2026年03月29日「あなたは今日、私と共にパラダイスに」
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あなたは今日、私と共にパラダイスに
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 23章39節~43節
聖書の言葉
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスを罵り(ののしり)、「お前はキリストではないか。自分と俺たちを救え」と言った。
23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「お前は神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 俺たちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られる時には、私を思い出して下さい。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」ルカによる福音書 23章39節~43節
メッセージ
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キリスト教の暦では、今年は今日からイエス・キリストの十字架の苦しみを覚える受難週に入ります。そこで、今朝はイエスと一緒に十字架につけられた二人の犯罪人の中の一人にイエスが十字架上で言われた43節の言葉、「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」に注目します。
マルコ福音書15:27によりますと、二人は強盗でした。十字架刑にされたのですから、二人とも相当悪かったのでしょう。しかし、死を前にして二人は真逆の姿を見せました。39節は言います。「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスを罵り(ののしり)、『お前はキリストではないか。自分と俺たちを救え。』」
この男はずっと人を罵っては、憂さ晴らし(うさばらし)をし、ということは、自分をごまかして生きて来たのでしょう。あと少しで死に、神の裁きを受けることになるこんな時にも悔い改めず、人を罵る!これは今までの生き方の積み重ねであり、死ぬ直前でも、自分と向き合うことも人に正しく接することもできない自分に、彼はしてしまったのです。何と愚かでしょうか。
ここに、私たちは自分の日毎のあり方が如何に大切かを教えられ ます。ヘブル人への手紙3:15は詩篇95を引用して言います。「今日(きょう)、もし御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。神に逆らった時のように。」
次にもう一人を見ます。彼は先程の男を「たしなめ」て(40節)言いました。「お前は神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。俺たちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。」彼は自分が間違っていたことを認め、十字架刑を当然の報いとして受け入れました。
自分の人生が間違っていたと認めるのは辛いことです。しかし、自分の罪を素直に認める本当のへりくだりから、救いの一歩は始り、天の御国は私たちに臨みます。イエスは言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ福音書5:3)。
更に教えられるのは、自分の罪を認めたことから、彼はイエスに対して正しい認識を持てたことです。彼は41節「この方は、悪いことを何もしていない」と言い、42節「イエス様、あなたが御国に入られる時には、私を思い出して下さい」と言いました。彼はイエスが全く罪のないきよい方で永遠の救い主であることを告白できたのです。
自分の罪と惨めさが本当に分る時、私たちは神が分り、イエスを救い主として心から信じることができます。宗教改革者ジャン・カルヴァンが『キリスト教綱要』第Ⅰ篇1章で言いますように、自分の罪と惨めさについての認識と、神についての認識は、表裏一体なのです。
ところで、この人はどうしてイエスが救い主だと分ったのでしょうか。マタイ福音書27:44によりますと、最初は彼もイエスを罵っていました。でも変りました。何故でしょうか。
無論、人間の救いは聖霊によります。ただ、それは究極の理由また原因であり、聖霊は人の心に起る何らかの変化を用いて働かれます。その辺りのことを知ることも大切です。
彼もイエスの噂を前に聞いていたかも知れません。しかし、決定的に分ったのは、十字架上のイエスのお姿に触れたからではないでしょうか。イエスは34節「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」と、何とご自分を十字架につけた人たちのために真っ先に祈られました。
あの十字架上で、イエスは誰をも罵らず、ペテロの手紙 第一 2:23が言う通りに「罵られても、罵り返さず」、何とご自分を十字架につけた人たちのために祈られたのです。彼はこういうイエスを横でつぶさに見て、救い主だとはっきり分り、信じたのではないでしょうか。
世の中には、不敵に笑って堂々と死ぬ人もいるそうです。けれども、イエスはどこまでも人の赦しを祈られました。こんな方がどこにいるでしょうか。彼はこのイエスを知り、イエスが神からの約束の救い主であることを、心底、信じたのでしょう。
この時、彼の肉体は最悪でした。しかし、魂にはどんなに大きな平安を得たことでしょう。
死を前にする時、今まで自分を正当化してきたどんな理屈も私たちを支えません。ホスピスでは「人は裸の自分にされる」と言われます。これまで、自分を支えていた肩書や名声、社会的実績、誇り、そして自己評価も、全く意味をなしません。私たちはありのままの自分、むき出しの自分で、死と向き合わなければならないのです。
しかし、そんな惨めな私たち、説破詰まった私たちをも、主は憐れんで下さいます。そして、ただご自分を信じ、受け入れ、依り頼む者を、天の御国に本当に入れて下さいます!このことを深く、しっかり心に刻んでいたいと思います。
さて、この人は42節「イエス様、あなたが御国に入られる時には、私を思い出して下さい」と言い、イエスは43節「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言われました。パラダイスという言葉は、コリント人への手紙 第二 12:4とヨハネの黙示録2:7にも出てきます。これは楽園を指します。天国と考えてかまいません。
イエスは「今日」と言われました。つまり、私たち信仰者は、いつ死んでも、「今日」その日に天の国に入れられるのです。何と感謝なことでしょう。
また素晴らしいのは、天国の内容です。天の御国をヨハネの黙示録21:3、4は「神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙を悉く拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」と言います。何と感謝なことでしょう。
そして何より天国は、イエスが「私と共にパラダイスにいます」と言われましたように、ご自分の命まで献げて私たちを愛して下さっている御子イエス、父なる神、そして聖霊なる神、つまり三位一体の神が、私たちと共にいて下さり、そのことを神はご自分の最高の喜び、最高の楽しみとしておられることです。
こういうイエスのお約束が、実際に死を前にしている人にとって、どんなにに大きな力であり希望であるかは、私たちも想像できると思います。イエスは、これを十字架のあの想像を絶する苦痛の中でもお伝えになり、そんなにまで私たちを愛していて下さるのです。
恵みをもう一つ確認します。それは、どんな重く、また多くの様々な罪を犯した人でも、死の直前に救いに与(あずか)れる可能性があることです。
もう一人の男の様子から分ると思いますが、私たち罪人の頑なさは、死を前にしても変りません。ですから、かつて私もクリスチャンになる前に友人から言われたのですが、「元気な間は好きなように生き、死ぬ前にクリスチャンになればいい」などと思うなら、それは間違いです。神の憐れみがなければ、私たちは決して自分では変われず、救われません。これは、大きな、そしてとても重要な警告です。
このことで聖書が言う言葉、すなわち、不信仰だったエサウについてのヘブル人への手紙 12:17の言葉、「彼はあとになって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした」を決して忘れてはなりません。この点で、もう一度、ヘブル人への手紙 3:15の御言葉、「今日、もし御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。神に逆らった時のように」をしっかり心に刻みたいと思います。
と同時に、犯罪人の一人が死の直前に救われた事実は、何と素晴らしい神の恵みでしょう。普通に言えば、この人がイエス・キリストに出会えたのは、余りにも遅かったと言えるでしょう。しかし聖書によれば、神は、ただ主イエス・キリストへの信仰による救いの可能性を、私たち人間の死の直前でさえ残して下さっているのです。
この犯罪人は、いいえ、彼だけでなく私たちも、これまでの人生で一体、どんなに多くの、そして様々な情けない罪を、それも分っていて犯し、不信仰な人生を歩んで来ていることでしょう。しかし、たとえ死の数分前、いいえ、数秒前でも、悔い改め、主イエスに赦しと救いを心底願うなら、主イエスは「あなたは、もう遅い。だめだ」とは言われません!それどころか、「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言って下さるのです!何という神の愛、御子・主イエスの愛でしょうか!
エゼキエル書18:23で神は言われました。「私は悪しき者の死を喜ぶだろうか - 彼がその生き方から立ち返って生きる事ことを喜ばないだろうか。」
神は、私たちがどんなに信仰が薄く、罪深くても、私たちが永遠の死、永遠の滅びに至ることを、決して喜んではおられません。私たちの救われることが、何より神の喜びなのです!ですから、誰かが死を前にしていても、最後の最後まで神の愛と救いを伝えたいと思います。
前にもお話したことがありますが、かつて私が淀川キリスト教病院のホスピスでお世話させて頂いた48歳の女性の最期を、思い出します。もう反応はなく、呼吸も間隔をあけて時々「フーッ」と、あるだけでした。しかし、主治医が「~さんは聞こえていますから、声をかけて上げて下さい」と言いますので、ご主人や友人がベッドを囲み、「お前と結婚できて幸せやった」、「~ちゃん、ありがとう」などと、労り(いたわり)と感謝の言葉をかけ、私は神の愛を短く伝えました。すると、亡くなる僅か3、4分前ですのに、彼女の目尻から涙がスーッと流れたのです。耳は聞こえるのです!神は救いのチャンスをこのように最後まで残して下さっているのです。
受難週が今日から始りました。あのむごい十字架上でも、なお罪人を憐れみ、救いを与えられた主イエス・キリストの計り知れない愛を改めてよく覚え、同時に自分の不信仰と決別し、また天を仰いで主をほめたたえ、親しい方々の救いを決して諦めず、どこまでも祈り、証し続ける決意の日々、決意の一週間にしたいと思います。