2026年04月02日「一粒の麦、地に落ちて死ねば」

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一粒の麦、地に落ちて死ねば

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 12章24節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:24 まことに、まことに、あなた方に言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至ります。ヨハネによる福音書 12章24節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 受難週祈祷会の今日は、ヨハネの福音書12章を見ます。イエスは言われました。24節「まことに、まことに、あなた方に言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

 イエスは二つのことを語られます。一つはご自分のこと、すなわち、ご自分の十字架の死の意義についてです。一粒の麦は地に落ち、つまり、死ぬことで実を豊かに結びます。主イエスも十字架で死ぬことにより、多くの人がイエスへの信仰により救われ、永遠の命という実を結ぶということです。

 全く罪のない、きよい神の御子イエスが私たちの罪を漏れなく背負い、十字架で父なる神の怒りをお受けになり、死ぬことで贖いが完成し、どんな罪人でも、ただ主イエスへの信仰だけで永遠の命に与(あずか)れるのです。ローマ人への手紙6:23は言います。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」

 イエスが語られたもう一つのことは、私たちに関ることです。24、25節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至ります。」

 よく分らせるために、イエスは誇張した表現をされます。生れつき私たちの内にある自己中心的な自我に死ぬこと、すなわち、私たちが自分自身から解放される大切さを、イエスはお教えになるのです。

 25節「自分の命を愛する者」、つまり、自分の利益や満足、あるいは自分が人からどう見られているかなど、絶えず自分を中心に考え、自分に執着する人は「それを失」う。つまり、自分を駄目にし、自分を滅ぼすことになります。

 しかし、25節「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至」る。つまり、信仰により、古い自分に死に、自分への執着から私たちが解放されるなら、それは自分の内に救いの業(わざ)が一層豊かに展開される場を主イエスに明け渡すことになる。すると私たちは、永遠の命は勿論、この世でも神と人に喜ばれ、心からの感謝や深い喜び、清い満足などの実を多く結ばせられるということです。

 1997年、87歳で天に召されたマザー・テレサが、インドのコルカタで多くの貧しい人々に仕え、神にも人にも喜ばれる実を沢山結び、世界中に尊い影響を与えたことは周知のことでしょう。聖女と言われても変ではない人だと思います。

 しかし、実は彼女も自分が罪人であることをよく自覚し、自分を鋭く見つめ、自我から解放されることを主イエスに切に祈り求めた人でした。彼女には次のような祈りがあります。

 「主よ、私は思い込んでいました。私の心が愛に満ちていると。

 でも心に手を当ててみて、気づかされました。私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。

  主よ、私は思い込んでいました。私は何でも与えていたと。

 でも、胸に手を当ててみて、分ったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。

  主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しいことを。

 でも、胸に手を当ててみて、気づかされました。私が思い上がりと妬みとの心に膨れ上がっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。 」

 こうした真摯な祈りと信仰と共に、彼女は自分の生きる目的を、神と人に仕え、自分を捧げることに定め、主の喜ばれる実を結ぶ生涯を生きました。彼女の別の祈りはこうです。

 「主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日、私のこの手をお使い下さい。

  主よ、今日一日、友を欲しがる人々を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日、私のこの足をお貸しいたします。

  主よ、今日一日、優しい言葉に飢えている人々と語り合うために、私の声をお望みでしたら、今日、私のこの声をお使い下さい。

  主よ、今日一日、人は人であるという理由だけで、どんな人でも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日、私の心をお貸しいたします。 」

 パウロは言います。ガラテヤ人への手紙2:19、20「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」

 受難週の中の今日、私たちクリスチャンは、特に自分がイエス・キリストと共に十字架につけられ、つまり、古い自分に死に、代って主イエス・キリストが私たちの内に生きて働かれ、私たちをご自分の愛と宣教の道具として存分にお用いになり、そうしてきよい喜びや感謝、賛美などの実を結ばせて下さるように、心から祈りたいと思います。

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