅうたい)」と言いました。その通りですね。

 復活後40日間、弟子たちと共におられた御子イエスは天に戻られ、今、父なる神と共におられますが、聖霊を私たちに遣わされ、私たちをご自分と結び付けていて下さいます。従って、私たちは聖霊・御霊を一層求めるのです。

 以上、基本的なことを二つ確認しました。しかし、具体的で身近な点でも聖霊を求めることはとても大切です。そこで今朝はウェストミンスター小教理問答の問36を見たいと思います。

 問36「この世において、義認、子とすること、聖化に伴い、あるいはそれらから生じる恩恵とは何ですか。」

 答「この世において、義認、子とすること、聖化に伴い、あるいはそれらから生じる恩恵とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、そして恵みのうちに最後まで堅忍することです。」

 答の中の「義認、子とすること、聖化に伴い、あるいはそれらから生じる恩恵」という言葉のあとにすぐ続くのが「神の愛の確信」です。

 どうでしょうか。私たちは主イエスを信じて洗礼を受け、信仰生活を送っていても、自分への神の愛を常に確信できるでしょうか。例えば、分っていて神に背き、あるいは、人に対して罪深いことをした時、私たちの良心はひどく痛み、魂はうめきます。

 何らかの罪を犯した詩篇32の作者は、その3、4節でこう語っています。「私が黙っていた時、私の骨は疲れ切り、私は一日中うめきました。昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききったからです。」

 こういう時、神の愛の確信など持てるはずがなく、私たちはむしろ自分が呪わしく、神の不快感と悲しみを覚えないではおられません。そうですね。

 しかし、その苦しみの中、聖霊を求めますと、私たちは天を見上げることを思い出します。すると、私たちの醜い罪のために十字架で命を捧げ、今も天において大祭司・仲保者として弱い私たちを父なる神に執り成し続けて下さっている主イエス・キリストの御顔(みかお)を見ます。その時、私たちは再び神の愛、それも絶大な赦しの愛と憐みへの確信を再び与えられます。

 それだけではありません。ウェストミンスター小教理問答が次に言いますように「良心の平和(平安、やすらぎ)」も与えられます。これも何と嬉しい素晴らしい恵みでしょうか。

 自分の罪を恐れ、悲しみ、苦しむことは、罪を恐れず、罪を罪とも思わずに平気でいることに比べますと、遥かに幸せです。とはいえ、罪意識に苦しむだけで、いつもずっと気持ちが塞ぎ、人と顔を合わせるのも辛くてイヤだというのも、何と不幸でしょうか。

 もし私たちがこんな状態であるなら、やはり聖霊を求めたいと思います。聖霊は、私たちに主イエスによる義認の恵みを鮮やかに思い出させて下さるからです。Ⅰテモテ1:15で自分を「罪人の頭(かしら)」だと言った位、苦しんだ使徒パウロでしたが、聖霊のお蔭でローマ5:1では、次のように言うことができました。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」天を見上げ、神の愛、良心の平和(平安、やすらぎ)、神との平和を覚えられることは、何と幸せでしょうか。

 ウェストミンスター小教理問答は、続けて「聖霊による喜び」を教えます。そこで、聖霊・御霊が私たちをイエス・キリストに親しく結び付けて下さることを通して私たちの内に与えて下さる九つの幸いな恵みを、ガラテヤ5:22、23から見ておきます。こう言われています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

 まず愛が言われています。ですから、自分がまだまだ愛に欠ける人間だと思うなら、主イエスに「愛の乏しいこの私に、心から神と人に仕えることのできる愛を与えて下さい」と祈り、真剣に聖霊を求めたいと思います。聖霊なる神は必ず私たちの求めに少しずつ応えて下さるでしょう。

 自分がまだまだ傲慢で、人に対してすぐ批判的になり、苛々(いらいら)したり不機嫌になりやすいのを知っているなら、「寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の賜物を、どうか私に与えて下さい」と、是非、聖霊なる神のお働きを真剣に祈り求めたいと思います。

 最後にもう一つ、他の人にも聖霊が与えられるように、是非、祈りの奉仕をしたいと思います。

 パウロは自分の弱さや足りないこともよく知っていましたので、例えばエペソ5:19で「私のためにも、私が口を開く時に語るべき言葉が与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈って下さい」と、皆に祈りをお願いしました。言い換えれば、これは、聖霊なる神の力と助けが自分に更に与えられるようにと、皆にお願いしたということです。

 従って私たちも、自分自身に聖霊の助けと導きを切に祈り求めることに加え、教会の兄弟姉妹たちにも聖霊が豊かに働いて下さることを願い求めて、互いに皆で熱く祈り合いたいと思うのです。無論、まだ信仰をお持ちでない方々にも御霊がお働き下さることを切に祈り求めたいと思います。

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