2026年04月19日「持ち物とたましい」
問い合わせ
持ち物とたましい
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 12章13節~21節
聖書の言葉
12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生、遺産を私と分けるように、私の兄弟に言って下さい。」
12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったい誰が、私をあなた方の裁判官や調停人に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人の命は財産にあるのではないからです。」
12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持の畑が豊作だった。
12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分の魂にこう言おう。『わが魂よ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、休め。食べて、飲んで、楽しめ。』」
12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。』
12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
ヨハネによる福音書 12章13節~21節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝は「持ち物とたましい」と題して、大切な神の御心の一つを学びたいと思います。
ある時、群衆の中の一人がイエスに、13節「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言って下さい」と言って、強引に割り込んで来ました。イエスは直ちにこの人の問題点を見抜き、言われました。15節「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人の命は財産にあるのではないからです」と。そして続く16節以降で、譬を話され、その中で神は金持ちに向って、20節「愚か者」と言われました。
では、この金持ちのどこが愚かなのでしょうか。第一に、持ち物の豊かさが自分の命を支えると考えていることです。
彼は、豊作をまず神に感謝し、次に神に喜ばれるように、これをどのように用いるかを考えるべきでした。しかし、彼は言いました。18、19節「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産は全てそこにしまっておこう。そして自分の魂にこう言おう。『わが魂よ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。』」
この人は、自分のことしか頭になく、自分中心、自分ファーストでした。こういう人は、どうしても自分と自分の周囲のごく狭い範囲のことしか考えず、自分が神に生かされ、人にもいっぱいお世話になっていることも忘れてしまいます。そしてお金や健康、環境さえ整っていれば、自分の一生はもう安心だと考えます。
しかし、それは大きな錯覚です。持ち物は、無論、大切です。けれども、人を本当に生かすのは神なのです。神は、ご計画によって人を誕生させ、またご計画によって命を取り去られます。ですから、私たちは、ヤコブの手紙4:15が教えるように、「主の御心(みこころ)であれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのこともしよう」と考えるべきでしょう。
残念ですが、神を忘れたこの人は、豊作だったことに有頂天になり、19節「わが魂よ、これから先何年分もいっぱい物がためられた」と悦(えつ)に入ります。しかし、私たちにも似たような所がないでしょうか。お金があり、良い学校を出て、良い仕事に就き、良い相手と結婚し、健康でさえあれば、「自分の一生はもう安心」と考えるなら、この人と変わりません。
しかし、神は言われます。20節「愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる!」
このことを私たちもよく覚えておきたいと思います。
彼の愚かさの二つ目は、持ち物の豊かさが人生を豊かにする、と考えたことです。
造り主なる真(まこと)の神を忘れますと、価値判断がどうしても物質的・身体的なことに傾き、持ち物が多いと人生まで豊かになったように考えがちます。
でも、それは違います。人生の本当の豊かさは、私たちが生きている間、神から貸して頂いているお金や財産、健康、時間や色々な良いものを、神の御心に従って正しいことや意味あること、真実なことに用い、献げることにあります。
残念なことに、この人には、そういう発想はなく、自分のことだけです。17~19節には「私の作物、私の倉、私の穀物、私のたましい」と、四度も「私」が出て来ます。自分、自分、自分です。従って、彼の考える幸せも、所詮、自分を中心とした物質的なもの、身体的なものでしかありません。19節「食べて、飲んで、楽しめ」(ギリシア語を直訳すると、食え、飲め、楽しめ)です。
無論、たまには私たちも贅沢(ぜいたく)をしてかまいません。主イエス・キリストも人々からの温かいもてなしに感謝し、喜んで受けられました。私たちも神に感謝して楽しませて頂き、再び、自分の務めやなすべきことに励めば良いのです。
けれども、ただ食べ、飲み、笑い、自分を楽しませ、自分を喜ばせるだけなら、何と貧相な人生でしょうか。自分ファーストで自分中心な生き方は、実は私たちの命の質、命の内容を低め、貧しくし、神の願われた命とは呼べないものにしてしまいます。ですから、神は彼から命・魂を取り上げ、こう言われます。20節「お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。」
無論、神の手に戻るのです。元々、一切は神のものであり、それを神は次に別の人に回されるのです。
それだけではありません。神を忘れ、多くの持ち物を持ちつつも、神の御心に従って、例えば、貧しい人たちや困っている人たちのためなどに一切用いない罪深い彼はどうなるでしょうか。夜、眠っている間に、神が彼の魂を取られ、彼の魂は永遠の裁きに至るのです。
イエスは言われます。21節「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
ロシアの文豪トルストイの残した寓話に、『人にはどれだけの土地がいるか』というのがあります。ほぼ次のような内容です。
主人公のパホームは、広い土地さえあれば幸福になれると思っていました。
ある時、ボルガ河の向こうへ行けば、土地はいくらでも安く買えるという話を聞き、早速、行ってみました。はたして、そのとおりでした。土地は、1日千ルーブル、つまり、日の出と共に出発し、日没までに出発点へ帰る間にグルーっと歩いて囲んだ土地が千ルーブルだというのです。安い!但し、日没までに出発点に帰られなかったなら、千ルーブルは取られ、土地ももらえません。
彼は大喜びで、夜も眠らず翌朝を待ち、日の出前に出発点へ行きました。村長が地面に置いた帽子の中に、パホームは千ルーブルを入れ、日の出と共に鍬(くわ)を肩にして歩き出し、道に印を付けながら進みました。出来るだけ広い土地を回ろうと思って、一生懸命歩きました。
日が高く昇り、暑くなって来ました。昼です。
そこで、彼は帰りに向かいます。でも、段々疲れてきました。日は沈みかけてきました。まずい!出発点まで帰りませんと、夢が全部消え、千ルーブルも失います。彼は力を振り絞り、もう半ば走っていました。重くて邪魔になるので、着ていた物を一つ一つ投げ捨てて走りました。
あぁ、もう日没です。しかし、日没の瞬間、ついに彼は出発点に戻り、帽子をつかみました。村の人々は「よくやった!すごい!」などと言い、拍手喝采をしてくれました。けれども、彼は血を吐いて倒れ、死んでしまいました。
仕方なく、翌日、召使は彼の鍬で穴を掘り、彼を埋めてやりました。その土地の広さは1m×2mでした。トルストイがロシアの民話の中から集めた寓話の一つ、『人にはどれだけの土地がいるか』です。
これを私たちは笑えないと思います。形は違っていても、ただ何かを持つことを幸せと思って生きている人は、大切な自分の命の質、人生の質を低め、やがて死を迎えた時、神の前に断罪され、永遠に魂を失うことになります。
ドイツの社会心理学者で精神分析学者のエーリッヒ・フロムは言いました。「たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのである。何かを失うのではないかと心配して思い煩っている人は、心理学的に言えば、どんなにたくさんのものを持っていようと、貧乏人、貧しい人なのである。」
主イエス・キリストは旧約聖書の申命記8:3を引用して言われます。マタイの福音書4:4「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
人は、造り主にして私たちを真に愛しておられる神の聖い(きよい)御心に従うことで、真に豊かに生き、命の質を高められ、神に喜ばれる者とされるのです。
聖書が言いますように、私たちは皆、生れながらに不信仰な罪人です。しかし、そんな私たちのために、天の父なる神は御子イエスを救い主として遣わされ、イエスは私たちを罪から贖う(あがなう)ために十字架で命を捧げ、また私たちの魂を救い、神の御心に生きることの出来る永遠の命を与えるために復活されました。ですから、イエスをただ心から信じ、受け入れ、依り頼む者を、神は本当に罪赦し、永遠の命を与え、またこの世でどう生きることが真に豊かで幸いなのかをも、聖書を通して教えておられます。
十字架の死から復活され、今、天におられる主イエス・キリストに聖書を通して常に教えられ、頂いている様々なものに日々感謝し、神と人のために少しでも献げる。そうして神に喜ばれ、自分でも爽やかな喜び、爽やかな満足、爽やかな感謝のある幸いな一生を送り、やがて主イエスがご用意下さっている天の御国(みくに)の祝福に与りたいと思います。