2026年04月12日「神に喜ばれる者とは」

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神に喜ばれる者とは

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章28節~32節

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聖句のアイコン聖書の言葉

21:28 ところで、あなた方はどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄の所に来て、「子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ」と言った。
21:29 兄は「行きたくありません」と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
21:30 その人は弟の所に来て、同じように言った。弟は「行きます、お父さん」と答えたが、行かなかった。
21:31 二人の内のどちらが父の願った通りのことをしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなた方に言います。取税人たちや遊女たちが、あなた方より先に神の国に入ります。
21:32 なぜなら、ヨハネがあなた方のところに来て義の道を示したのに、あなた方は信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなた方はそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。
マタイによる福音書 21章28節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイの福音書21章は、私たち罪人の永遠の救い主・神の御子イエスが十字架で贖い(あがない)の死を遂げるために北のガリラヤから南のユダヤに来られた後、エルサレムにおいて過ごされた最後の1週間のある日の様子を伝えます。例えば、12節は「祈りの家」であるべきエルサレム神殿の中で騒がしく売り買いしていた人たちをイエスが追い出され、両替人の台や鳩を売る人たちの台や腰掛けを倒すなどをされたことを伝えます。

 すると、以前からイエスを快く思っていなかったユダヤ教の権威者たち、つまり、「祭司長たちや律法学者たち」(15節)は、当然、イエスを咎めました。その彼らとのやり取りの後、イエスは28~32節で二人の息子の譬話をされました。今朝は、ここから基本的な。でも大切なことを学びたいと思います。

 もう一度28~31節を読みます。イエスは言われました。「ところで、あなた方はどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄の所に来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。その人は弟の所に来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。二人の内のどちらが父の願った通りのことをしたでしょうか。」

 ここで聖書本文について少し触れます。新改訳聖書の2017年度版では、29節の29という数字の横に小さな星印があります。そこで、新約聖書の後ろにあります「注」の中のマタイの福音書21:29を見ますと、異本、つまり、別のギリシア語写本には「兄は『行きます。お父さん』と答えたが、行かなかった。…弟は『行きたくありません』と答えたが、後から悪かったと思って出かけて行った」とあります。

 また、どちらが父親の願った通りのことをしたかというイエスの質問に、ユダヤ教の権威者たちは「弟です」と答えます。このように、兄と弟の様子が逆になっているギリシア語写本のあることが分ります。日本語のいわゆる口語訳聖書は、このように訳しています。

 聖書の原本は失われ、手書きの写本が沢山残っていて、たまにこういうことがあります。「弟の方が心を変えて父親に喜ばれる者になった」と考えて聖書を書き写した人たちは、ルカの福音書15:11以降、すなわち、やはり弟と兄が登場する、いわゆる「放蕩息子の譬」に影響されたのかも知れません。

 ただ、ここのイエスの教え、メッセージの中心点は一つですから、私たちは「新改訳2017」により理解して全く問題はありません。

 大切なことは、この譬により、イエスは何をお教えになっているのかです。改めて言うまでもなく、それは最終的に神に喜ばれるのは、どういう人なのかということです。それをイエスは31節の後半~32節で語られます。そこも、もう一度そこを読んでみます。「まことに、あなた方に言います。取税人たちや遊女たちが、あなた方より先に神の国に入ります。何故なら、ヨハネがあなた方のところに来て義の道を示したのに、あなた方は信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなた方はそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」

 すぐ分りますように、譬話の中の弟は、当時のユダヤ教の権威者たちを指します。そしてヨハネとは、マタイの福音書3章が伝えていた「バプテスマのヨハネ」とか「洗礼者ヨハネ」などと呼ばれた人物のことです。かつて彼は群衆に向って、3:2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言い、罪を赦されて魂が永遠に救われるための道、すなわち、21:32「義の道」を説き、人々の心を救い主イエスに向かわせました。けれども、14章が伝えましたように、ヨハネはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに殺されました。ヘロデの罪を指摘したためでした。

 話を戻します。

 ユダヤ教の権威者たちは、旧約聖書の教えをよく勉強し研究し、人間の罪と咎がどんなに深刻なものであり、また神の聖い(きよい)御心が何であり、人間のどういうあり方が神に喜ばれるのかも知っていました。そのため、聖書をよく知っている自分は信仰が深く、神の前に結構良い信仰者だという自負心も彼らにはあったかも知れません。

 ところが、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とヨハネが本当の心のあり方を説いても、彼らは聞き従わず、ヨハネが指し示していた神の御子・主イエスに対しても心を閉ざしたままでした。彼らは譬話の中の弟のように、最初は30節「行きます、お父さん」、直訳しますと、「行きます、主よ」と答えるぐらい、神に対して信仰的であったかも知れません。でも、結局は不信仰だったのでした。

 他方、兄に例えられた取税人たちや遊女たちはどうでしょうか。

 取税人はユダヤ人でしたが、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の下請けをし、同胞のユダヤ人たちから税を徴収しました。またその仕事は請負制度でしたので、一定額をローマ帝国に納めたら、残りは自分のものになったのでした。ローマ帝国の下請けをするだけでもユダヤ人たちからひどく嫌われ、その上、私腹を肥やす者が沢山いましたので、罪人(つみびと)と呼ばれ、皆からひどく嫌われていました。

 それなら、その仕事を辞めれば良かったのですが、段々感覚が薄れ、お金さえあればいい、という気持になっていた人も多かったでしょうね。

 遊女・売春婦は、旧約聖書にあります神の聖い律法・戒めを破ることですから、皆から大変蔑まれていました。けれども、非常に貧しい環境で生まれ育ったとか、家に不幸が襲い、家族を養うにもお金がなく、生きて行くために、泣く泣く自分の体を売らなければならなかった女性も多かったでしょう。そしてその内に「もう、どうでもいい」と段々投げやりな気持で、開き直って生きていた女性も多かったと思われます。

 しかし思うのですが、こういう取税人たちや遊女たちは、外見とは違って、心の底から罪意識を全部払拭することは難しく、ずぅっと重いものを抱えていたのではないでしょうか。

 そういう彼らに洗礼者ヨハネが現れ、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言ったのです。彼らの皆ではないでしょうが、良心の痛みや罪意識を抱えていた人たちは、ヨハネの言葉に胸を突き刺される思いがしたことでしょうね。

 また、彼らも皆、自分がやがて死に、神の前に立たなければならないことは分っていました。この世の生活でも良心的咎めを引きずっているのに、死んだ後、自分の隠したい恥かしい行いも心の中の罪深い思いも、全部ご存じの神の裁きを必ず受けることになる!このことを思って、彼らは自分で自分をごまかすとか、人と自分に言い訳をし続けることなど、もう意味もないことに気付き、本当の自分になれたかも知れません。

 幸いなのは、取税人たちも遊女たちもユダヤ人であり、つまり、幼い頃から聖書に幾らかでも親しみ、触れて来たことです。従って、彼らは、心底悔い改めた者には神から赦しがあることも覚えていたと思います。

 例えば、詩篇130:3~6にはこうあります。

「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、誰が御前に立てるでしょう。

 しかし、あなたが赦して下さる故に、あなたは人に恐れられます。

 私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。主の御言葉を私は待ちます。

 私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。」

 ここには、救いを待ち望む詩篇作者の、主なる神への強い期待と魂の喜びが見られます!

 そこで、念のために少しお話しておきますが、旧約時代の信仰者たちの救いを確実にして下さったのが、私たちの罪も弱さもよくお分りの神の御子イエスなのです。三位一体の神の第二人格であられる主イエスは、新約時代は勿論のこと、実は旧約時代にも、ずっと預言者たちを通して神とその御心を民に教え、また罪を悔い改め、神に立ち返ろうとする人たちを、天の父なる神のそばで絶えず励まし、支え、取り成しをされた救い主だったのです。

 大事なことは、自分は分っていると思っていたユダヤ教の権威者たちのように決して奢らず、高ぶらず、心を頑なにせず、そして取税人たちや遊女たちなど、他の人たちの素晴らしい変化を見ても、無視し、心を閉ざすなどを、決してしないことです。

 むしろ自分の情けない罪と不信仰に気付かされる時、正直に自分としっかり向き合い、心を低くし、ただただ素直に悔い改めることです。そして全世界を贖って、なお余りある主イエス・キリストによる絶大な救いを神は下さるのですから、心から喜び、感謝し、ひたすら主イエスを仰ぐことです。それこそ神に最も喜ばれることです。この信仰を教会で、絶えず皆で繰り返し覚え、互いに支え合って行きたいと思います。

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