Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれた時から目の見えない人をご覧になった。9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業(わざ)が現れるためです。」ヨハネによる福音書 9章1節~3節 メッセージ 今朝は、天と地を造られた真(まこと)の神の独り子(ひとりご)で、私たちの永遠の救い主であられるイエス・キリストの大切な教えの一つに注目致します。 1~3節は伝えます。「イエスは通りすがりに、生まれた時から目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業(わざ)が現れるためです。』」 今から2千年前の古代社会のことです。日本でもそうだったと思いますが、ユダヤでも、目の見えない人、それも生れつきの盲人は、とても辛い思いで生きていたことでしょう。目が見えないため、仕事がなく、物乞いせざるを得ない人が多かったと思います。 ヨハネの福音書が伝えているこの人は盲人でしたが、身体的・精神的障害を負った殆どの人が大変辛い人生を余儀なくされていたと思います。 しかも、辛さはそれだけではありません。弟子たちはイエスに尋ねました。2節「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」 ここには、障害であれ病気であれ、不幸の原因を本人か親の罪にあると考えるいわゆる因果応報思想が見られます。「不幸には必ず何か罪の原因がある」として過去を遡り、原因を追及するわけです。 確かに旧約聖書の創世記3章は、神に背き、罪を犯した人類の始祖アダムとエバに、神は警告しておられたように罰を与え、そこから全人類、全世界に様々な不幸や悲惨なことが生じるようになりました。 但し、それは全人類に関係するのであり、特定の誰かがある罪を犯したから、必ず本人かその子孫に不幸が襲うというのではありません。神を頭から否定し、自己中心で罪深いことをいっぱいしているのに、この世では自分も家族も皆健康で、生活も裕福で幸せ、という例はいくらでもあります。 ところが、不幸なことが起ると、人は往々にしてその原因を否定的に過去に遡って捜そうとする因果応報思想に傾きます。多くの宗教では、「前世で悪いことをしたからだ」とまで言われます。でも、これを周りから言われた人はたまりません。ヨハネの福音書9章のこの盲人は、両親のことまで言われて、どんなに悲しく辛かったことでしょう。そして、どうしようもない絶望感と悔しさを感じたでしょう。 では、神の御子イエスは弟子たちの質問にどう答えられたでしょうか。3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業が現れるためです。」 イエスは因果応報的に過去に遡って「なぜなのだ?」と原因を否定的に探すのではなく、「この人に神の業が現れるため」と、むしろ「何のために」と、積極的に神が将来どんな大切な計画や目的をお持ちであるかを積極的に考えることの大切さ、尊さをお教えになるのです。これは何と大切でしょう! このことで思い出すのは、染色体異常でテトラ・アメリア症候群と呼ばれる障害のために、生まれた時から手足のないオーストラリア人のニック・ブイチチさんのことです。現在、43歳です。 彼についてとてもよく紹介している文がありましたので、それを参考にしながら、ご紹介したいと思います。ニックさんはご自分の生涯を以下のように語っておられます。 ニックさんが誕生された時、両親は医者から「大変残念ですが、腕だけでなく足もない状態です」と告げられました。「父はショックで言葉が出ず、母は赤子を抱くことができなかった。……僕の誕生は、両親を深い悲しみに突き落とすことになりました」とニックさんは語られます。「どうしてこのように生まれたのか、説明できる医者はいなかった。」「僕は両親が牧師という家庭で育ったので、イエスさまが僕を愛して下さっていることを頭では知っていました。でも僕は神様に怒っていました。『どうして神様は他の人のように、僕に手足を下さらなかったのか』と。そのことについて神様は何も答えを下さいませんでした。」 やがて思春期が近づきますと、当然、自分の将来を思い悩むようになられます。彼は語ります。「僕は貧乏くじを引いたんだ。決まった仕事についたり、結婚したり、子供を育てたりする人並みの幸せすら手にできない。一生、皆のお荷物として生きるしかないのなら、生きていても仕方がない。」 人生に希望を見いだせなかったニックさんは、「神様が僕の痛みを取り去って下さらないのなら、自分で取り除こう」と、何と10歳の時、自殺を試みました。湯船の中で体を回転させ、肺の中の空気を全部吐き出し、顔をお湯の中に沈めた。十、九、八と数を数えている時、両親が自分の墓の前で泣いている光景が頭をよぎりました。「もし僕が死んだら、両親、兄弟に一生大きな痛みを負わせることになる」と。こうして我に返り、自殺を思い止まりました。 「死にたい」という息子の気持ちを知った父は、ニックさんの頭をなでながら、「みんなお前の味方だ。どんな時でも私たちがついている」と言いました。「たったそれだけのことで、世界は輝きを取り戻しました」と彼は言います。 15歳の時、先程のヨハネの福音書9:3のイエス・キリストの言葉に出合いました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業が現れるためです。」 「この聖書の言葉を読んで、全ての答えをいただいた」と彼は言います。「僕は腕や足が与えられるようにと祈ってきました。そして与えられないことに不満を持っていました。でも、神さまはコリント人への手紙 第二 12:9を通してこう教えて下さいました。「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである。」 その神の言葉を頂き、「たとい与えられなくても、あなたを信頼し続けます」と祈るようになられました。「神様は状況ではなく、僕の心を変えて下さったのです。」 神は失われた手足を生えさせることはなさいません。しかし、手足がある以上の生き方を彼に与えて下さいました。つまり、「自分は何のために生まれて来たのか」を彼は見出したのでした。 その頃、彼は学校の生徒300人の前でスピーチをする体験をしました。彼は自分が乗り越えてきた数々の困難について、また自分の気持ちや信条について語りました。 すると、その話を聞いた一人の女の子が嗚咽し始め、そして手を上げ、彼にこう言いました。「そちらに行ってハグさせてくれませんか?」 ニックさんが彼女を招きますと、彼女は涙を拭いながら、彼を思いっ切り抱きしめ、こうささやいたそうです。「あなたのおかげで人生が変りそうです。」 ニックさんは「その時、自分にも誰かのためにできることがあるかも知れないと思った」と言います。 15歳で彼は神と共に歩む決意をし、4年後に洗礼を受けます。そして「自分の体験を語るのが僕の使命」と確信し、それ以後、講演者、伝道者として世界中を回り、学校、教会、刑務所、孤児院、病院、競技場などで自身の体験を語って来られました。 講演で、彼は必ず旧約聖書の中のエレミヤ書29:11の神の言葉を語ります。「私自身、あなた方のために立てている計画をよく知っている -主の言葉- 。それは災いではなく平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ」。 そしてニックさんはこう語って人々を励まします。「神様は僕に奇跡を現わすという計画ではなく、僕自身が誰かに対して奇跡になるという計画をお持ちになりました。その計画を最初、僕も両親も全く分かりませんでした。神様は僕だけでなく皆さんにも計画を持っておられます。どうか、あなたに対して持っておられる神様の『将来と希望を与える』計画に期待して下さい」と。 ニック・ブイチチさんの紹介はこれで終りますが、とても大切なことを私たちは一人一人教えられるのではないでしょうか。 私たちの人生は、主イエスが言われるように、「神の業が現れるために」あり、必ず大切な意味、大切な目的があります。このことを、今朝、私たちは深く心に受け止めたいと思います。天の父なる神の独り子、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、受け入れ、依り頼み、罪からの救いと永遠の命の祝福をいただくと共に、生かされている今、「神の業が現れるために」、特に他の誰かのために、神に十分に用いていただきたいと思います。 関連する説教を探す 2026年の日曜朝の礼拝 『ヨハネによる福音書』
今朝は、天と地を造られた真(まこと)の神の独り子(ひとりご)で、私たちの永遠の救い主であられるイエス・キリストの大切な教えの一つに注目致します。
1~3節は伝えます。「イエスは通りすがりに、生まれた時から目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業(わざ)が現れるためです。』」
今から2千年前の古代社会のことです。日本でもそうだったと思いますが、ユダヤでも、目の見えない人、それも生れつきの盲人は、とても辛い思いで生きていたことでしょう。目が見えないため、仕事がなく、物乞いせざるを得ない人が多かったと思います。
ヨハネの福音書が伝えているこの人は盲人でしたが、身体的・精神的障害を負った殆どの人が大変辛い人生を余儀なくされていたと思います。
しかも、辛さはそれだけではありません。弟子たちはイエスに尋ねました。2節「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
ここには、障害であれ病気であれ、不幸の原因を本人か親の罪にあると考えるいわゆる因果応報思想が見られます。「不幸には必ず何か罪の原因がある」として過去を遡り、原因を追及するわけです。
確かに旧約聖書の創世記3章は、神に背き、罪を犯した人類の始祖アダムとエバに、神は警告しておられたように罰を与え、そこから全人類、全世界に様々な不幸や悲惨なことが生じるようになりました。
但し、それは全人類に関係するのであり、特定の誰かがある罪を犯したから、必ず本人かその子孫に不幸が襲うというのではありません。神を頭から否定し、自己中心で罪深いことをいっぱいしているのに、この世では自分も家族も皆健康で、生活も裕福で幸せ、という例はいくらでもあります。
ところが、不幸なことが起ると、人は往々にしてその原因を否定的に過去に遡って捜そうとする因果応報思想に傾きます。多くの宗教では、「前世で悪いことをしたからだ」とまで言われます。でも、これを周りから言われた人はたまりません。ヨハネの福音書9章のこの盲人は、両親のことまで言われて、どんなに悲しく辛かったことでしょう。そして、どうしようもない絶望感と悔しさを感じたでしょう。
では、神の御子イエスは弟子たちの質問にどう答えられたでしょうか。3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業が現れるためです。」
イエスは因果応報的に過去に遡って「なぜなのだ?」と原因を否定的に探すのではなく、「この人に神の業が現れるため」と、むしろ「何のために」と、積極的に神が将来どんな大切な計画や目的をお持ちであるかを積極的に考えることの大切さ、尊さをお教えになるのです。これは何と大切でしょう!
このことで思い出すのは、染色体異常でテトラ・アメリア症候群と呼ばれる障害のために、生まれた時から手足のないオーストラリア人のニック・ブイチチさんのことです。現在、43歳です。
彼についてとてもよく紹介している文がありましたので、それを参考にしながら、ご紹介したいと思います。ニックさんはご自分の生涯を以下のように語っておられます。
ニックさんが誕生された時、両親は医者から「大変残念ですが、腕だけでなく足もない状態です」と告げられました。「父はショックで言葉が出ず、母は赤子を抱くことができなかった。……僕の誕生は、両親を深い悲しみに突き落とすことになりました」とニックさんは語られます。「どうしてこのように生まれたのか、説明できる医者はいなかった。」「僕は両親が牧師という家庭で育ったので、イエスさまが僕を愛して下さっていることを頭では知っていました。でも僕は神様に怒っていました。『どうして神様は他の人のように、僕に手足を下さらなかったのか』と。そのことについて神様は何も答えを下さいませんでした。」
やがて思春期が近づきますと、当然、自分の将来を思い悩むようになられます。彼は語ります。「僕は貧乏くじを引いたんだ。決まった仕事についたり、結婚したり、子供を育てたりする人並みの幸せすら手にできない。一生、皆のお荷物として生きるしかないのなら、生きていても仕方がない。」
人生に希望を見いだせなかったニックさんは、「神様が僕の痛みを取り去って下さらないのなら、自分で取り除こう」と、何と10歳の時、自殺を試みました。湯船の中で体を回転させ、肺の中の空気を全部吐き出し、顔をお湯の中に沈めた。十、九、八と数を数えている時、両親が自分の墓の前で泣いている光景が頭をよぎりました。「もし僕が死んだら、両親、兄弟に一生大きな痛みを負わせることになる」と。こうして我に返り、自殺を思い止まりました。
「死にたい」という息子の気持ちを知った父は、ニックさんの頭をなでながら、「みんなお前の味方だ。どんな時でも私たちがついている」と言いました。「たったそれだけのことで、世界は輝きを取り戻しました」と彼は言います。
15歳の時、先程のヨハネの福音書9:3のイエス・キリストの言葉に出合いました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業が現れるためです。」
「この聖書の言葉を読んで、全ての答えをいただいた」と彼は言います。「僕は腕や足が与えられるようにと祈ってきました。そして与えられないことに不満を持っていました。でも、神さまはコリント人への手紙 第二 12:9を通してこう教えて下さいました。「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである。」
その神の言葉を頂き、「たとい与えられなくても、あなたを信頼し続けます」と祈るようになられました。「神様は状況ではなく、僕の心を変えて下さったのです。」
神は失われた手足を生えさせることはなさいません。しかし、手足がある以上の生き方を彼に与えて下さいました。つまり、「自分は何のために生まれて来たのか」を彼は見出したのでした。
その頃、彼は学校の生徒300人の前でスピーチをする体験をしました。彼は自分が乗り越えてきた数々の困難について、また自分の気持ちや信条について語りました。
すると、その話を聞いた一人の女の子が嗚咽し始め、そして手を上げ、彼にこう言いました。「そちらに行ってハグさせてくれませんか?」
ニックさんが彼女を招きますと、彼女は涙を拭いながら、彼を思いっ切り抱きしめ、こうささやいたそうです。「あなたのおかげで人生が変りそうです。」
ニックさんは「その時、自分にも誰かのためにできることがあるかも知れないと思った」と言います。
15歳で彼は神と共に歩む決意をし、4年後に洗礼を受けます。そして「自分の体験を語るのが僕の使命」と確信し、それ以後、講演者、伝道者として世界中を回り、学校、教会、刑務所、孤児院、病院、競技場などで自身の体験を語って来られました。
講演で、彼は必ず旧約聖書の中のエレミヤ書29:11の神の言葉を語ります。「私自身、あなた方のために立てている計画をよく知っている -主の言葉- 。それは災いではなく平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ」。
そしてニックさんはこう語って人々を励まします。「神様は僕に奇跡を現わすという計画ではなく、僕自身が誰かに対して奇跡になるという計画をお持ちになりました。その計画を最初、僕も両親も全く分かりませんでした。神様は僕だけでなく皆さんにも計画を持っておられます。どうか、あなたに対して持っておられる神様の『将来と希望を与える』計画に期待して下さい」と。
ニック・ブイチチさんの紹介はこれで終りますが、とても大切なことを私たちは一人一人教えられるのではないでしょうか。
私たちの人生は、主イエスが言われるように、「神の業が現れるために」あり、必ず大切な意味、大切な目的があります。このことを、今朝、私たちは深く心に受け止めたいと思います。天の父なる神の独り子、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、受け入れ、依り頼み、罪からの救いと永遠の命の祝福をいただくと共に、生かされている今、「神の業が現れるために」、特に他の誰かのために、神に十分に用いていただきたいと思います。